第202回 沖縄戦から照らされるもの(2003/06/23)

 

 今日は、沖縄慰霊の日である。NHK的表現に従えば、「第二次世界大戦における沖縄戦で、日本軍の組織的な戦闘が終わった」とされる日である。最近の左翼の皆さんは、昔ながらの反戦運動をダサいと思っているようだし、また事実ダサいわけで、ともすれば「風化」しがちなことではあるが、こういう日はやはり忘れてはならない、と思う。

 別に正義感から言っているというよりは、より現実的な理由からそう思う。現実的な理由とは、たとえば、北朝鮮だ。

 

 先日、某ナショナリスト(僕よりも遥かに右)の知人と話をしていて、彼は、もし北朝鮮がミサイルを日本に撃って来ようものなら、日米共同で逆襲するのだと息巻いていた。息巻くのはよいとして、僕の懸念は、もし本当にアメリカ軍が同盟関係に基づいて確実に反撃してくれるのならばよいけれども(別に対米追従を容認するわけではなく、北朝鮮に対して少なくとも抑止力として機能する、という意味である)、そうじゃない可能性もあるんじゃないか、ということであり、それを彼に述べた。

 彼は、決してそんなことはないという。アーミテージも、日本への攻撃はアメリカ本土への攻撃とみなす、と言っているじゃないか。だがもし、と僕は粘る。こういうときは村上龍さんに倣って具体的に言ってみるのがいいことだと思うが、たとえば東京に核ミサイルが落ちてきたら、それは怒涛の反撃にならざるを得ないだろう。そんなことは北朝鮮はわかっていて、よほど捨て鉢にならないかぎり東京にミサイルを叩き込むなどということはありえない。

 だがしかし、である。東京の日本政府が、たとえば一地方都市を狙われたときに、全面戦争のコストがあまりにも高すぎる韓国やそれと同調するアメリカが日本に忍耐を求めることは十分ありうる事態なのだ。それを説得して北朝鮮に反撃を加えるほどに日本人の怒りが高まるためには、どれぐらいの都市がやられればよいのか、という問題が残る。どれぐらいの規模の都市がやられれば、「日本人」がやられた、反撃しよう、と思うのか。

 仮に仙台が狙われたとしよう。仙台だったら死者も相当数に上るだろうし、日米ともに反撃するだろう。新潟は?原発を狙ったという理由がつけば、反撃の根拠にはなるかもしれない。ではこれが北海道だったら?帯広とか、北見あたりに、日米韓関係にひびを入れるための軽いジャブのつもりでかの国のミサイルが飛んできた場合、どうするのか。

 ナショナリスト君は「絶対に反撃する」というが、どうだろう。僕はそれほど楽観的(それとも悲観的?)になれない。渋谷の街を闊歩している若者や丸の内の平穏サラリーマンの人たちの中にきっと生まれるはずの、「北見の報復をしたばかりに東京が再報復で狙われるんだったら、まあ我慢しようよ。自分の身に降りかかってきたことじゃあるまいし」という気持ちを封じ込めるだけの力がこの国にあるだろうか。

 現代日本が共同体として情けないほどに解体しているのは事実だが、そればかりが理由ではない。なぜなら、われわれ日本国は前科一犯なのだ。つまり、先の大戦で沖縄だけを捨石にして、本土決戦をしなかった。もし沖縄を日本の一部だと心底思っているのであれば、日本本国の領土で戦いになる前に矛を収めるか、それとも全土が焦土と化すまで徹底的にやるべきだったのを、沖縄だけを敵に与えてみすみす降伏してしまったのだ。

 

 つまり何が言いたいかというと、沖縄のことを日本人は日本と思ってこなかったのだ。沖縄戦の教訓があるとすれば、旧日本軍の非人道的な、非戦闘員への行為といったものもまあ大事だけれど、現代にとってより大事なポイントは違う。

