第328回 別世界の住人へ向けて(2004/10/02)

 

 中日に優勝をもたらした落合監督の価値観にも、パ・リーグのプレーオフについても書きたいところだが、今日はやはりイチローについて書かなければならない。何しろ、1920年に作られた大リーグ記録を塗り替えたのである。ちょっと涙が出た。

 まず考えるべきは、何といっても、ジョージ・シスラーの記録が1920年だということである。

 戦前と戦後では、ルールが同じだけで全く違う野球と云ってもいい。ピッチャーはどんなに打たれても完投するのが当たり前で、そもそも投手が打者を抑えるという概念すら希薄であった。(そもそも野球では、打者に打つための球を供給するために投手が存在したのである。19世紀中ごろには、打者が投手に投球コースを要求できたのだ。)

 1920年という時代は、3ストライク目は正規捕球でないとアウトにならないという、近代野球の最後の大きなルール改正が行われて間もない。このルール改正後初めて投手が打者を抑えること、特に三振に価値が見出されるようになったが、それでも、シンプルなブレーキング・カーブ以外の変化球を投げる投手はこの地球上に存在していなかった。スライダー(1947年)もフォーク(1923年)もチェンジ・アップ(1931年)もまだこの世界に登場していなかった。

 そんな時代の記録、神話時代のシンプルでのどかな記録を、現代の高度な野球に生きる選手が塗り替える。これがいかに凄いことか。

 

 このサイトの古い読者は覚えていらっしゃるかもしれないが、リニューアル前のSnobist Clubで、イチローが海を渡る際に、僕は彼の大リーグでの成功に懐疑的な見方を示したのだった。

 オリックス時代のイチローは、もちろん類稀なバット・コントロール技術を持ってはいたが、振り子打法の振り子に当たる右足のステップが非常に大きかった。このフォームが、パワー重視の大リーグではついていけないのではないか、ということを僕は考えたのである。

 ニュース等で流れる、バリー・ボンズやサミー・ソーサのバッティングを思い出してもらえればわかるとおり、彼らは半ば軸足に体重を乗せたままでスイングをしている。日本の伝統的な野球技術では、軸足で地面を蹴って身体を前に動かし、そのエネルギーを軸足と反対側の足を大きく踏み出してがっしりと受け止め、行き所のなくなった力を腰から上の回転運動へつなげることが正しいとされているが、大リーグの有力選手はそうではない。

 むしろ彼らは、ボールを見つめる目線をずらしてしまい、正確なミートが出来なくなるというリスクの高い体重移動を極力避けており、ボールを打つために必要なパワーは筋力トレーニングによって作り上げているのである。これは、1920年代のようなストレートとカーブしかない時代と異なり、多種多様な変化球が変幻自在に飛んでくる現代野球で好成績をコンスタントに残すためにはスタンダードともいえる打法だ。

 それに比べれば、オリックス時代のイチローのバット・コントロールとミーティングの類稀な技術は、もちろん確かなものではあるが、どちらかというと「曲芸」の部類に入るものであった。だから僕は、イチローは大リーグでそこそこの成績は残すものの、大成功というのは覚束ないのではないかと考えていたのである。

 

 だが、彼の技術のレベル・アップには完全に(また喜んで)白旗を掲げることにしたい。これからいくつかの特集番組があると思うのでよく見ておいて欲しいが、イチローの打撃は、かつての「振り子打法」という呼び方が嘘であるかのように小さく、コンパクトになっている。体重移動による目線のブレというリスクを避けながら、大リーグ投手の力のある球に負けないパワー・アップを彼は見事に果たした。

 もうひとつ、これは渡米以前からの持っていた彼の技術であったが、彼は膝、腰、腕の3ヶ所の回転でボールに対してタイミングを取ることができた。だいたい、2ヶ所持っていればスーパー打者である。ふつうの打者は一箇所しかない。たとえば松井秀樹は、振り始めて膝が回転を始動してしまったら、その後で腰や腕を使ってタイミングを修正することはほとんどない。(しかし松井の場合はスイング・スピードが素晴らしく速いので、バットを振り始めるタイミングをぎりぎりまで遅らせてボールを見極めることが出来る。)

 その技術の高さは以前からあったのだが、日本にいた頃のイチローは、膝、腰でタイミングが取れず腕で合わせるときには、ヒットにはなるけれど大きく体勢が崩れていたものだった。それが僕の云う「曲芸」という意味である。しかし渡米してからのイチロー、特に今シーズンのイチローは、どんなボールでも(たとえ凡打でも)体勢を大きく崩されることがほとんどない。目線が崩れず、その上巧みなバットコントロールを発揮すれば、怖いものなしである。

 

 おそらくそのバットコントロールにも磨きがかかっているのだろう。バットとは、所詮、丸い木の棒である。150キロを越すボールをバットのどの角度に当てるかというようなことは人間業では通常無理だと考えられている。

 そこで、バッターとしては、ドンピシャのタイミングでボールを捉えて完璧にはじき返すか(広島の前田や巨人の高橋タイプ)、少し詰まらせた状態で瞬間的にボールをバットのコントロール下に置き、ボールの反発力を利用して狙った方向へ弾き飛ばすか、しかない。タイプは、ダイエーの松中のように引っ張り型であったり巨人の二岡のように流し打ち方であったりするが、このどちらかに大別される。

 しかしイチローは、ボールへの対応の中でバットのどの位置でボールを捉えるかを、自分の技術の中でコントロールしているようなのだ。完璧にはじき返すときはだいたい二塁打、詰まらせてコントロールしたときは本塁打、そして、バットでボールに強烈なトップスピンをかけるような打ち方をするときがあり、これがだいたい単打につながっている。彼の内野安打の多さは単に足が速いだけが理由ではない。内野手の反応をわずかに遅らせるだけのスピンのかかった打球の強さが彼にはあるのだ。

 

 結論としては短絡的かもしれないが、松坂大輔が言うように、イチローは「別世界の人」なのである。野球が生まれて約150年、何人の人間がバットを振ったか知れないが、イチローはその誰とも似ていない。それを一言でいえば、世界中のバッターがバットを振ってきたし、いまも振っているのに対して、イチローだけは、バットではなくラケットを振っているのだ。一人だけ、別のスポーツを戦っているといってもいい。

 今後、記録としてはイチローを破る選手が現れる可能性はないとはいえない。しかし、イチローに似た選手は、野球が野球であるかぎり、二度と現れないのではないか。そんな予感がしている。

 


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