第235回 視聴率が悪者とは言うけれど(2003/11/02)

 

 日本テレビのプロデューサーが、視聴率調査の対象世帯に謝礼を渡して自分が担当した番組を見てもらうように依頼したという。

 もちろん褒められたことではないが、同業相憐れむ、というやつで、気持ちはよくわかる。僕もその筋の仕事をしているので、自分が関係した番組が電波に乗った翌朝、ビデオリサーチ社から送られてきたファックスがコピーされて各部署の机に置かれて回るときのどうにも嫌な緊張感はよくよく共感できる。傍から見るとどうやら能天気な仕事をしているように思われるかもしれないが、実は僕も、そんな視聴率システムの内部で働いているわけである。もし、適当な金額で数字が買えて、その行為がばれないという確証があれば、誰だってやりかねない。

 日本テレビの社長さんは、「問題の調査対象家屋は4件で、数字とすれば0.67%だからたいした数字ではない」と言っていたが、これは詭弁だ。朝日新聞に載っていた件のプロデューサーが担当した番組の数字を見ると、だいたい10%前後である。

 キムタクに金を積んで出演してもらい、30%超を記録する番組はまあ別としても、ゴールデンやプライムタイムの場合、視聴率20%なら大成功、15%ならまあ成功、10%なら一応商品としての存在価値はあった、という程度の評価であり、それ以下なら番組としての存在価値がなかった、と言われたに等しい。今回のプロデューサーの番組の場合、うち一本が10.7%だった。四捨五入がどうなっているかわからないけど、もし買収した4軒が見てくれていなければ9.9%だった可能性もあるわけで、プロデューサー失格の烙印を押されかねない数字だ。

 確かにこれは視聴率という名の「病理」である。しかも、立場的に弱い下請けの制作会社が動いたわけではなく、日テレ本社の正社員がやってしまったところに、問題の根深さがある。

 

 さて、毎日も朝日も鬼の首を取ったような論調だ。過激な視聴率競争が、こうした歪んだ不誠実な行為を生み出した、と。大いに結構である。がんがん、視聴率を批判してやってくれ。ただし、その言葉に意味があるのならば。

 もちろん、言いたいことは、そのような批判の中には何の意味もない、ということである。単に社説を飾って、蕩尽されていく空しい言葉であれば、語らぬほうがましだ。

 そんな空しい批判の代表格に曝されたことがある。京都に住んでいたころ、ある先生の案内で立命館大学で学生たちに何度か喋る機会があった。ここには、メディア・リテラシーの大御所である鈴木みどりサンの薫陶を受けた生意気な学生たちがいて、僕の話を聞いても「メディアの過剰演出」「意図的な編集」「視聴率にとらわれた番組作り」を批判するばかりでまったく建設的な議論にならない。

 左翼的疎外論のゾンビのような鈴木先生の弟子とは困ったものである。左翼論陣を張るのなら、マルクスぐらい読んでおいて欲しいものだと口まででかかる批判を押さえて、僕はこう語った。「番組は、見てもらえなければ存在しなかったも同じなのですよ。見てもらうためだったら何でもします」

 

 ちょっと理論的に語ってみようか。経済学を借りて説明しよう。アダム・スミスを始祖とする自由主義経済学の根本は、商品の価格は需要と供給の関係によって自動的に(神の見えざる手によって)決定される、ということにある。価格システムによって過剰生産、過剰需要は調整され、その商品が持つ価値に見合った適正な価格に落ち着くはず、というのが自由主義経済学(国民経済学でもあるが)の基本である。

 では、その価格に見合っているはずの商品の「価値」とはどうやってきまるのか?アダム・スミスは労働投下量、つまり働いた苦労(時間)によって決まる、と説明した。たとえば、コート一着を作るのに8時間かかったとして、ペン1本作るのに4時間かかったとする。そうすると、コート一着はペン2本分の価値がある、とみなされるわけだ。(労働価値説)

 これに異議を唱えたのがマルクスだった。マルクスが目にしたのは、せいぜい家内制手工業で暢気に商品を作っているアダム・スミスの昔ではなく黒鉛が煙突からも生もうと立ち上る世界の工場・イギリスのロンドンで、機械工業を支配する資本家が労働者をこき使っている様子であった。そしてマルクスは、大きくは以下のようなことをいった。

 「労働投下量によって決定された商品の『価値』にしたがって『価格』が決まるのではない。その逆だ。市場で決定された『価格』によって労働者の労働の『価値』が決定されるのだ…。」

 このマルクスの議論は、つまるところ、「商品の価値は、商品に内在しているのではなく、市場の需給関係によって決定される」というものだ。商品は、売れなければ、存在価値がない。商品経済の循環の中で、商品が売られるという瞬間に「死への跳躍」が待っていると、マルクスは言ったものだ。「ここがロードス島だ、ここで跳べ。」

 今日のターゲットであるところの、視聴率批判者の方々にはこう言っておこう。「あなた方は、『いい番組は(その内在的な価値に従えば)良質な視聴者によって見られるはずである』という前提をお持ちでしょう?」それはあまりにも能天気である。番組制作者にとって、チャンネルを回してもらえるか否かは「死への跳躍」であり、だからこそ、自分が生きているか死んでいるかを判断される翌朝の視聴率日報を見るときにはとんでもない緊張感に見舞われるのである。

 

 このような「批判」に無頓着に、視聴率を「非難」されても番組の作り手としては反応のしようがないし、「非難」も意味を持たない。メディアには多かれ少なかれこの議論が当てはまるが、特にテレビの場合、本や新聞、あるいは映画以上に「二度見られる」という可能性が少ない。十年後にある番組がリバイバルされるなんてことは、よほどの例外を除いてありえないし、リアルタイム放送のため「作品性」で勝負する度合いも少ない。

 このため、テレビは、一回きりの「死への跳躍」に固執せざるをえない。そして、その跳躍の結果を示す指標が視聴率以外に論理的にありえない以上、視聴率競争が激化するのは当然の成り行きなのである。

 

 これを批判するのに、ありもしない「理想の良質番組」と「理想の良質視聴者」の関係を夢想し、その関係に至ることを「視聴率」なる障害物が邪魔をしていて、結果、本来なら良質であるべき視聴者を劣悪な状態へと疎外している、などといった腐臭漂う左翼的な考えを以ってしてもまるで無意味である。

 もし、本当に視聴率重視の態勢を改めたいと思うのなら、システム全体の改変に取り組まなければならない。視聴率に必要以上にとらわれないメディアシステムが存在することができるか?という問いだ。僕は、あると思う。

 答えのひとつは、視聴者の「階層化」である。視聴率批判、大衆社会批判の行く末は、階層社会の到来という危険な問い(実はそんなに危険でもないと僕は思っているのだが、市民派左翼の方々にとっては危険であろう。もっとも、いちばん彼らがそのドアに近いところに立っているようにも思うのだが)に扉を開くことになるのだが、その勇気のないままに歴史の終焉点としての理想状態から批判をするのはあまりにもお気楽である。

 ではなぜ、階層化が答えになりうるのか。その詳細については、長くなったので次回に。

 


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