

第302回 絶え間なき敗北感の連続(2004/07/10)
こんなところでまで、これほど敗北感を味わいたくはなかった。
この国では、何度も見慣れた光景と言ってしまえばそれまでである。臭気を漂わせた、だぶついた肉体の老人たちが、ホテルの一室に集まって物事を決める。確かに彼らは、金を持っている。権力も持っている。それを振りかざすことで、彼らはアイデンティティを保つことができるのだろうと少し見下げて、若い国民は溜息をつきつつ自分を納得させる。
それは何度も繰り返され、それへの反感をバックに小泉純一郎という男が政権を保っているにもかかわらず、実は、内実は何にも変わっていないのである。それが、野球という領域で目に見えただけの話だ。大勲位の盟友で、往時は大新聞の政治部長として首相に代わり閣僚名簿を書いたとさえ噂される癇癪持ちの老人が記者会見で逆切れする、これが日本社会の結局の姿である。そしてまた国民は溜息をつくほかない。
言いようのない、敗北感。
彼らは言うだろう。政治の世界と野球の世界を一緒にしてもらっちゃ困る。政治の世界では、政治家は選挙民に説明する義務がある。築地や赤坂の料亭の一室で政策が決められていくことに国民が文句を言う筋合いもあるだろう。しかし野球は、日本野球機構は、われわれ「紳士」の同盟なのである。意思決定に紳士ならぬ人物の介入などありえない。
紳士でないとはどういうことか。決して僕と同い年の(まったく知らぬ仲でもない)新興ITベンチャーの社長だけが非・紳士といわれたのではない。選手も、ファンも、ことごとく「君たち、権力の扱いを知らない者は紳士ではない」「君たち貧乏人などに意思決定をする資格はない」といわれたのだ。中でもいちばん素直な人は、身分が違うことを理由にした。「無礼な、分をわきまえろ」と。その昔、同じ理由で、われわれには選挙権が与えられていなかったことを想起するがいい。
では彼らは、貧乏人に恩恵を施すだけの慈善事業を行ってきたか?その度量もなかったのである。経営危機になれば撤退するのは当然というのなら、こんなに危機になる前に撤退するか、ないしは、そもそも球団経営などに参画すべき資格がなかったのだ。なぜなら、彼らが球団を経営する向こう側には、選手・ファンというれっきとした「人間」がいるからだ。近鉄社長のように選手を「バカ」だの「泥棒」だのと罵倒するような紳士になら、罵倒されても恥ずかしくないかもしれないが。
ファンは、怒るべきだ。彼らのいう紳士でない、とは、選手もファンも人間ではないといっているのと同義である。選手会という労組がありながら、その存在を無視した行動。では、彼らのやっていることが賤民以上の紳士的なことか?断じてそうではない。およそ他者に胸を張ることができない、内向きの自慰的な紳士同盟などには付き合っていられないのだ。
今日言いたいことは二つある。ひとつは、多くの新聞や雑誌が書いているけれども、ルール変更があまりに恣意的だ、ということだ。恣意的だという言い方が悪いなら、人の道に外れているとでも言おうか。
球界がおかしくなったのは、FA制度とドラフト改革の同時進行だった。FA制度は、選手会の側が長年要求してきたことであったが、これは当然、ドラフト制度という、選手が自分の意志で所属する球団を選択することができない以上、その球団である程度の活躍を納めた選手には球団選択の自由を与えよ、というものだった。
しかしここに同時に、ドラフトの自由獲得枠が導入されたのである。FAとドラフト変更の同時導入は、戦力均衡化によるレベルアップを狙った昭和40年以来のシステムを完全に破壊するものであった。この新システムが導入の目的は、導入が否定されたならば新リーグだと言ってのけた渡辺巨人軍オーナーの発言に明らかだった。巨人を強くすることである。巨人が強くなければプロ野球は盛り上がらない、という彼の論理のもと、この制度は強行導入された。
もちろん両制度は、彼が期待したほど巨人軍を強くしていない。彼は苛立って現場の采配に口を出すが、それでも物足りなくなったようだ。幸い、彼が導入した制度によって選手の年俸を泥棒呼ばわりしなければならないほど経営に苦しむチームも出てきた。
