第176回 「大国」と「小国」の構造変動(2003/04/27)

 

 北京で行われていた北朝鮮とアメリカ、そして中国の三者会談の席上、北朝鮮の担当官が核の保有を明言したという。むろん常識的なことを言えば、すでに原発を持っている時点でどの国も核兵器を開発する力はあり、そして、それを軍事用の核弾頭として実用化するためにはどうしても核実験が必要になる。そのスタートラインとゴールラインの間に北朝鮮がいるという意味では状況がさほど大きく変わったわけではない。

 ただ、核が明らかに拡散していることに対する憂鬱はある。このあたりの感情は難しい。いわゆる大国が核保有を独占していることを容認するつもりはさらさらないが、といって、核が周辺国に拡散していくことはより厄介な事態を生み出しそうに思われる。すでにインド、パキスタンが核実験に成功し、イスラエルと北朝鮮がその間際にいるというのはあまり気持ちのいいものではない。

 とりわけ、今回の北朝鮮の核保有宣言は、イラク戦争後、アメリカという大国が帝国の相貌で現れた後の事態の中で、これまでとは違った意味を持つ。そしてそれは、かの国を非難することを拒み、その内実に長い間目をそむけ続けてきたわが国の「市民派左翼」のこれまでの主張、なかんずく彼らの言うところの「北東アジアの安全保障」が意味をなくしてしまうだろう。

 

 先週号の「AERA」で、姜尚中さんが以下のようなことを言っていた。日本が、北朝鮮の核を非難するのは一方的過ぎる。なぜなら日本の米軍基地にはたくさんの核があるのであり、その核はいつでも北朝鮮に届くようになっている。その事実を無視して、北朝鮮だけが狂っているようにいうのは可笑しい、と。これは、日本の左翼のなかで長い間語られてきた文脈である。

 日本に核が存在することは否定しない。少なめに見積もっても、嘉手納、佐世保、岩国、三沢に核弾頭が存在するのは確実であり、それがいつでも北朝鮮に届くこともそのとおりだ。しかし、だからといって日本がアメリカの核の傘に守られていて、北朝鮮は無防備に晒されていると考えるのは、おそらくは日朝関係の歴史があまりに影を落としすぎている間違った考え方である。

 なぜならば、北朝鮮も同様に中国の傘の下にいるのだ。そして中国のミサイルに搭載された核弾頭は、いつだって東京を直撃することができる。その意味では、日本も北朝鮮も状況としては五分五分なのだ。だがなぜか、北東アジアの情勢論になったときに北朝鮮だけが取り上げられ、時には狂った独裁国家として、時には世界から見捨てられた被害者として論じられている。

 理念的に安全保障をこねくり回しても仕方がない。ここで重要なのは、朝鮮戦争以来50年にわたり、北東アジアで大規模な戦乱が起こさなかった構造が揺り動かされているということを考えるべきなのだ。

 

 それは「大国と「小国」という議論に行き着く。北東アジアでの主役であるアメリカと中国という「大国」が核を持ち、それ以外の日本、韓国、北朝鮮、台湾、フィリピン等々は核を持たない、という役割分担のもとで続いた平和なのだ。そしてこの構造を支える基本的な理念は、大国は「信用できる」から核を持ってもいいが、小国は「信用できない」ので核を持つことが許されない、というものである。これはCTBT等の核不拡散体制を根本的に支える考え方だ。

 むろん、アメリカ人が善人で北朝鮮がそうではない、という意味ではない。大国間には、冷戦構造で言うところの“MAD”=「相互確証破壊」による抑止力が働く。アメリカが北京をたたくことも、中国がNYをたたくことも、ICBM等の戦力をもってすれば容易である。しかし、攻めたほうも確実に反撃を食らうので、無傷ではいられない。そして大国であるがゆえに、失うものが大きすぎ、結局のところお互いが核を使用するには至らない、というのが「信用できる」という意味である。小国では、捨て鉢になって核を使ったりする危険があるのだ。

