

第138回 喪失されたパトロネージュへ(2003/02/03)
その人の名を挙げずにこのことを書こうとも思ったのだが、何度試みてもうまく行かない。だから、実名を挙げて書く。
昨日、裏千家の伊住宗晃宗匠が亡くなられた。まだ44歳の若さだった。その報を昨晩メールで受け取り、しばらく呆けた。いつもゆったりと構え、ときにはおっちょこちょいな面も見せた温かい人柄を思い出しつつ、僕は、そのあまりに早い死に、古の仲尼が語った「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず」という言葉を心中に繰り返し呟き、千々に乱れる心を鎮めようと必死であった。
僕がまだ京都にいたころ、宗匠が初めてテレビに出る番組を担当させてもらった。茶の湯については初心者も初心者だった僕は、不埒なことも申し上げたし、叱られもした。
宗匠は、恐ろしく幅広い人脈を抱えていた。僕が敬愛してやまない、勝手に私淑している松岡正剛編集工学研究所長とは肝胆相照らす仲であったようだし、昨年亡くなった田中一光さんなどともよく話をしていた。とりわけ、芸大教授の日比野克彦さん、ヴァイオリニストの古沢巌さん、俳優の辰巳琢郎さんらとは同年で非常に仲がよかった。そのあたりの話をするとき、宗匠は本当に楽しそうであった。
むろん、そうした綺羅星の如き逸材たちに比べれば、僕などは宗匠の人生の一瞬を軽く翳めただけの存在に相違ない。それでも、宗匠は、いわゆる京都貴族にありがちな、市井の人を見下す姿勢を見せず、われわれにも等しく暖かく話し掛けてくれた。その人柄がひどく偲ばれる。
伊住宗匠は、昨年暮れに家督を継いだ裏千家第十六代宗室さんの弟である。
京都の伝統ある家柄に生まれた育ちのよさは当然のこととして、次男坊の気楽さもあってか、とても気さくな人だった。家の権勢を傘に着ることなく、といって謙ることもなく、自分が生まれ育って存在している立場をごく自然に受け止めている、そういうふうに見えた。
宗匠は、遊び上手だった。京都の名家の人間はこのように洒落て遊ぶのだ、ということを身体で表現していた。昼の茶席では言うに及ばず、夜の祇園でも、先斗町でも、誰もが納得させられる風情を漂わせていた。
その遊びは、茶席にも持ち込まれていた。独特の露地に導かれる、針金のみで構成された田中一光氏の茶室は見事だった。日比野さんに掛け物のアレンジをさせたのも、松岡さんに京都に残る日本文化を縦横無尽に語らせる場を提供したのも宗匠だった。その様子を、宗匠は本当に楽しそうに眺め、語っていた。僕は、日本で言うところの「遊び」の究極の形を、現代に見たような気がした。
宗匠ご自身が、圧倒的に優れた芸術的センスを持っていた、とは思わない。しかし、芸術家の目をした人間と友情を結び、彼らに活躍の場を提供するという意味では、現代日本で随一の人だった。失敗もある。経済的に苦しいという噂も聞いた。それでも鷹揚とした人柄は変わることがなかった。
僕が京都に移り住んだとき、正直言って、京都を馬鹿にしていた。それは、「日本文化は京都にこそ残る」という東京で語られる言葉が、あまりにもオリエンタリズムで嫌だったからだ。
しかし京都を侮ってはいけない。もし残っているとすれば、京都にしか残っていないのだ。由緒ある茶室で名人の茶を一服することでしか、おそらく、利休の世界を垣間見ることはできない。薪能でしか、世阿弥の観想をのぞくことはできない。東寺の仏像群にしか、運慶の苦悩を察することはできない。
それと同様に、京都に数多生まれた芸術家たちを支える人間の姿を、僕は宗匠に重ねていた。上述の、現代の名士たちを河原者に比していいのかわからないが、僕にとって宗匠は、中世京都で、三阿弥に代表される同朋衆たちが作庭をし、あるいは観阿弥世阿弥が能を舞うのを心ゆくまで堪能しながら眺めていた室町将軍のような存在であったのだ。こういう人がいるから、この町の文化が続いてきたのだ、と。
