

第226回 俗世の倫理に関するノート(2003/09/20)
−1−
この、平穏平板な国としては驚くべき事件であろうと思う。先日の、「軽急便」名古屋支店でのビル爆死事件である。
不謹慎とは承知の上で、痛快事と言っておこう。もちろん、巻き添えになった支店長、そして僕と同い年の警官にとっては憤りの極みであろうし、そのことは重々承知している。しかし、各マスコミが言うように単なる「卑劣な犯行」なのだろうか、これは。そう片付けてよいものなのだろうか、これは。
似たような事件として、たとえば一昨年、弘前での「武富士」放火事件を思い起こす。強盗に入った男が、逆に自分のやったことに慄き、明らかに動転し、その結末として灯油をまき、火をつけ、8人を焼き殺した。これはどこからどう見てもくだらない犯罪だ。
だが今回の犯人はそうではないように思える。勤務態度がどうであったにしろ、「給与振込み」を要求し、それを確認すると、ある程度人質を解放した上で挙に及んだ。最後まで行動は冷静で、理性的ですらある。この際、火をつける以上冷静ではない、などという野暮なことはここでは言うまい。
と、ここまで書いたところでIgarashi氏の日記を読む。言いたいことは、おおむね書かれてあるから、まずはこちらを読んでもらいたい。
「アウトソーシング」という美名ともいえぬ横文字によって、多くの労働者を何ら受け皿のない社会の網の目の外に追い出すことによって利益を上げる企業が讃えられるとは、かなり絶望的な状況である。それは、市場合理主義的かもしれないし、それが構造改革であるかもしれないし、論理的帰結であり、知性的判断であり、理性的であるかもしれないし、その「痛み」には耐えろとわが国の宰相は言うが、しかし、何か大きなものが間違っているように思う。
それは僕にいわせれば、「倫理的」でないのだ。知性/反知性を軸に、きちんとした扱いを受けるべき人間と、そうでない人間を選別していく姿勢は非「倫理的」なのだ。
−2−
いつか、「倫理」という問題を、「個人と国家」という関係や「道徳と倫理」あるいは「正義と倫理」という軸に即して書いてみたい。ちょっと、類似の他のページに比して、このページのレゾン・デートルをはっきりさせたいと最近思うのだ。
もう少し細かく言うと、こういうことだ。一介の小市民でありながら、国家規模の提言をサイトに載せ、政治をこき下ろしている人がたくさんいる。半ばそのために議論が混乱に陥っているところすらある。
「お前もそうではないか」といわれればそのとおりで、僕が書いていることも何の影響力もない駄文であるのだが、しかし、その駄文のレベルとは峻別して、その駄文を支える思考のレベルが存在していることは言っておきたい。そのレベルを僕は「倫理的」と呼んでいる。根底的なところでは、最初からそれについて書き続けている。僕にとっては、国家論をめぐる駄文も、その変奏でしかない。
このことはおそらく、読者のほとんどにもわかってもらえまい。かなり優秀な官僚の知人をたくさん持っているとは思うが、彼らのほとんどにもわかってもらえないと絶望はしている。わかってもらえていると確信できるのは海外在住のあるひとりの友人と、Igarashi氏だけである。
彼と僕が、たとえば、野中広務氏が総連からカネをもらっていようがどんなに腹黒かろうが、彼が在日について語る言葉には耳を傾ける必要がある、いや、清廉潔白な市民派の人ではなく彼だからこそ耳を傾ける必要がある、と言い続けているのはそれゆえである。
日本という国家がどこへ行くのかも大事だ。けれども、僕にとっては、僕自身がどのように生きていくのかがより大事だ。そして、僕が、南海の底で数百年を暮らすシーラカンスに生まれたのではなく人間に生まれた以上、その問いは他者とどう向き合うかということとつながる。そのことこそが、「倫理的」問題である。
−3−
これは、ビル爆死事件と関係ない話に思われるかもしれないが、そうではない。
企業が、個人と契約するときに、どのような契約を結ぶかは双方の恣意的な作用の結果による。しかしながら現実には企業が個人よりも圧倒的に強いのであって、その力関係を利して企業が己に有利な契約を結ぶことは簡単だ。それを押しとどめるのは、たとえば「契約」というものに関する「倫理性」である。
その倫理性とは何かと問われればこれは難しいのだが、たとえば、倫理について徹底的に考えたひとり、カントの次の言葉を僕は挙げておこう。
「何人も、他者を単に手段としてのみならず、同時に目的として扱え」
この言葉は含蓄が深い。その味わいは別に譲るとして、他者を単に手段としてのみ使ってしまった結末が、今回の事件の一端ではなかろうか。同様に、効率性を求められて過重労働を強いられた(に違いない)ブリジストン工場の従業員が火災の責めを負って自殺しなければならなかったのは、彼が単に手段として用いられたことの結末だ。死人に口なし。
そして、単に手段としてしか用いられなかった個人が、その憤りを晴らすために暴力に訴えることが「正しい」とまで僕は言い切れないが、意味のあることだとは思うのだ。今回死んだ犯人も、できれば支店長でなく、社長を狙うべきだった。企業がレイ・オフを気ままにやることは、実は、それほどリスクの高いものだということを知らしめるべきであった。それをある程度知らしめたことに対して、「痛快」を言おう。
あの爆発を肯定はしないけれども、爆音には一部の倫理的な響きが混じっている。その音が、たとえば構造改革を進める小泉さんや竹中さんに、また、単なる「卑劣な犯罪」と断じて済ませようとする市民派左翼に、また、最高利益を上げたき行にいながら「社会の目線」を理由に闘争を放棄し、自己保身に走り他の弱小労働者たちの運動を切り捨てたトヨタなどの組合貴族たちに、聞こえただろうか?
聞こえなかっただろうな。
でも覚えておくべきは、この問題が構造化されていることだ。トヨタ労組が「社会的通念」に照らして闘争を放棄するとき、その通念を保持しているのは、トヨタを攻撃しても身が傷つかない守られた人たちなのである。もはやメディアにも注目されない、「人」としてすら扱われない人々の声は声として聞き届けられない。口がなければ死人も同様だ。そして、彼らの声はついにガソリンの爆発音に化ける。
何でニュー・アカに溺れたビッグ・メディアの人たちがそれを理解できないのだ、いったい何を読んできたのだ、という憤りは当然湧いてくるが、しかし一方で、声なきひとの声を取り上げないことによって社会全体に「あなたたちも守られた人たちなのですよ」という安心を与えていくことがメディアの役割として構造の中で与えられている、という問題もある。構造化とは、そういう意味である。
循環的な隠蔽の構造を顕しめていくためには、どうしても「倫理」という視点が必要になると思う。そのことに関しては、右翼も左翼も関係ないのだ。それはおそらく、国家論とは別のレベルで語られるべきものだし、またそうしなければ、安易に国家論の中に回収されていく。右翼の側はもちろんのこと、左翼ですら国家論の中に回収されてしまうという罠から脱却するには、「理性」とか「民主主義」といった、近代という歴史の中で育まれてきた回路を意識的に切断するしかない。
僕にとってスノビズムとは、そのための、手段である。相も変わらずゲリラ戦だが、それよりほか方法はない。そしてそれは、北朝鮮を攻撃するためでもアメリカから独立するためでもあるが、はるかにそれ以上に重要なことは、爆死を選ばざるをえない50代のおじさんを、あるいは物言わぬまま自殺する労働者を再び出さぬため、である。