 朝鮮や台湾はその後日本から離れたために、かの土地を日本人が「日本」と思わず、また、その地に住む人を「日本人」として扱ってこなかったことが十分公的に言われている。つまり、国家としては日本領であり国籍としても日本人であったが、民族としては日本人として扱われなかった人たちというのがたくさんいた。某政治家のように、朝鮮人が自分から創始改名を求めてきたということがあったにせよ、その前提条件に触れないのはいささかアンフェアだ。

 まあそれでも、朝鮮や台湾については議論が出来るが、沖縄や北海道については議論にすら触れられない。明治日本が持った主要な植民地が、北海道、沖縄、朝鮮、台湾の4つであったことは繰り返し確認しておくべきことだ。現代でこそほとんどなくなったがかつては沖縄出身者への差別というものも(昭和30〜40年代頃までは)公然とあったし、アイヌにいたっては「狩られた」も同然である。アメリカが、西部を開拓しつつインディアンを放逐したように。そして最終的には保護をした。その法律が「旧土人保護法」であった。

 そして、「国家」としての日本を拡張しようと言い続け、現に拡張を続けた戦前・戦中のナショナリストたちが、日本というものが危うくなったときに突如「国家」としてのナショナリズムから「民族」としてのナショナリズムに転換し、国体の護持などということを言い出した。とんでもない大転換である。

 お前は日本人(国家としての)だ、と言われ続けて、土壇場でいやお前はやっぱり日本人(民族としての)じゃないし、と言い捨てるのは、実に重大な「社会契約違反」であった。僕は天皇制支持者であるし、先の大戦を一概に否定するつもりもない。けれども、沖縄を捨て鉢にしておいて、ご聖断で日本を焦土と化すことから守ったもへったくれもありゃあしない。昨今のナショナリストたちが植民地支配を正当化するためにとみに称える、帝国軍人として戦地に赴き靖国に祀られることとなった朝鮮人や台湾人も、そんなのでは浮かばれまい。

 

 「社会契約違反」という言葉を使った。僕は、何らかの社会契約がなければ、常に強者が勝ち、弱者が甚振られるという構図から脱することができないというふうに考えており、それは正しくないことだと思っている。そして、沖縄戦とは、日本政府の「社会契約違反」を如実に示した事例であり、それを「ご聖断」という名のリアリズム(!)だと嘯くのであれば(現実にはそれがリアリズムでありうることはひていしないけれども)最初から社会契約など提示すべきでないのだ。

 社会契約についてさらに言えば、日本政府が「日本人」を保護することと、アメリカという国家が日本という国家を保護することは同じではない。国際関係上の通例に照らして、アメリカ人が他国から攻撃を受けてアメリカ政府に保護や反撃を求めることと、日本人が他国から攻撃を受けて日本政府に保護や反撃を求めることは同値だが、日本人が他国から攻撃を受けてアメリカ政府に保護や反撃を求めることは、前二者と同質であろうはずがない。

 そんなときに、「お兄ちゃん、僕を守ってくれるっていったじゃないか、お兄ちゃんの嘘つき!」などといってベソをかくほどみっともないこともないから、常に、アメリカが動かなかったときの自力での行動のオプションを確保しておくべきだし、その文脈においての有事法制にも周辺事態法にも賛成する。

 そしてより身近で大事な問題としては、日本は植民地を捨てて「国家」と「民族」のズレによる錯誤から解放されたと思ったら大間違いなのだ。現代に至っても、ナショナリスト君が激して言う「日本を守る」というときの日本に、沖縄や北海道がきちんと入っているか否かは常に検討しなければならない。何より、朝鮮半島情勢が不安定ないま、日本社会がどのような社会契約でもって在日の人たちと接することが出来るかも、問われている。

 

 繰り返すが、今日は沖縄「慰霊」の日だ。慰霊は大事だが、人道的なことや精神的なことのほかに、わが国が先の敗戦に至るまでに犯した現実的な、マキャベリスティックな失敗の記憶としても、沖縄のことを忘れてはならない。それは、記憶や慰霊の意識のように58年を経て風化した過去の問題ではなく、まだまだ、われわれの周りに問題として残存している現実のものである。


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