
第247回 去り行く老仏師のために・前(2003/12/03)
「天平の仏さんというのはですね…、」
と、やさしい語り口の老僧であり老仏師でもあるその人は、おもむろに、畳に置いた和紙にペンを滑らせた。その黒い筆跡は、太くなり細くなりして、やがて一本の人差し指を描き出した。
「こういうね、遠くを指すときのような指をしているんですが、」
と一言継ぐと、その隣にまた別の一本の人差し指を描き出した。そしてその指を自分の節くれだった指で指し、
「鎌倉の仏さんになりますと、こんなね、節くれだった力強い指になるんです。」
と言った。
日本人でありながら、その様子を描写する力を得ないのは恥じるばかりだが、しかしその二本の人差し指はまぎれもなく、天平仏のそれと、鎌倉仏のそれであった。どちらも如来像の指には違いないのに、確かに二つの指の絵の間には500年ばかりの時間が流れていた。これでも、一応、日本人である僕は、何のためらいもなく描かれた二本人差し指、かたや優美、かたや意志の満ちた指にすっかり魅入っていてどれほどの時間が経ったかも覚えていない。
京都洛西・愛宕念仏寺。昼ごろに訪れたはずであったのに、日はすっかり翳り、清滝へ続く隧道から洛中へと漏れて来る冷気が正座した足の指先をすっかり冷やしていたことを覚えている。
「美術院国宝修理所(京都市)の技師、所長として国宝級の仏像の修復に携わった仏像彫刻家、西村公朝(にしむら・こうちょう)さんが2日午前10時22分、大阪府吹田市の病院で死去した。88歳だった。」というのが朝日新聞の訃報である。もう少し文化部の記者にがんばってほしいところだが、しかし、まあこんなところかもしれない。文化勲章をもらったわけでも、人間国宝の指定を受けたわけでもなかった。
しかし、メディアへの露出も多かった公朝さんだから、テレビで見たことがある人も、本屋で著書を見かけたことがある人も多いと思う。88歳という高齢にしては異常なほどに、いろんなところへ顔を出していた。当然僕も、お会いする前から名前は知っていたし、本も読んでいた。
僕が最初にお会いしたときはすでに80歳を回っていたわけだが、ずいぶん矍鑠としたお姿だったのが印象深い。場所は、五百羅漢の並ぶ、愛宕念仏寺であった。僕はそのころ、京都中の社寺仏閣を回ってはかなりの数の仏像を撮影する仕事にめぐり合っており、その折々、必然として、西村さんに話を聞き、また考えさせられていたわけだ。何を考えさせられたかと言えば、当たり前のことのようであるが、仏像とは、長い歴史の中で何度も手を加えられたものである、ということを、だ。
最近はまた仏像ブームとやらで、モデルのはなさんが三十三間堂の千躰仏を背負って写真になっていたり、阿川佐和子さんが東寺講堂の持国天をバックにポスターに写っていたりする。
この国が千年にわたって維持してきた貴重な仏像をみんなで観よう、というのは悪い話ではないけれども、本質的には何かが違う。それは仏像を文化財として見る姿勢である。このことについては何度か触れているが、文化財、というとき、それは石造りかコンクリート製の博物館に収められた、展示品のことである。たとえば、ルーヴルにあるミロのヴィーナスのように。
しかし、日本の仏像は違う。地中深く埋もれ、人々の記憶から去った後に再び発見され、自分の由来とは何の関係もないルーヴルに収められたミロのヴィーナスと違い、日本の仏像たちは、長いものでは千三百年の間、人々の信仰の対象であり続けた。しかも、それぞれの歴史を背負って、寺の境内に鎮座してきた。日本の仏像は一度も死んだことがない。その上、壊れることはあっても朽ちることはない大理石と異なり、ほとんどの仏像は朽ちて割れる運命にある木でできている。
放っておけば、熱力学の第二法則よろしく朽ちていってしまうはずの木像を維持するためには、修理が必要なのだ。だがそこは、秘せられたものであっても常に人々の前にあった仏像である。修理は常に、時代を背負っていた。そのことを、明治以降に絞ってもう少し詳しく話したい。
今からおよそ百年前の明治30年、日本で初めて文化財を定める法律ができる。古社古寺保存法である。この法律に従い、初めて国宝(これは現在の重要文化財にあたる)指定がなされた。この法律の主眼は、オリエンタリズム風情に浮かれていた欧米各国に、日本の仏像や書画が骨董品として流れていくことを阻止することにあった。膨大な数の仏像が、この時期、海外に流出して行ったのである。
そして同時に、日本にも、諸外国に負けない歴史を背負った文化財があることを主張することが始まった。これが日本の文化財行政の始まりであったが、こと彫刻文化財、つまり仏像に関していえば、明治初期の廃仏毀釈のあおりを受けて、多くの仏像が壊されたり放置されたりしたままだった。
この修理を請け負ったのが、美術院第二部である。美術院は、東京美術学校(現在の東京芸大)をスキャンダルで追われた岡倉天心が茨城・五浦に作った、近代日本における新しい美術の創作・研究を行うサークルである。いまも院展を開く美術院は第一部で、橋本雅邦、横山大観、菱田春草ら日本画を生み出したのであるが、同時に第二部は、すでにある日本の伝統美術の調査・修理に携わったのだ。
この第二部を率いたのは、東京美術学校の一期生で天心の愛弟子であった新納忠之介であった。名字からわかるとおり薩摩士族の生まれで、美術学校を卒業後渡欧、近代彫刻をかのロダンに学んだ。その新納が帰国後、天心とともに仏像修理を始めたのである。