 この考え方に基づき、アメリカも中国も(そしてソビエトも)影響力の下にある国に核を持たせることはしなかった。その意味では、日本の米軍基地に核があることと、日本が核を持つことの間には大きな違いがある。そして、その論理的帰結として言っておくべきことは、北朝鮮が核を持つことと、日本の米軍基地に核が存在することは意味合いとしては決して同値ではない、ということだ。

 それは、ある構造のもとで続いてきた北東アジアの「非戦」状態を、その構造の部分を揺るがすことにつながるという意味だ。1994年の米朝交渉は、北朝鮮が国際社会と協調するかどうかという問題が問われていた。今回は、そういう単純な問題にとどまらず、いかなるかたちで北東アジアの「非戦」状態を維持するのかという選択の問題をはらんでいる。

 

 北朝鮮の行動は、大国の狭間で生きているということを無視して、平和憲法の理念を広めようと訴え続けてきた、左翼の人々の「北東アジア安全保障論」をも木っ端微塵にしてしまう。

 北東アジアの安全保障とは、僕の理解で言えば、まず日本が韓鮮中に十全な戦後保証を行い、その後、軍縮・非武装化を進め、日米安保を破棄し、北東アジア一帯に武器のない平和をもたらすことにある。そのときの中心理念となるのは、わが国が世界に誇る平和憲法、第九条である。だが、北朝鮮の行動は、これらのすべてを危機に追い込んでいる。

 それは、繰り返して言うが、北朝鮮を国際社会が追い込んでいるからでも、北朝鮮が国際社会に参画する道をアメリカと日本が一方的に塞いでいるからでもない。北朝鮮自身が、米中の両大国の狭間で生きる小国、という立場を選ばなかったからなのだ。

 そして、現在の、大国と小国という構造で成り立っている北東アジアの情勢を壊そうとする北朝鮮の行動は、その北東アジアの構造ゆえに主張することができたわが国の「平和憲法」の成立基盤をも揺るがしている。平和憲法は、おそらくは決定的な衝突に至らない米中両核保有国の間に、両派に分かれた小国が存在し均衡するという構造の中でのみ主張することができたのだ。核の傘の下にありながら、軍事も核も保有しないと宣言できる国においてのみ主張できたことなのだ。

 しかし今後、わが国は、核を保有する「信用できない」小国を前にして、非対等な丸腰を選択するのか、それとも、われわれも核武装するのか、という選択を迫られる。この選択は、日本だけでなく、韓国、台湾にも確実に押し寄せ、さらにはフィリピンやベトナムにまで広まるかもしれない。「核のドミノ化現象」というものがあれば、このことであろう。

 ドミノ化現象を防ぐためには、米中両国には協調を図ってもらいつつ、北朝鮮を経済的に支援していくよりほかない。日本はそのとき、拉致問題からも工作員問題からも目を背けるように、アメリカから求められ、それに従うほかないであろう。小泉首相がいう「国益」はまさにその線で進んでいる。そのことで、「非戦」状態が維持できるかどうかは可能性の問題である。ただ、米中の安定的協調を保つにしては、アメリカの最近の帝国的な行動は突出しているように思う。

 

 それが嫌ならば、米中両大国の勢力を排した独自の勢力圏を築くよりほかない。お好みなら、それを「大東亜共栄圏」のアナロジーと捉えていただいてもかまわない。諸々の人道的、政治的失敗はともかく、地政学的な観点から見れば、先の戦争とは、海洋帝国と陸上帝国の勢力が衝突する北東アジア地域に独自の勢力圏を築こうとする試みであり、そしてわれわれはそれに失敗した。分割を許したのだ。

 平和憲法の理念を広め、北東アジアに平和をなどという理念的な議論は、先の戦争を地政学的な観点から見ず、単に人道的に狂った軍部が先導した過ちとしてしか考えられない頭脳から生まれてくる。そしてそこでは、われわれが敗者であることも、小国であるということも見えていない。あるいは、1970年代の米中接近以降、見えないほどに狡猾にその構造が安定化されたのかもしれない。しかし今回の北朝鮮の行動は、その構造を可視化している。

