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第202回 「マニフェスト」の裏側は(2003/06/19)

 

 自称ナショナリストのMasa.Nとしては、この社会に横文字が氾濫しそれを使うことがファッショナブルでなおかつ分かったような気になるというような社会状況はきわめて気に入らないのだが、最近また新しい横文字が登場した。「マニフェスト」である。

manifesto=宣言(書), 声明書; 政見発表.(EXCEED英和辞典)

とある。綴りから分かるようにイタリア語だが、この「マニフェスト」をいま政治の世界に流行らしているのは、この春に三重県知事を引退したばかりの北川正恭さんだ。先日、家でニュースステーションを見ていたら、21世紀民間臨調の代表になったばかりの北川さんが出演していた。

 ニュースステーションの企画は、「あれから10年」というものだった。あれとは、1993年6月18日、自民党小沢グループの反逆により宮沢内閣の不信任案が可決され、その後の総選挙を経て細川護煕氏を首班とする非自民の連立内閣が成立したことである。

 僕はその成立を、大学の図書館の事務室にある小さなテレビで見ていたが、それでも興奮した覚えがある。生まれたときから自民党しか知らなかったのに、それ以外の政権が現実に成立するとは思いもしなかったのである。そして一方では、これが政治の混乱の始まりでもあった。その混乱とは、ごく簡単に言えば、誰かが新たな政治理念を打ちたてようとしては理念が理念に過ぎて失敗に終わることの繰り返しであったように思う。

 北川さんもまた、新進党や新党みらいといった、いまにしてみればそんな政党もあったっけ?という政党を渡り歩き、最後は大所帯の民主党に行き着いた。そして最後は、理念が失敗に終わらざるをえない永田町に見切りをつけ、地方首長の道を選んだ。

 皮肉で言うつもりはなくて、最近の、代議士が地方首長に帰っていく一連の動きの中で三重県は最も成功した部類である。県の事業に成長評価を導入して各部署の競争意識を高め、県民は顧客であると公務員に説く一方県民にも責任を求めた、典型的な企業主義的行政はそれこそ筑紫哲也さんや久米宏さんからもてはやされた。

 住民投票の意志を尊重し原発の立地調査を拒否する「民衆は」の顔を見せる一方、理屈をつけられない住民自治は容赦なく切り捨てた。わずか二期で退任した引き際のよさも見事ではある。その北川前知事が、退任直前に言い始めたのが「マニフェスト」である。

 それにしても、なぜ横文字でなければならないのか。

 

 使い慣れた日本語に、「公約」という言葉がある。では公約とマニフェストの差は何か。いろいろ理屈はつけられるだろうが、いちばん大きな差はファッショナブルであることである。その内実にあえて差をつけるとすれば、「公約」という言葉が使い古され、信用ならなくなってきたときに、半ば企業業績目標のようなかたちで政党に新しいタイプの「公約」を出させようという意味で、「マニフェスト」という言葉を使っているのだろう。

 実は永田町では、この程度の検討もなく「マニフェスト」という言葉が氾濫してしまっている。「首相はどのようなマニフェストをお持ちか」と、賢そうに見えるなら臆面もなく他人の言葉を使って聞いてしまう某野党第一党の党首はさておき(現に首相から「マニフェストとは公約のことだ」と言い返され、それ以上何も追求できなかった。考えていないからだ。)、ファッショナブルであることによって票を集めようという民主党(と同調する自民党の一派)とは違い、オリジナルの北川さんは「マニフェスト」にそれなりの信念というものを持っているのだろう、と思っていた。

 ところが、「ニュースステーション」を見てその期待はたちまち失墜してしまった。確かに理念はあった。だが、その実例として挙げられていたのが、何と、政権を奪還したときの、ブレア首相が表紙に映ったイギリス労働党のパンフレットであった。そのパンフレットに書かれた「マニフェスト」がいかに明快でかつ国民のためになり、自民党の「公約」がいかに駄目か、という調子で番組は進んでいた。

