

第265回 哀れなり近代国家日本(2004/01/10)
本当にひどい話である。憤りを越えて、絶望的にならざるをえない話である。石破茂防衛庁長官が報道各社の幹部を防衛庁に呼び出し、イラクに派遣される自衛隊についての「現地取材の自粛」を要請した。(こちら)「現地での安全確保に責任が持てない」という理由である。
福田官房長官はさらに踏み込み、自衛隊の活動の詳細(基地の場所や構造)等が報道されると隊員の安全にも関わる、とした上で、「自粛の要請は当然」とのコメントを出している。小泉首相のコメントは「皆さんの安全にも配慮しながら、この日本の、貢献の様子を伝えていただきたいということでしょう」というふうに報道されているが、これではまったく意味がわからない。
そう表現するには、いささか迫力と緊張感が欠けていて軽薄な感じもするが、やはりこれは「大本営発表」の復活である。
前の戦時中、各部隊の行動についての報道は制限されていた。それどころか、兵隊さんが戦地から家族にあてて書いた手紙もすべて軍部によって目を通され、軍事上の機密、つまり部隊の兵員の数、装備、居場所、攻撃の様子や被攻撃の様子を思わせる記述はすべて墨で潰された。その情報が敵に漏れることを防ぐためである。
戦争は悪だ、という基本的な主義主張もあるだろうがそれはともかくとしよう。このような報道管制は、戦争になってしまえば、やはりやむを得ない側面でもある。大事な兵隊さんの命をみすみす危険に曝すわけにはいかない。さらにいえば、やり始めた以上は、戦争には勝たねばならぬ。負ければ悲惨なことになる。いまの日本のように。それが勝つためであれば、致し方ない。
しかしである。今回は、首相をはじめ政府は繰り返し、「自衛隊は戦争に行くのではない」と言明し続けてきた。戦地に行くのでないのであれば、民間でもいいだろうという至極当然な議論に対しては、「自衛隊でなければできないことがあり、自衛隊のほうが危機管理能力も高い」と理屈をつけた。それでも戦争に、戦場に行かないことだけは変わらない。
なのに、である。戦争に行かないのに、なぜ報道管制を敷く必要があるのか。いまのマス・メディアの状況が、記者クラブ制度に護られた「御用情報」しか流しておらず事実上の報道管制だという問題点は確かにある。しかし、同行取材を拒否するということは、諧謔的なレポートの機会すらも失ってしまうことになる。
こんなことには、各社のスタンスを超えて断固反対し、強硬に取材に出かけなければならない。そうしなければ、せっかく、自衛隊が外地へ行くという大きな決断をした、その成果、つまり、日本人が60年ぶりに生のままの外国へ出かけるという「ひりひりした感覚」という大事な経験を封じられてしまう。その損失は限りなく大きいだろう。
さて、そこまではどこの新聞にも書いていそうな正論だ。ここから先は僕の議論。
イラクのことについては考えることがあまりにも多すぎて、小泉首相は脳味噌が思考停止になりつつあるようだ。それよりも問題は、外交・防衛問題でフィクサーを気取っている福田官房長官の姿勢にある。もうみんな過去のこととして忘れてしまったかもしれないが、田中前外務大臣更迭と川口現大臣の登用をめぐって、実に腹黒い画策を講じたと思しきは、この人であった。僕は好きじゃない。好きじゃないけど、腹黒いことは政治家として恥ずかしいことではない。
だがさらに畳み掛けていえば、この人のやっていることはどうもスケールが小さく、ただの小役人的な匂いがする。好意的に解釈すれば、昭和52年、「人間の生命は地球より重い」というおよそ政治家とは思えない決断をしてハイジャック犯の要求に応じ、国際手配犯の赤軍テロリストをみすみす釈放して(その犯人たちが、その後どれほどの殺人行為に関与したか!)世界中を唖然とさせた父首相の汚辱を晴らすべく、リアリズムに邁進していると思えなくもない。
けれども、21世紀の、仮にも先進国日本で、「民はよらしむべき知らしむべからず」と言い放つのはいかがなものか。それとも、日本の政府はもはや日本の天下国家について論じる気力も能力もなく、ただただ米国の意向を伺って行動する「国務省東京出張所」が官邸であり、官房長官はそこの小役人である、ということを、隠そうとする意図とは逆に露呈しているのであろうか。
