

第207回 週刊誌にありがちなネタによる三題噺(2003/06/29)
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最近話題の早大生らによるレイプ事件は、事実とすれば、なんとも救いがない。犯罪としていけないのは当然のこととしながら、しかし、救いがないことのほうが重く僕にはのしかかる。
「レイプするぐらい元気があるほうがけっこう」的な某代議士による失言は、僕が救いがないと思っていることを、老人ならではの繰言的安易な表現で言ってみたものだろう。彼の言いたいことは、たとえば「レイプ」ではなく「夜這い」とでも言ったほうがちゃんと伝わったのだ。
こういうことを書くと、また犯罪行為を奨励しているように思われているかもしれないが、そうではない。別に他の犯罪行為でも同じことがいえるのだが、レイプも夜這いも犯罪行為に違いなく、僕自身はそれをやったこともなければやる気もない。僕が言っているのはそういうことではなくて、誰かが「夜這い」なるものを敢行したとき、たとえば江戸時代の地方にはどこにもあった青年組織でもいいし、昭和に入って名を残した好色の大豪商たちでもいいけれども、そこには何がしか「賭ける」ものがあって、それはれっきとした罪として成立していたし、罪を犯すスリルも、遁走する力も、与えられる刑罰も何か重みがあった。
しかし、一度早大を退学になりながら再入学したという28歳の二年生に「罪」にまつわる重みがあるのだろうか。パラサイト・シングルと呼ぶのも馬鹿馬鹿しいほどの経済生活。そんな生活を送っている大学生が、酒を飲ませ、おそらくは薬も混ぜて意識朦朧とした女子学生を襲った後にいったい何が残ったのだろう。「事故だよ、事故」とでも言いたげな感性が現代風なのだろうか。
罪を犯すというのは、もうちょっと人間的なもんじゃなかったろうかと思う私はやっぱり古いのだろうか、とかつては思っていたが、最近では古いということがかなり確実なこととしてのしかかってくる。八王子の若者は道路に寝転んでいるところを注意されて腹を立て、そこまではわかるが注意した相手を車で追跡し頭部を蹴りまくって殺害した。10代の、いきなりナイフで刺す行動に至っては、である。
猟奇的な殺人とか、衝動的な犯罪というのはもちろん昔も今も変わらずある。人間の本性が、昔といまでそれほど変わったとは思わない。だけど、その事件を取り巻く社会は変わっている。もはや、犯罪に人間的な匂いがしない時代であるとすれば、かつてフーコーが言ったように現代では人間が波にさらわれる砂のように消えてしまったのかもしれない。重みがないという感覚も、単なる懐かしさ以上のものでないとすれば。
そのことを、実に安易に取り上げて見せた某代議士の発言はさらに感じさせるものであったし、その代議士にわざわざ鼻の穴を大きくして息高々と抗議文を渡して見せた野党のおばさんセンセたちの姿は、徹頭徹尾、この手の事件の救いのなさを証明しているようである。
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「おばさんセンセ」とか書くとまた怒られそうだ。僕は、フェミニストの人たちに嫌われているという意味ではアンチ・フェミニストではあるが、しかし、女性差別を企んでいるわけではない。
たとえば、野党の女性の議員さんたちに言いたいのだが、どうしてこういうときに男性議員を巻き込んで抗議をしないのだろう?彼女らがいう、男性と女性の違いを強調するなという論調はわかるし、某代議士の発言が女性に対する差別感に露骨に根ざしていることもわかるが、たとえどんな事件であれ「女性」であることをポイントに、つまりマイノリティとしての女性を根拠にして活動する時代はもう1970年代で終わっているんじゃなかろうか。
誤解を招きやすいことなので繰り返していっておくが、マイノリティの人たちにとって不利な社会環境を改善する努力は必要で、それは女性についても同様である。しかし、マイノリティが「自分たちはマイノリティだ」というネガティヴな自己規定を続け、その自己規定によってこの社会の中にポジションを確保しようとするかぎり、マイノリティがマイノリティとして置かれている構造を変革することはできない。
80年代のアメリカで流行ったジョークとして、「アメリカ社会でいちばん差別されて社会集団はWASPの男だ」というものがあった。WASPの男は、すべての点においてマジョリティであり、自分をマイノリティとして自己規定することができない。しかしこれはあくまでジョークに過ぎない。マイノリティ運動が、WASPの男性を社会的強者の組から引き摺り下ろしたわけではない。マジョリティの立場は確かに改善されたが、しかし、現実にはマジョリティのトップが「勝ち組」の仲間に入っただけであり、構造そのものは変革されていない。