京都の伝統文化を讃える進歩派知識人は少なくないが、その街に住んだ余所者から見れば、その文化を保たせているものは身分社会に他ならない。京都の町衆文化の精髄などといわれる祇園祭でも、山鉾の上に乗って笛や太鼓を鳴らす人たちと、下で車を引く人たちの間には厳然とした階級差が存在する。上に乗るのが「家持ち」と呼ばれる商店主らで、下で引くのは「長屋」に住む職人たちである。
京都の町に文化的な強さがあるとすれば、その階級を誰もが自然に受け入れていることだ。「階級闘争」を戦っている人たちですら、出発点においては自分の出自を意識し、了解せざるをえない。少なくとも、普遍的な平等などという理想を掲げていれば何とかなる、という能天気な人は少ない。
茶華道や寺院を筆頭とする「京都貴族」たちは、その階級意識を体現している人である。もちろん、社会的に圧倒的に優位にある。鼻持ちならないこともある。だが少なくとも、自分たちが属している階級に対して負荷される責任というものをわかっていて、それなりの事業を果たしていた。職人たちにそれなりの場所を与えてきたのだ。
それは、その家が代々社会的に期待されてきた伝統によって培われてきた、特権と責任の裏返しなのである。それこそが、わが国におけるパトロネージュというものだ。パトロネージュとは、バブル期の稼いだ金で、「社会の文化事業に還元します」と言ってハコモノを大量に作った一昔前の企業メセナとは雲泥の差がある。
繰り返しになるが、僕は、京都に移り住む前には、京都の文化は鼻持ちならないと思っていた。それは、東京の人間が、京都を日本の「オリエント」としてしか捉えられないことに起因しているのだが、一方で、京都のほうも東京に対して、「京都は日本の『オリエント』」としてしか自画像を提示できないことでもある。
だから、京都の現代のパトロネージュたちは、新しい試みができないでいる。京都の町に住んでいるかぎり、新しい試みに挑むことは、「日本の『オリエント』」としての京都の(いわば観光的な)自画像を壊してしまうことになるからだ。迂闊にやると京都の町から爪弾きに会う。
その点、伊住宗匠は絶妙の場所にいた。裏千家家元の次男という生まれは、言い方は悪いが何をやっても京都からも文句を言われないほど高い場所であった。と同時に、もし長男に生まれていれば自らが家元となる運命にあるわけで、遊ぶにはいささか背負うものが大きい。
宗匠は、その立場をごく自然に、そして存分に活かして遊んでいた。彼が提供した場でアーチストたちが存分に活躍すると、東京の人間もまた、オリエント的ではない京都の姿をそこに見出すことができた。当代一流の同朋衆たちの手になる作品には、紛れもなく、今は京都にしか残っていない日本文化のエッセンスが流れており、自在に表現されるそれらを眺めることが宗匠の楽しみだったのだ。それこそ、現代の京都に求められていることであったろう。そのように京都を語る場を作りえたのはひとえに宗匠の力だった。
宗匠亡き今、そのような役割を担える人材はいない。人の活躍は出自と金と能力に制約されることを思えば、宗匠のような人物はしばらく、いやもう二度と出ないかもしれない。
宗匠が楽しげに、現代作家たちとの出来事を酒の席で話してくれると、僕は、そういうことを是非語っていただけるか、あるいは、文章にして残していただきたい、ということをお願いした。言葉にすれば、他の誰かが同じ事を志したときのよすがになる。
だが宗匠は、自分の思いを言葉にするにはあまりに生まれがよく、そして、その果実をあまりに自然に受け止めて生きられた。「不立文字」が茶道の心であるとすれば、日常もまたそのように生きられた人だった。彼一人しかその役割を担える人はいないだろう、と思っていたが、あまりに早すぎる死に接して、失われた現代のパトロネージュへの追慕の情と、それが喪失されて後のこの国の文化状況を思い、僕はいささか暗澹としている。