

第180回 「世界に一つだけの花」?(2003/05/08)
3月17日の日記に、反戦歌としてSMAPの「世界に一つだけの花」が使われているのが気に入らない旨を書いたら、いまだに反響のメールが来る。どれもレベルとしてはくだらないものであって、「だっていいじゃん、戦争反対ってみんな思っているんだから」という類のものである。かつて、薬害エイズを境に市民運動と乖離していった小林よしのり氏が「純粋まっすぐ君」と呼んだ連中よりもさらに性質が悪いと思うが、一応、なぜそれが気に入らないかを簡単にだがきちんと書いておこう。今後メールを寄せてくれる皆さんは、これを読んだ上で書いてきてほしい。
まず基本的なことからいえば、歌がくだらない。歌手もくだらない。琴線に響くフレーズもなければ、それを歌う技量もない。こんなつまらない歌しか反戦歌に使えないのか、というところで話を終わらせてもいいぐらいであるが、一応、それは好き好きである。
より本質的な話をしよう。
この歌は、含意としてすべての人間ひとりひとりが違った、すばらしい個性を持った花であり、その花を称えるべきだ、と言っている。優劣はないと言っている。だから、それぞれの命に軽重があってはならないという意味が生まれ、それが反戦歌として受け取られた理由だろう。何より、何とかして若者に受けたいと思っている市民派のみなさんにとって都合のいい歌に違いない。だが、本当にそうだろうか?すべての人間は、素晴らしい個性を持った花であるだろうか?
もちろん、人間の能力に救いようもなく優劣の差はあるが、僕の考えではそんなことは本質的な話ではない。より重要なこととしては、この世界に住む約60億の人間の中で、「花」を咲かせることができる人間はおおよそ1割にすぎない、ということだ。そしてそれは、本人の意思や能力というよりは、圧倒的に、環境に依存していると考えていい。われわれ人類が「ひとつひとつ違う種を持つ」ことはまあ認めてもいい。だが、そのすべてが花を咲かせられるとは限らないのだ。種には発芽率というものがある。そのときの養分の状況や天候、気温によって、花を咲かせられるものあれば咲かせられないものもある。
さて、我が日本は、一応先進国に属していてい、その国民のほとんどは、他の世界のほとんどの人々に比して圧倒的に豊かだ。発芽率の環境でいえば、最近管理まで行き届いた温室といってもよい。そのわれわれが、概ね世界に溢れている悲惨な状況のもと芽を出すことさえできずにいる圧倒的多数の人々に、「花は一つ一つ違って、それぞれに素晴らしい」と歌いかけたところで、何の慰めになるだろう。それは慰めどころか、ほとんど相手に対する思いやりのない冒涜である。
また、反戦歌としてわれわれ日本人がその歌を歌ったところで、世界の多くの貧しい人々にとっては、日本人は、アメリカ人と同じグループに属しているのだ。アメリカに対してそれを歌うのであれば、われわれは以下の二択を迫られるだろう。われわれの環境を悪化させ、発芽率を落としてまでも、他の世界の人々がより花を咲かせられるように、発芽率の平等を追求するのか。それとも、他の世界の人々が花を咲かせられないという犠牲を払いつつ、われわれの花を咲かせ続けるのか。
アメリカは、いささか宗教的に、後者を選ぶことをはっきりと言明している。日本はどうするのだろう?典型的左翼の人たちは、軍事費を減らして、世界にばら撒けばみんな豊かになる、とでもいうであろう。ならば、そのための環境を整えることをしなければいけないのに、そのビジョンがない。言うまでもないが、世界中がいまの先進諸国と同じ水準の発展を遂げれば資源は枯渇し、自然環境は人類が生きていけないほどに決定的に損なわれるだろう。そうでなくとも、世界が同レベルの発展を遂げたとき、格差を求めて動き回る資本の回転はとまり、全世界がゼロ成長という状態(それはそれで画期的だと僕は思うのだが)になるだろう。いったい左翼の人たちが、市民派の人たちが、それに耐えうるロジックをいままで一度でも編み出したことがあったか。
マルクス風に言えば、現実的な諸関係はある一定の構造を前提として成り立っている。そして、これは思想上の師であるところのヘーゲルがより明快に言っているのであるが、その言説的な裏打ちとなる理念は、諸関係そのものを後追いするかたちで、後出しで正当化するようにして生み出される。
だから、理念を変えようと思えば、現実の諸関係とその構造に働きかけなくてはならない。しかしそのような、現実的な、汗水たらす運動を現今の市民派は嫌い、理念ばかりを言う。だが、運動は敗北してはいないのだ(ここには、労組運動に対する真摯な反省という大事なテーマが転がっているのだが、残念ながら民主党も社民党も共産党も過去の失敗を隠蔽するばかりで学ぶ方向には行っていない)。
そうした現実的な諸関係から遮断された(われわれが食べる豊かな食品が、どれほどコロニアルな海外の農場や工場で作られているか、われわれは可視的に把握することができないし、そのような状況が作り出されている)この日本という、現実関係としても、精神的にも無菌状態の部屋の中で、あんなヘロヘロした歌を反戦歌として歌ったところで、何を現実に対して働きかけうるというのだ?デモ参加者が疲れたねーといいながらスターバックスで休憩しているような運動に!
上につらつら書いているように、日本の左翼には、やるべきことがたくさんあるのだ。なのに、現実的な運動に失敗したためにじゃあ理念で行こうよ、という何の反省も恥も外聞もない行動が最悪のかたちであの歌に露呈している。そこにはさまざまな問題を生み出している現実に目を向ける意志も努力もない。
SMAP自身を責める気はないが、しかし、先日の「SMAP×SMAP」であった、彼らが歌っているバックのモニターにアフリカの難民の子どもたちの映像を流すような演出は、正直陰鬱な気分にさせるものだ。
世界には、悲惨が満ち満ちている。そのかぎりにおいて、歴史は終わらない。社会学の基本的なスタンスのひとつが、そこにある。その視点を失ったどんな社会運動も、腐臭以外のものを放つことはできないだろう。