事実、日本のマスコミの「報道」というものに対する軽侮の念をこの人は隠そうとしない。だがそれは基本的には、政治家の考えることに“市民”が介入してくるのはおこがましいという強権的な姿勢に基づく軽侮の念である。そのくせ、市民に対してみずからの天下国家像を披瀝する機会を設けることにすら逃げ腰なのである。
われわれは、忘れてはいけない。道路公団改革をめぐる法案作成の過程が、国土交通省のなかでしか議論されておらず、公開されないことを批判的に質問した記者団に、「作成途中の法案を見せなければいけないんですか?検閲ですか、それは?」と言い放ったのは福田官房長官であった。検閲!もう少し遡れば、周辺事態法をめぐる議論の中で、小渕内閣時代の国会答弁と現内閣の解釈が違うことを質問され、「前の内閣の法解釈に束縛される必要はないと思うんですが」と、黒海の議論に縛られない恣意的解釈の意志を堂々表明したのもこの人だ。
そして今回の、報道管制。いったいこの人は、国民を、いや国民の「知る権利」を、いやこの国のことを、なんだと思っているのだろうか。真剣に考えたことがあるのだろうか。
「国民」とか「知る権利」とかいう言葉を恥ずかしげもなく使うのも何なので、議論を少しだけ細かくしておこう。
法学を学んでちょっと詳しい方なら、前段の僕のコメントにひとつの瑕疵があるのを発見しただろう。それは、官房長官の「前の内閣の法解釈に束縛される必要はない」という言葉である。僕はこれを批判的に捉えているけれども、法学的には官房長官の発言は間違っていない。
法律の文言は、六法全書を読めばわかるとおり、客観的すなわち無味乾燥なものであるし、そうならざるをえないものである。だから、法律を読んだだけでは、いったいこの法律が何のために、どういう意図のもとに作られたかはわからない。それを知るためには、法案審議の過程を読むしかない。具体的には国会の議事録や省庁の会議録ということになる(これだけでも、国交省の議論の内容を知りたいと思うことが「検閲」でもなんでもないことが分かる)。
そこに現れた、法案作成の「意図」を「立法意思」と呼ぶ。そして法学の世界では、柔軟な法の運用を確保する意味でも、一般法は立法意志に縛られない、というのが基本的な考え方だ。だから、官房長官のコメントはそれ自身としては間違っていないのである。
だがそれは、一度決まった法律の解釈と運用は全面的に政府の手に握られている、ということではもちろんない。一般法とは別に、立法意志を参照されるべき法律がひとつだけ存在する。
それが、憲法である。
憲法だけは、立法意志を常に問われる法律なのである。それは「国家」と「市民社会」の間に取り交わされた、「この国の体制や法価値観はこのようにしましょう」ということを取り決めた契約であるからだ。大袈裟に言えば、天下国家のビジョンが憲法には盛り込まれているし、それが入っていなければ憲法としての機能はない。一般法の解釈は、この憲法の立法意思の範囲内でのみ許される。
官房長官のコメントは、憲法に表記された「言論・表現の自由」ならびにそれから派生した「知る権利」を、完全に蔑ろにしている。このことが腹立たしいし、情けないのである。
腹立たしい、情けないという感覚はなかなかわかってもらえないかもしれない。何せこの国では、一度たりとも、まともに「近代国家」ということを考えてきたことがなかったからだ。最初の憲法は天皇から与えられ、次の憲法はアメリカから与えられた。憲法が、市民社会と国家の間の契約であるという事実を考えることもなく、したがって、市民社会がどのような国家を望んだかということは、考えられたこともなければ問われたこともないのである。
僕はナショナリストであるが、その意味では、モダニストでもある。近代が獲得したいろいろなこと、文盲の減少、身分制の廃止、男女の平等といった施策を、僕は守るべきであろうと考えるが、その前提は憲法だ。憲法がなければ、近代国民国家は成立しない。
もちろんこれは「平和憲法を守れ」といった思考停止型の“護憲”とはまったく違う。簡単に言えば、自主憲法が必要なのだ。その憲法の内容が、軍事国家を志向するのか、経済国家を志向するのか、平和理念国家を志向するのか、それはどうでもよい。ただナショナリストとしては、それが「日本国民統合」という言葉に代表される市民社会の意志であれば、僕はこの国にとどまるであろう、ということである。その点においては左翼と峻別してほしい。
