

第302回 「政治家」への信認を(2004/06/24)
参議院選挙が始まった。この、民主主義社会において、重要な選挙/重要でない選挙というものは建前上ないのだけれども、今回は僕にとって重要な選挙となる。それは、イラク派兵の是非ももちろんだし、年金改革も争点ではあるが、それ以上に、この住み心地が決して悪いわけではない近代国民国家が維持されるか否か、という歴史の岐路のひとつであるような気がするからだ。
その意味では、僕流の争点は「実質的階級社会の到来は是か非か」とか、「機会の平等を保障する社会政策は是か非か」とかのほうがより本質的なものだと思うけれども、これは与野党で分かれているわけではない。自民党の中にも両者があり、民主党の中にも両者がある。小泉さんは「是」派で、青木さんは「非」派だ。菅さんは「是」派だし、小沢さんは「非」派である。
したがって、これを選挙で問うことはとても難しい。だから、僕はあえて別の争点を掲げたい。それは、「政治家に信認を与えよ」というものだ。
政治不信、と言われて久しいけれども、そこには二つの不信がある。ひとつは政治家への不信、ひとつは官僚への不信である。
確かに、双方ともロクでもないことがたくさんあった。昭和の末から、談合政治が明るみになって政治家への不信が強まり、その分、官僚の力が増した。バブルのころには官僚のほうも、ノーパンしゃぶしゃぶ接待やら高級絵画の贈り物をやりとりしたことが批判を浴びた。
しかし、ここが肝心だ。痛み分けかというとそうではない。結果的には官僚の力が強くなる。ひとつひとつの政策に関して継続性を持っているのは官僚のほうであり、知識は官僚に独占されているから、ちょっと来ただけの大臣では太刀打ちできない。そして何より、政治家は国民の選挙によって落選させられることがあるが、官僚にはそれがない。われわれは官僚を選ぶことはできないのだ。
金丸信も社会党も、信頼を失った政治家は多かれ少なかれ沈んでいく。しかし官僚は、どこかで生き残る。某悪徳金融からシャガールの名画を受け取った大蔵官僚(その後絵を「返却」!)は罪に問われることもなく、いまJTの会長としてぬくぬくと暮らしているわけだ。(もちろん彼は、次官になれなかったという制裁を受けたわけではあるが、そんなものは国民には関係ない。)
この構造が、官僚の跳梁跋扈を許しているというといかにもであるが、実際は、政治家の弱体化を推し進めてきているのである。
小泉内閣の重要な側面は、ここだ。専門知識を持った官僚の知的権力によりかかることによって、ある種ファッショナブルに権力を維持する、ということである。最も典型的には、外務大臣という重要極まりないポストや、国民の財産を左右しかねない金融政策のポストに、選挙を経ていない人間が座っていることである。方や官僚出身、頭がよくて、英語がぺらぺらしゃべれるかもしれない。方や、ハーバード留学経験もち、金融の表と裏に詳しく、不動産高騰をあおっておきながら自らは月島のリバーシティをさっさと売り抜けるだけの頭脳と情報収集力を持っているかもしれない。
しかし、それが何だというのだ。官僚としては必要な頭の良さかもしれないが、政治家には必ずしも必要ではない。政治家に必要なのは、国民に説明し、なおかつ責任を取ろうと腹をくくる覚悟のほうだ。決して、「できるかぎりのことはやっております」(外相)「シナリオが変わりました」(金融相)といったいい加減なことを選挙民に向かって吐かない、ということだ。この覚悟がない人間が大臣、しかもけっこう重要なポストを占めている状況は好ましいとは思われない。
これに呼応して、政治家のほうも弱ってきている。
イラク人質事件の折、僕は、外務副大臣はアンマンではなくバグダッドへ行け、できれば身代わりに人質になってこいとまで書いた。それに対して、バグダッドでは外務官僚さんたちが何やかんやと働いているではないか、という指摘があった。
そのとおりだ。外務官僚さんの努力には敬意を表する。だからこそ、なのである。だからこそ、政治家は官僚と同じ前線へ行き、国民の信認を勝ち取らなければならないのだ。バグダッドで官僚が命張っているときに、政治家が、安全極まりないアンマンの「現地対策本部」でアルジャジーラを寝食を忘れてエアチェックしているようでは、嘗められて当然である。 状況は大きく違うが、よど号事件の折、乗客に代わって人質となった故山村政務次官は、犯人たちに向かって「なに、これで次の選挙も大丈夫だ」と大笑したと言われるが、政治というものはむしろそういうものだろう。
今回の年金改革でも、法案が成立した後に、法案の基礎となるべき出生率予測がすでに大幅に下回っているというデータがあることが判明した。大臣たちは「データを出すまでにしばらく時間がかかるのは常識の範囲内」などと言っているが、国民の財産を左右する法案の基礎的な情報を官僚が隠していたことは確かである。
こんなとき、政治家は、官僚に対して怒るべきなのだ。国民の利益に反する行動をとった官僚に対して怒るべきであり、国民もまたその政治家を支持するべきなのだが、法華信者総代として知的内閣に送り込まれている大臣にそれができるはずもない。
しかも今回は、官僚が、自分たちへ矢が飛んできた時点で政治家の未納状況をリークし、国民の関心を政治家のモラルに向けさせた。そして法案は無事成立、年金の基金はまた官僚の手に委ねられる。今後、年金のうち12億円を運用する外部団体の長は、すでに2兆円を湯水のごとく使い果たしてきた厚生官僚である。そして、今回出馬しているタレント政治家に、対抗できる力があるとも思えない。
この国の制度では、国民が、官僚をクビにすることはできない。一方では、官僚が、国家運営についての特別な技術と知識を持っていることも事実であり、官僚をつぶしてしまってもいけない。
そこでわれわれに残された手段は、政治家に信認を与えることである。もちろん投票に行くことは大事だが、それ以外にも、さまざまなかたちで政治家への信認を与え続けることが必要だろう。
腐った林檎が二つあれば、まだ口にしていないほうを選ぶ、という言い方がある。政治家と官僚もそのようなものだろうし、そもそも民主主義社会とはその程度のものだ。ただ、民主主義社会で生きていこうとするのなら、断然、われわれは政治家という林檎のほうを採るべきなのである。その選択は、いま、けっこうな正念場である。