第248回 去り逝く老仏師のために・後(2003/12/03)

 

(承前)

 前置きが長くなったが、まだ若き日、彫刻の勉強のために法隆寺に通っていた西村さんを、仏像修理の道にいざなったのは新納忠之介であった。西村さんはしばしば新納の思い出話をしてくれたが、「ロダンを先生としてついたせいか、新納先生のお彫りになった仏さんはなんと言うか、洋風の顔でしたなあ」と笑っていた。

 それは、けなしているのではない。確かに新納の修理の後には、洋風の痕跡が認められる。日本の伝統美の象徴のひとつ、千三百年にわたって続いていた法隆寺百済観音の古拙の微笑(アルカイック・スマイル)は、実は新納が彫ったのではないか、と言われているほどだ。

 だが、それは時代の要請なのである。国宝修理に携わる技術者はみな、時代ごとの仏像の指を彫り分けるような高い技術を持っている。だがその高い技術の上で、修復・修理の上ににじみ出るもの。それは、修理者が背負った時代である。人は時代からは自由でありえず、それは死んだことのない仏像の修理においてはなおさらのことである。

 西村氏は、そのことをよく知っていた。思えば、平等院の阿弥陀如来を作った定朝一派からして、画期的な修理技術で名声を博したのだった。その定朝から七代下がった運慶・快慶父子は、源平の争乱すら利して仏像修理者グループの実権を奪い、東寺大仏師の権利を得ておそらくは東寺の仏像たちにことごとく実験的な修理を加え、その経験からあの巨大な東大寺南大門の金剛力士像を作り上げたのだった。

 その後も、どの仏像も、三百年から五百年に一度の修理を経てきている。そして西村さんの時代、つまりわれわれのこの時代、仏像修理者の仕事は、あたかも千年前からその仏様がその姿でそこに鎮座ましましていたかのように「思わせる」ことだった。それは文化財としての仏像の上に、さらに、観光資源としての仏像の意味が加わったものだった。

 ブームの狂奔の中、西村さんら修理者たちは黙して修理を続けたのである。明治の修理者たちを受け継ぎ、昭和へ、そして平成へ。西村さんの弟子だったある修理者が、修理を終えたとき、「これであと三百年は大丈夫でしょう」と言ったのが印象に強い。自分の生きる前から受け継いだものを、自分が死んだ後に残す。これが歴史ではないか。

 

 西村さんが修理を手がけた仏像は、ほぼすべての国宝仏といっても過言ではないほどだが、大きな修理でいうと、蓮華王院三十三間堂の千躰仏は、手が折れ、横倒しになった仏像たちのうちおよそ600体を西村さんが修理した。昭和14年から、出征をはさみ、終わったのは昭和32年という長丁場であった。冗談みたいな話だが、GHQは「そんな面倒な修理をしていないで、500体ぐらいはこっちに売ってくれ」と持ちかけ、それを断ったのも美術院であった。

 最古の仏像のひとつである太秦広隆寺の弥勒菩薩像は、昭和25年に現在の国宝制度ができたとき最初に指定されたもので、カール・ヤスパースが絶賛したので有名だが、この仏像の左手の小指を、参観していた大学生が折ってしまうという事件が起きる。この指を修理したのも西村さんである。それにしても、みごとな優美さだ。

 長い間、新納の後を継いで美術院国宝修理所の所長をしておられたので、大規模修理にも携わった。平等院の阿弥陀如来、東大寺の金剛力士像、三月堂の不空観音像…。

 

 忘れがたいのは、晩年の西村さんと一緒に撮影をしているとき、こんなことを言われたことだ。

「仏さんというのはね、蝋燭の灯りで見るものなんです。下から灯りが当たっていて、仏師はそれを計算して彫るんです。」

当たり前だと思ってはいけない。実は、われわれが美術本や博物館で見る仏像は、つまりわれわれが知っている仏像は、ほとんどが上からの照明なのだ。そのほうが、陰影がついてかっこよく映るのである。われわれは、文化財としての仏像のイメージしか与えられていないのだ。当然僕も、上からライティングをして撮影をしていたのであるが、西村さんの言葉を聴いてそのライティングをやめた。そして下からのか弱い灯りと、桟をくぐり抜けてくる自然光に頼った。

 会社に戻って、その映像はひどく不評だったけれども、西村さんに言われてそれを跳ね除けることは僕はできなかったのだ。西村さんはつまり、こう言ったのだ。文化財は撮っても仕方がない。仏像を撮ったほうがいい。

 そして、こうも言った。

「もう、文化財の制度ができて百年も経ちましたから、そろそろ仏さんを仏像に帰してあげてもいいと思うんですけどね。」

 単に僧籍にあった仏師の言葉と解釈するには、やや重過ぎる。この国は、いやおうなく近代国家として国を作らなければならなかった。着物を捨て、背広を着て、ネクタイを締めた。学校を作り、方言を捨てた。大和絵を捨て、文人画を捨て、洋画を学び日本画を作った。仏像を境内から博物館へ移し、上から照明を当てたのだ。百年前のことである。

 そのことがいけないと回帰主義に陥る必要はないけれども、その来歴を、知ることは大事だろう。仏像は、仏像だった。土に埋もれたわけでなく、ずっと人々から拝まれ、その寄進によって修理されてきた。文化財になったのはつい百年前のことである。

 近代国家・日本の迷走は、歴史を忘れたことにある、と僕は思う。前の戦争のことすらほとんど忘却されているのに、明治維新のことなど覚えられているはずもない。そんな時代に、西村さんは貴重な人だった。文明開化を知る人間に薫陶を受け、ほとんど歴史を忘れた平成の日本人に語ることをやめなかった人だった。

 そういうひとが、大往生の歳とはいえこの世から去っていったのはひどく残念だ。そして「仏さんを仏像に帰し」た日本を、西村さんに見てもらえなかったことが残念である。いつか、そんな日本のために、と思う気持ちはあるが、僕だってそれを見ることは覚束ないと思うと、西村さんがいなくなってしまったこともあいまって、いまはひどく心細い。

 


 トップページへ   孤言的時評一覧へ


[PR]女性が輝く公文の先生募集中!:全国で教室開設説明会開催