特に近鉄はそれが目立った。ほとんど忘れられているが、石井浩生に、選手会との約束である25%以上の減俸を要求し、それを非難されると「石井選手に同意を求めている最中である」と言い逃れた。(選手が同意した場合にはその限りではないとの一項があった。結局石井選手は巨人にトレード。)昨年のローズ選手の移籍にしても、あまりにも不可解な当事者の言い分と、筋書きだった。ダイエー小久保選手の移籍も同じだといえるだろう。
忘れてはならないのが、この事態を招いたのが、巨人を強くしたかった渡辺オーナーによるシステム変更から起こってきた、ということだ。もちろん、野球協約を変更するのもドラフト制度を変更するものオーナーである。だが変更の影響を受ける対象はオーナーではなく、選手やファンだ。自分が変更したシステムによって困ったことが起きたから、「現状維持では駄目だ、発展のためには変革しないと」とうい発言に、システムを変更した責任は一抹も感じられない。
笑っているのは巨人を強くしたい渡辺オーナーと、いつの日か巨人と同じリーグで戦うことによって稼ぎを得たいと願ってきた西武堤オーナーの二人だろう。こうした、権力を持つ老害への敗北感はますますぬぐいがたい。
もうひとつは、彼らがいう「発展」とは何なのか、ということだ。
昭和24年シーズンオフ、戦争の余波が残る中で、それまでの日本職業野球連盟は、中央野球連盟と太平洋野球連盟に分裂した。両連盟はそれぞれセントラル・リーグ、パシフィック・リーグを通称にリーグ戦を戦った。
分裂の理由は、阪急・南海の両在阪球団を中心とした一部のチームが、巨人中心の球界運営に反発したからとされている。だがこれは公式の理由で、裏で動いたのは正力松太郎巨人軍オーナーであった。なぜ正力が2リーグ制を進めたかといえば、彼が晩年までプロ野球に向かって言い続けた「アメリカに追いつけ追い越せ」という、そのためであった。
大リーグには2つのリーグがあって、切磋琢磨している。日本のプロ野球界も両リーグが激しく刺激しあってこそ、大リーグに近づいていく。正力はそのために2リーグを仕掛けた。しかし、昭和40年代に入り、日本野球界から「アメリカ」の意識が薄れていった。アメリカどころか、日本野球界は、いや日本社会全体が非常に内向きになり、他者を喪失していったことについては前にも書いたことがあるとおりだ。
その忘れ果てた後にやってきた「アメリカ」はなんとも魅力的で、多くの選手が海を渡ってプレーすることを選択した。渡辺オーナーはそれにも文句を言い続けたが、文句は他者を忘れた日本プロ野球そのものに向けられるべきだったのだ。
その渡辺オーナーは「野球界の発展のために」一リーグ制が必要だという。一リーグ制そのものを僕は否定しない。しかし、その大義はどこにあるのか。
有力な警察官僚にして、昭和史の巨人ともいうべき正力松太郎は、彼の多くの仕事の中でのプロ野球についてすら、アメリカを追いつけ追い越せというテーマを掲げた。そのための2リーグ制だった。いま、仮にも正力の後継者であるところの渡辺オーナーは何を大義に一リーグ制を進めようとするのか。「発展」というのが、単に巨人が優勝し、全国で読売新聞の部数を伸ばすことであれば、その言葉を使うのは早速撤回してもらいたいものである。読売新聞の売り上げには選手もファンも関係ないが、プロ野球の「発展」には選手もファンも関係があるのだ。
しかし、僕にはすでに諦めがある。アメリカのことすら意識の端に上らない渡辺オーナーに、そんなことを期待するのが無理なのだ。発展とはあくまで、読売新聞社の発展に寄与貢献することである。そのためになら、いまやイラクでは崩壊寸前の有志連合をたとえに出すことすら厭わない。志がない者に、責任が生まれようもないのである。
かくして、正力の志は、後継者である渡辺オーナーにより止めを刺された。そのことは、昭和30年代まで残っていた日本社会の国際意識が、昭和40年代以降高度成長の大きな伸びのなかで、メディアとプロ野球によって消滅させられていったプロセスの正しい結果なのである。もちろん僕は戦争を知らない。しかし、アメリカに負けた国民として、意識のなかからプロ野球を発展させていく志を去勢させられたことは、正しく「敗戦」なのであった。