 去年からの北朝鮮の行動は過去に比べて決定的に違ってきている。経済的にも政治的にも何の裏打ちもない北朝鮮は、アメリカの拡張主義を感じ、米中のバランスが近郊からアメリカ優位に傾いたときには、自国が「小国」であるかぎり体制が滅ぶことを理解しているのだろう。だから「大国」として扱ってもらいたいという願望が根底にある。アメリカとの「二国間協議」を求め、盟友であるはずの中国すら排除しようとする彼の国の姿勢は、大国アメリカと対等な立場でテーブルにつくことによって自らを「大国」として扱ってほしいという希望のみに発している。

 そして、北朝鮮は、大国になりたいならば核を持つしかないという現代国際社会のルールを図らずも示している。しかしながら、北朝鮮がインドやパキスタンのように核保有によって地域大国化を目指してもさまざまな限界がある。なぜならば、北東アジアは、両大国に分割を許した地域なのだ。もし、両大国の影響力を排除して再び独立した勢力圏を確保したいというのであれば、この地域全体が核化するよりほかない。

 その可能性は、上述した「ドミノ現象」の理論から見て、意外と大きく開けているように思う。北東アジア各国が武装し、核を持ったアジア情勢はもちろん現状より緊張しているだろうが、「非戦」の可能性はまだ未知数である。小国どうしにMADが働かないということはまだ証明できていないし、何より、米中という見た目以上に内部問題を抱えている両大国がいつまで安定的かを考えてみると、独自の勢力圏を確保することが安全弁として機能するかもしれないのだ。

 

 戦争に負けてからというもの、日本外交はひとつとしてアメリカの承認なしに政策を進めることができなかった。与えられた憲法九条は、日本の軍事化・核化への抑止として働き、一方で、アメリカが用意した経済発展によってドメスティックにも支持されてきた。

 だがそれはあくまで、米中両大国とその他の小国の均衡というこれまでの構造の上での話である。アメリカの拡大によって、そして本質的にはあくまで国内的な問題に起因するものの、アメリカの「脅威」によって崩壊の危機に晒されている北朝鮮の行動によって、構造は揺らいできている。守ることもできるし、変えることもできるであろう。

 日本にとってみれば、最も安価でかつ確実な発言力の確保の方法である「核化」の道が開かれたといっていい。無論、核武装するかどうかはより現実的な判断となるが、これまではアメリカの支配の下とドメスティックな世論によって議論することさえ許されなかった核武装への道が、「北朝鮮に対抗する」というロジックによって開かれたことだけは確かだ。

 核化への道はそう遠くないのかもしれない。北朝鮮の捨て鉢的な脅威が現実化した場合に、アメリカの100%全面的な恩寵に満ちた庇護を期待しない(それが常識的な判断だと思うが)ならば、日本には通常兵器でさらに武装するか核武装するかという選択が残される。しかし、成年男子の半分以上が戦争になったら「安全な場所に逃げる」と回答しているこの国で(それにしても「安全な場所」という回答を用意したほうもしたほうだ)徴兵は望むべくもなく、ならば核武装を選ぶ、という意見はきっと少なくないだろう。

 

 この北朝鮮を目の前にして、なおもアメリカに退場を願いつつ、武装化もしないという議論はありえない。それは、われわれ東洋人がアメリカの存在をほとんど知らなかったペリー来航以前に歴史を戻すというあまりに空想的な話であり、その意味での「北東アジアの安全保障」は(もともと破綻していたのだが)北朝鮮の今回の行動をもって破綻があらわになった。

 北朝鮮の、この21世紀初頭の行動が日本や北東アジア諸国に突きつけているのは、選択である。そして僕が言いたいのは、北朝鮮に支援を与えつつ現状の構造を維持するのも、どの程度になるかはわからないが緊張を覚悟して構造の変革に挑むのも、選択肢としては等価である、ということだ。今回の問題は、北朝鮮をどうするかというだけにとどまらない、国際情勢全般の転換点となる可能性を秘めている。


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