女性だからこそ、女性を蔑視した発言に対して抗議するというのは理解できるし、間違った行動ではない。しかし、今回の失言のような一般性をもった問題が発生したときにこそ、構造を変えるきっかけをつかむ努力をするということが、フェミニズムの視点から見て有効なのではないだろうか。田島陽子さんとかだったら「国会は男社会だから」と開き直って努力を放棄するのだろうけど。
そういえば、もう代議士じゃなかったか。対話を拒否することによってフェミニストでありうるのであれば、そんなフェミニストはさっさと止めたらよい。
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今日は、朝早くから夕方まで組合の集会だった。
ところで、組合の役員を見ると、圧倒的に男社会である。もちろん女性の数が増えたほうがいいと思っているし、できれば半々のほうがいいと思っているが、そこで「半々にすべきだ!」と叫んだところで問題は解決しない。新たに参入した女性が旧来の「男」の役割を代行するだけで、構造は変わらない。
『トランスクリティーク』などに書いている柄谷行人さんの議論を拝借すると、われわれが生きている近代資本主義社会は、時間の経過とともに資本が回転しながら利潤を拡大していく仕組みが作られることによって成立した。その仕組みとは、生産者が商品を作って賃金を得、消費者がその賃金で生産された商品を購入する、という循環である。
ところで、この「生産者」と「消費者」は便宜上名前が違うけれども、同じ人間である。われわれは工場で働くときには生産者であり、家にいるときは消費者である。しかし、人々を標準時によって拘束し(これについては鉄道の普及が果たした役割が大きい)、一定の労働をさせるという資本主義の社会が形成されていく中で、男女の分業が男性=生産者、女性=消費者という役割が固定された。男女のジェンダー的な差異は、文化的な要因もさることながら、この経済的要因のほうが大きいと思う。
しかし、それだけならば役割の違いに過ぎない。それが男女「差別」として顕在化するに当たっては、スミス以来の近代経済学(=国民経済)がモノを「作る」ということに重きを置いてきたため、生産は消費よりも常に重く扱われていたことを想起しなければならない。いまだに「国民経済計算」の中に家事労働等が含まれないのはその証左である。
さらに、スミスの批判者として現れたマルクスは、生産局面において資本家が労働者から搾取したカネが資本であるとみて、生産過程おいて労働者が資本家からそのカネを奪い返すことを構想した。これが労働組合の始まりである。そして時代は変わっても、労働組合の基本的な役割は変わらない。労働者の処遇を改善し、雇用を守る。しかしその運動が生産局面に根ざしているかぎり、労組は「男社会」にならざるをえない。組合の中に女性の闘士が出てきたときに、よく「ローザ」という渾名を与えられるのは象徴的だ。
もちろん、フェミニスティックな「消費者=女性」の観点からの運動がなかったわけではなく、それはフェミニズム運動の交流と期を一にする「消費協同組合」(日本では「生活協同組合」の名称のほうが馴染み深い)の成立である。単に安価な商品を確保することのみならず、資本の論理では排除されがちな安全性などの観点も織り込もうとした運動だ。
こうした運動が無駄だとは思わないし、むしろその必要性はいま高まっているといえる。だが、所詮はゲリラ戦である。そして資本の力が圧倒的な現代にわれわれが生きている以上、抵抗戦線はゲリラ戦の形態をとらざるをえない。
ここが難しいところなのだが、ゲリラ戦しか道がないからゲリラ戦を戦わざるをえないのである。そして戦うべきなのだが、勘違いしてはいけないのはフェミニズムをはじめとするマイノリティ運動はゲリラ戦に過ぎず、決して正面切った全面戦争ではないのである。そして、ゲリラ戦であるかぎりにおいて有効なのだ。
それを、戦っている人たちが全面戦争だと勘違いしてしまい、自分を革命のナポレオンだと勘違いしてしまった時点で闘争は破綻する。別に他人の闘争が破綻しても構わないが、本来はその闘争が敵としていたはずの構造をさらに強化する方向に働くから厄介なのだ。
この時代に、何が答えというわけでもない。どうやら、この200年ほどの間に築かれてきた「人間」というものとそれに基づく社会が確実に崩壊に向かっているらしく、またその崩壊にはくだらない老人の繰り言や何の展望も理論も持たない空しいアイデンティティ主張のためのマイノリティ運動等が大いに力を貸しているわけである。
そして、そうしたくだらない言動によって、僕自身が敵とみなす構造はさらに強化されたかたちで再構築されている。そのことに僕が何の対応を取れるわけではない。しかし、繰り言によってリアリティを語ったつもりの保守派やら、フェミニズムの素振りをすることで正義漢(!)面している、人間というものにも近代というものにも労働にも生産にも構造にも無関心な放言連を見ていると、ひどく腹が立つ。それだけのことである。