一方では、この国が「近代」の諸要素、つまり、市民社会と国家の契約という基本的な考え方に立脚する気がないのならば、(諸事情はあるにせよ)いつだってこの国を見捨てることにためらいはない。その意味では、現在の小泉=福田体制が何となくそちら側を向いている「リアリズム的ナショナリズム」とでも言うべきものには僕はまったく与しえないし、それを支持して近代の所産を否定する「ナショナリスト」たちの議論もわからない。
具体的には、たとえば、「女が家を出たから子どもが生まれなくなり、生まれた子どもの素養が悪くなり、治安が悪くなったのだ」などと言い放つ自民党のご老体たちやそれに付和雷同する学者たちである。彼らは、日本に無理やり根付かされた近代がいけないのだ、それを取っ払えば昔の調和の取れた村落共同体(その拡大版こそが「天皇の赤子」なのだが)を再現できるという。
僕は彼らにも決して同調し得ない、というかどちらかというと彼らのほうに同調し得ない。彼らは、僕のような議論に対しては観念的と嗤う。どうぞ嗤うがよいが、僕にいわせれば、彼らが依拠するところの「ナショナリズム」なるものが、結局は市民社会と国家の契約に基づいた「近代国民国家」のなかから生まれてきたという皮肉、困難への感性のなさに安住しているだけなのである。
繰り返しになるが、僕は、イラク派兵そのものを否定しない。しかしそのためには、アメリカのご機嫌を取ることが国益、あるいは政権を維持する方法だという、小泉さんがどんなに「自主的」と言い募っても隠しようもなく全国民に知れ渡っている事実を認めなければいけない。そして、その政策を憲法の枠内で支持するためには、市民社会と国家の間に、「敗戦という現実があった以上、当分の間、甘んじて米国の属領として生きることに国益の活路を見出す」というビジョンに基づいた契約が必要なのである。
日本の憲法は、すでにして表と裏がある。表は「平和憲法」であり、左翼の人たちはそれにすがるが、一方で裏は「米国属領」としてしか国益を追求しえない仕組みになっている。この構造もそろそろ言明したほうがよい。さらに困ったことには、これが戦後日本人の自主的な選択ではない、ということだ。何となく占領下でスタートした憲法を、表裏ともども何となく追認してきたのが戦後の歴史である。姜尚中さんなどは、平和憲法を骨抜きにしてきたことがリーガル・マインドのなさの象徴だというが、そもそも、自分たちで決めたわけではない憲法にどうやって責任を取れというのか、というのも一理なのである。
だからこそ、どっちでもいいから自主憲法が必要なのだ。僕は、押し付けられた憲法を日本国民が熱狂的に事後的に肯定したからそれには正統性があると主張する左翼は理解できない。そう考えるにはあまりにも、市民と国家の契約がなさすぎる(その観点から憲法を問い返すことすら過去に一度もなかった)。同時に、リアリスティックな観点から、憲法の立法意思の不在をいいことに「国威発揚」を目指すナショナリストにも与しえない。彼はナショナリズムの本質を取り違えており、そういう人たちは結局「江戸時代へ戻れ」という主張しかすることができない。
文章が長くなったが、福田官房長官のつまらぬ権威主義に激して書きたいのはこの程度である。まだ説明が不足なのは、憲法を含めた近代国民国家の成立の歴史、そして、その近代国民国家というものがネオ・リベラリズムの砂塵に捲かれて霞んでおり、そのために、人間が「近代の諸権利」として獲得したものまで失われようとしていること。
そして、ナショナリズムのこと、特にナショナリズムを主張するに伴う悲哀についてであろう。ナショナリズムを主張するというのは空しいもので、結局は、王政復古でも江戸時代に帰れでもいいがそういう回帰主義的な音色を響かせざるをえない。問題は、「えない」という悲哀をわかっているかどうかである。
わかっていた三島由紀夫は、それを美学の表現に求め、その象徴としての天皇中心を夢み、結局は市ヶ谷でみずから腹を割ったのだ。その方法がよかったのかどうかともかく、悲哀を知らぬままにナショナリズムを語る空疎な言葉に耳を傾けてはなるまい。
最後のことどもについては、これからおいおい書いていきたいというメモである。とりあえずは、わが国が抱えてしまった実につまらぬ首相官邸に、はっきりと侮蔑のまなざしを向けることである。