第259回 駄文雑文2003(2003/12/31)

 

 今年もたくさんの駄文・雑文を物してきた。ちなみに、過去記事一覧を見ると、去年の1月最初の記事が第130回で、この回が259回だから、この一年で159回が増えたことになります。とはいえ、そのうち半分は平家物語の連載に費やしていますから、実質80回程度の文章を書いてきました。それに、日記と、今年特別企画のBaseballdiaryが加わるということになります。

 この一年に書いた駄文・雑文を振り返りながら、2003年を振り返ってみたいと思います。

 

 今年はイラク問題を中心に外交関係が回っていましたが、今年最初に書いたのは、尖閣諸島問題を取り上げた第130回「暴支膺懲」でした。中国との関係はなかなか難しいままに継続しており、この12月にも、中台の市民団体が合同で「防釣フォーラム」なるものを開催しておりました。「防釣」とは、尖閣諸島のことを中国では釣魚台、と呼んでおり、それを日本に掠められるのを防ぐ、ということだそうで。来年も厄介なこの問題は続いていくと思います。

 1月20日に書いた、第133回「失われた世代の寂しきヒーロー」は、初場所中に引退した横綱貴乃花へのオマージュ。1970年代生まれの人間が、バブルとその凋落という経験を知ったわれわれが、この社会の中で生きていくことの課題と困難を体現していた貴乃花について。

 オマージュといえば今年は、この貴乃花については冗談でありますが、京都時代にお世話になった方を二人亡くしました。2月3日筆の第138回「喪失されたパトロネージュへ」と、12月3日筆の第237回「去り逝く老仏師のために」でした。もうひとつ、文章にはしていないけれども、9月になくなったエドワード・サイードの死もかなりの重さをもって僕にのしかかってきました。すでに僕の歳も三十を回り、人の死ということがいろいろと現実的な重みを持って迫ってくるようになっています。でも僕は、彼らの死を思いつつ、日本というものをまた考えていくことでしょう。その意味で、ナショナリストであり続けると思います。

 

 この一年、イラクでの戦争が起こったり、決してそれ自体に反対をしているということではないものの、何かなし崩し的に自衛隊派遣が決まったりしました。あるいは、経済回復の兆しが見えている、と政府・日銀が強調するなかで、自殺者は減らず、社会不安は増大しています。

 社会不安が増大するほどに貧富の差が拡大しても、一部のエリート層に手厚く金をかけ、数字としてのGDPを挙げる社会を選択するのか。それとも、かつてのような経済成長は期待せず、結果としていわゆる頭脳流失を被るかもしれないけれども、多くの国民がそれなりに食っていける社会を選択するのか。

 実は、この選択こそがいま日本に迫られているのだと思いますし、本来ならば、11月の総選挙の争点も、道路を作るか否か、首都高を無料にするか否か、公共投資を続けるか否か、イラクに自衛隊を派遣すべきか否かという問題ももちろんそれぞれに重要な問題なのですが、そうした問題を根本的に規定する選択があるべきだったんだろうと思います。

 もちろん、僕の選択は後者ですが、その選択を社会全体としてやらなければいけない。本当ならば、その選択を立法意志として、憲法から作り直さなければならないほどだ、と僕は思っています。が、まあそれはいい。いま必要なのは、現実的な政策論争、政策選択を意味あるものにするための、大きな選択をしなければいけない、ということです。

 その選択を不可能にする、そして隠蔽することに対しては、今年いろいろと書いてきました。若者から思考力を奪うヒット曲を告発した5月8日の第180回「世界にひとつだけの花?」や、イラク派兵をめぐって考えた6月14日の第199回「リーガル・マインド的憲法論」、保守自民党への心理的反発という風に乗って本質的なことを考えようとしない民主党への憤りを書いた6月19日の第202回「マニフェストの裏側は」などがそれです。

 その憤りは、旧来の仕分けで言うところの左右両方へ向けられています。最近ではSnobistは左寄りだという指摘も受けていますけど、6月23日に書いた第204回「沖縄戦から照らされるもの」や7月21日の第211回「心と戦争を語る」などを読んでいただければ、そうではないことがわかっていただけるはずと思っています。いずれも、喫緊の選択を隠し、回避させるかのような言説が、右にも左にも流布しすぎていることへの危惧を書いたものです。

 その意味では、国内のニュースとしては僕にとって今年いちばん感慨深かったのは、名古屋での軽急便のビル爆破事件でした。支店長を巻き添えにして自爆した犯人は、いったい何を言いたかったのか。そのことを伝えてくれるメディアはありませんでした。そしてあまりにも早く、事件は忘れ去られ、NHK以外では今年一年のニュースの中にすらほとんど入っていません。

 こんな事件、おそらくは重要な事件ですら、「テロ」というその定義もあやふやな言葉の範疇に押し込められてしまい、その押し込めることが何かを隠す。その隠すものを見据え、戦うことが、来年の生き方になっていくでしょう。この社会を覆うリスクは、自衛隊派遣、経済不安とともに増大しています。12月9日の第251回「ひりひりする感触の回復」で書いた、「ひりひりする感触」はリスクの増大とともに、今後の日本人の生活を少しずつ、新たに規定していくことになるでしょう。

 

 今年も忙しい中、いろんなものを見てきました。映画マトリックスの稚拙さはまあ笑うとして(第197回「マトリックス・リローデッド評」、第244回「マトリックス・レボリューション評」)、印象深かったのは土門拳の写真展(第219回、第220回「土門拳・全仕事傑作展評」)。日本というか、自分の生まれた国を、それぞれの時代の中で見つめる視線というもの、そのあり方に感銘を受けました。

 そしていちばんだったのは、第182回「アルゲリッチ音楽祭東京公演」。今年いい思い出といえば、アルゲリッチとマイスキーの存分な演奏こそを愛してやみません。その、アルゲリッチの、余裕たっぷりな力強い響きのように、来年を生きていければと思います。

 

 今年も、ご愛読ありがとうございました。読者の皆様にとっても、来年が、思い通りの一年となりますよう。


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