 驚くというよりも、呆れるほかはない。ブレア労働党政権がどれほどイギリスの一般大衆、つまり低中所得層の暮らしを追い込んでいるかは周知の事実だし、ブレア政権とそのブレーンであるアンソニー・ギデンスの理想的な考え方が結局のところネオ・リベラル(新自由主義)的な、社会保障費の削減等の政策につながっていることについては、僕も一度Co-Respondingのなかで簡単な論考を試みたことがあるとおりである。

 そこまで難しいことを言わなくても、先ごろのイラク戦争で真っ先にアメリカに追従して軍隊を派遣したイギリスの姿勢を皮肉たっぷりに批判していた先鋒はニュースステーションではなかったのかという気もするのだが、戦争が終わったらそのあたりのことはすっかり忘れているらしい。

 いまだに、「市民派」(もはや左翼でも右翼でもない、彼らの共通項は「自分は賢い」ということだ)の政治目標のシンボルとして、ブレア労働党政権が利用されているということに、正直惨めな思いがした。彼らの理想が、所得格差を広げ、教育などの公的投資を減少させ、挙句イラク戦争への加担につながっていることに、どうして気がつかないのだろうか。気がつかないふりをしているのだろうか。

 

 キツイことを言わせてもらえば、彼らは、気がついているのだ。そして無意識には、それこそが、将来自分たちが期待する社会像だと思っている。その社会像とは、このようなものだ。自分たちの政策を進めれば、多くの疎外者(マルクス主義者が使うのとは違う意味で)を生み出すことはないと思っている。それは政策が理に適っているからだ。そして、それでも疎外されていく人たちは、自分たちの能力不足、努力不足、「賢くない人々」として片付けられていく。

 企業であれば、ある程度はやむをえないと思う。(もちろん、企業だからといって勝手な解雇が許されるわけはない。その人の能力を見込んで雇用した以上、責任の半分はあるのだから。)能力の著しく欠けている人をカットし、コストを抑制し、利益を上げる。いろいろ注文はつけたいところだが、ある程度は当然のことと言えるだろう。

 だが社会は違う。われわれは、入社契約のような契約を結んでこの社会に参入してきたわけではない。企業の場合社長が明確な企業目標を打ち出すことができるが、社会目標を元首に決められてしまってはその国は全体主義へまっしぐらだ。能力の欠けている人はカットする、ナチスの優生学のように。優秀な民族を支配的地位において効率を高める、かつてわが国もそう言ったように。そうではなく、多様性を確保しつつ、ごまかしごまかしやり過ごしていくのが政治というものであろう。

 民主党(と、彼らと歩調を同じくする自民党の一部)派の人たちは、そろそろ社会のことを論理的に把握する努力を始めるべきだ。彼らは言うだろう。「自分たちは論理的に捉えている」と。それこそがファッショナブルの根拠だ。

 しかし彼らの論理の行き着く先は、いつも「誰々が駄目だ」というものばかりだ。あらかじめ方程式の解は決まっていて、その解が導き出せないのは不要な要素が入っていたり、誰かが変数をいじっているからだ、ということばかりをいう。

 左翼とは、そういうものではなかったのではないか。むしろ、そうした方程式を成立させている諸条件を問うことが、左翼のするべき仕事ではなかったのか。諸条件を問い、変革を行う先の目標はいろいろあるけれども、少なくとも、方程式からはじき出されそうな人たちにも最低限、人として衣食足りる生活を送らせ、その先では多様性を確保するということではなかったのか。

 彼らにとって、イギリス政府の現状と、ブレア政権当初の理想は何らつながるものではないらしい。ブレアが掲げた理想は素晴らしかったが、それが、ブレアというアメリカ追従型の政治家によって駄目になった、という責任をブレアにだけ押し付け、理想はいまだに称えたままである。その矛盾がどこから生まれてきたのかということを問う発想がないかぎり、公約だろうがマニフェストだろうが、言葉とスタイルの違い以外のものを生み出すことはないだろう。


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