第280回 「みんなの」ミスター・プロ野球(2004/03/07)

 

 一応、熱烈な野球ファンを自称する僕としては、ミスタープロ野球こと長嶋さんの状態も、気になる。折りしも、今年は日本でプロ野球が生まれてから70周年だ。そしてまた、長嶋茂雄こそが、日本のプロ野球であったといってもいい。

 ただし、僕は長嶋信者の世代ではない。大の巨人ファンであり、また長嶋信者の代表格である元日本テレビアナウンサーの徳光さんが、「みんなに責任がある。長嶋さんを労わってやらなかったんだ」というコメントをしていた。が、しかし、だって、長嶋さんを使ってさんざん稼いでいたのは巨人であり、読売新聞であり、日本テレビであっただろう。ひとつ、徳光さんの言う「みんな」から僕を外しておいて欲しいところだ。

 しかし、よく考えてみると意味深な言葉ではある。長嶋こそは、日本プロ野球であった。そして日本プロ野球こそは、戦後日本という共同体をひとつに纏める、巨大な装置だったのだ。つまり長嶋さんは、その装置の象徴であったのだ。

 「4番、サード、長嶋」。長嶋さんのバッティングフォームは、古今の打者を通じて最高である。腰が捻じ切れるかというほどのフルスイング。背番号3は揺れて見えなくなり、ヘルメットが飛んぶ。それだけの動きを生み出す足腰。しかし、背骨から頭部までの回転軸は一部もぶれない。驚くほどのスイングスピードを髣髴とさせる、彼のバッティングフォーム。

 長嶋さんが打撃の天才であることは、否定しない。日本プロ野球が生んだ最高の天才であることも、否定しない。彼の独特なショーマンシップが、現役・引退後を通じて日本プロ野球を支えてきたことも否定しない。最高のエンターテイナーであることも、否定しない。

 そのことを、「みんな」が讃えてきたのだ。そして「みんな」が勇気付けられてきたのだ。そして「みんな」が…。

 

 長嶋茂雄。千葉県佐倉市出身、立教大学で六大学リーグの本塁打記録を更新、すでに大学時代から熱狂的な野球ファンのヒーローだった。決まりかけていた南海入団を土壇場でひっくり返し、昭和32年巨人に入団。昭和33年、プロ開幕戦で、金田正一に4三振を奪われるもシーズン終了後は本塁打・打点のタイトルを得た。

 昭和33年の日本シリーズは、西鉄が巨人に3連敗後4連勝するという劇的なシリーズとなったが、その第7戦、6対1で敗れた巨人の1点は、長嶋が最終回に左中間を破った鮮やかなランニングホームランだった。監督は静の水原、動の三原。主力は赤バット川上、青バット大下という、戦後の野球を支えたライバルたちの最後の舞台となった試合で、若々しい大卒のルーキーが放ったランニングホームラン。何もかも絵になる。時代の変わり目に登場した、ヒーローだった。

 

 誰がなんと言おうと、戦後の日本に初の娯楽を、そして社会に光を灯したのはプロ野球であった。そのプロ野球は、アメリカに敗北した日本社会が、アメリカを強く強く意識しつつ興じたものだった。当時、笠置シヅ子が歌った『ホームラン・ブギ』という歌がある。去年、フジテレビが中継の前に吉田拓郎が歌っているものを流したが、オリジナルは歌詞が違って、日米の好選手を比べ歌したようなものだった。

 戦後のプロ野球人気は、アメリカという、日本を焼け野原にした他者を強く意識したものだった。それはもちろん、朝鮮、中国といった他者とガチンコの衝突を繰り広げてきた、戦前を引きずったものだった。そこに加わった、アメリカの焼夷弾、原爆、そして進駐軍。国際性豊かといえば、国際性豊かな時代だった。その肉感において、いまどきのエリート学生が留学して得てくる「国際性」などよりも遥かに強い時代だったのだ。

 その時代にヒーローだった大下弘はルー・ゲーリックを強く意識したフォームをしていたし、川上はテッド・ウィリアムスの打撃理論を輸入して読むほどの勉強家だった。もちろん、大下は学徒出陣で航空隊に配属され特攻隊行き直前だったし、川上はフィリピンの戦地で彷徨った後故郷の熊本に一時引っ込んでいた男だ。その二人にとっての、アメリカ。

 しかし長嶋は、子どものころに終戦を迎え、そうしたリアルな戦争体験のない世代だった。そして長嶋のファンも、リアルな戦争体験のない世代だった。折りしも、高度経済成長。日本社会はどんどんドメスティックになっていく。その内向き加減は、昭和40年代、巨人軍のV9とともにピークを迎えたのだ。

 

 ドメスティックになっていくとは、他者を忘れることだった。日本人は、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックの次の世代をヒーローを忘れている。ジョー・ディマジオがぎりぎりで、ジャッキー・ロビンソン、ミッキー・マントル、ヨギー・ベラといったスーパースターたちは、日本社会がドメスティックに、内向きになっていく中で野球ファンの脳裏からすっぽりと抜け落ちて行ったのだ。その空白を埋めた、内向きな、ドメスティックなスーパースターが長嶋だった。

 もちろん、アメリカだけではない。日本球界に燦然と輝く記録を作った男たち、400勝投手金田正一、3000本安打の張本勲、そして868本塁打の王貞治の3人が、外国人、しかも、戦前の、日本が大陸と関わったことの結果としての在日外国人であることを忘れさせてくれたのも、「記録よりも記憶に残る男」長嶋だった。(金田は後日本人に帰化したが、張本、王はいまも母国籍を捨てていない。)

 他者の存在を遠ざけ、隠す。それは結局、「みんな日本人」というドメスティックな社会を作ることに他ならない。事実、一億総中流と化した昭和40年代後半、テレビを通じて「みんな」がプロ野球を見、長嶋のプレーに酔った。「みんな」が次の日、職場で、学校で、長嶋のプレーを語った。男の子は「みんな」背番号3に憧れた。「みんな」…。

 ミスター・ベースボールでもなく、ミスター・日本野球でもなく、ミスター・プロ野球。昭和40年代、ドメスティックな日本を形成した最大の娯楽装置「プロ野球」の代表として、ミスターの称号は長嶋さんにこそ確かに相応しいのである。

 

 残念ながらというべきかどうかわからないが、いまの日本社会は「みんな」という一体感を喪失し、それに代わるべき一体感を持ち得ないでいる。長嶋さんがオリンピック代表チームの監督をやれば「みんな」応援するのかもしれないが、しかしその「みんな」とは、「みんな」世代に育ったおじさんたちである。もっとも、その人たちがスポンサーとしてのお金は持っているので、長嶋さんを押し立てるのは決して悪い戦略ではない。

 しかしもはやそれは「みんな」ではない。そしてその「みんな」社会に飽きたプロ野球選手は、海の向こうに渡ってプレーをしている。野茂、イチロー、松井の活躍は確かに日本での大リーグ人気を盛り上げてはいるが、しかしそれは、笠置シヅ子が大リーグのスーパースターと日本の代表的な選手を歌い比べていたころの、他者が確かにあったころの意識に比べて、なんと、「みんなで松井を応援しよう」的な、柔なものになっているか。

 その「みんな」意識の形成に役立つのは当然メディアなのだが、長嶋さんはその圧倒的なシンボルだったのだ。そして、長嶋さんが倒れた。この一件ですべてが変わるわけではないが、何かが変わっていくような気がする。

 


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