第339回 四月の虚脱感を忘れない(2004/10/28)

 

 イラクで、日本人がまた人質になった。また、とは言ってみたものの、かつてマルクスが「二度目は悲劇」といったように、前回に比べて事態はよほど深刻である。前回は出来レースか、という声が出るほどに、いいタイミングで宗教指導者が出てきて人質を解放したが、今回は犯人がイラク人たちからも嫌われている超過激派か、イラクの混乱にしゃしゃり出てきて事態を混乱させようとしている外国人であるかのどちらかだ。

 残念だが、彼が生きて帰ってこない可能性も、低くない。

 

 そして国内は、予想通りというか、ほとんど目立った反応はない。

 4月の事件で、世間の圧倒的支持を得た政府は、もはやアンマンの“現地”緊急対策本部を設置することすらしない。前回は、犯人と打ち合わせの上恐怖シーンを演出した人質たちの家族の憤りで、自衛隊派遣を撤回させようと浮かれ逆に反撃を浴びた上自衛隊の駐留を強化してしまった左翼の方々も、失敗に懲りて今回は何もしない。

 

 そして、相変わらずこんなことになっている。家族やら市役所に嫌がらせである。そのうち高級寿司が届けられるかもしれない。

 人質になっている彼の志よりは、僕としては、昔は陰湿だとしか思われていなかったこと(当然この手のやつはほとんどが匿名だと思われる)が、最近、特に小泉内閣になってから正々堂々とやって問題なくなってしまっていることのほうが気になる。もちろん半年前から気になっているのだが、今回の事件のタイムリミットも迫りつつあるので、思い起こすために書いておきたい。

 

 大前提は変わっていない。政府が万難を排して国民の救出に当たること、は大前提である。それは政府の責任というものである。もちろん、捕まってしまったお兄さんにも言いたいことはある。経験知識に乏しいのは初のイラク入りだからしょうがないとしても、自分が捕まるあるいは殺される可能性があり、そうなったときはどうするか、どうして欲しいかという、遺書とまではいわないが方針を立てておいて欲しかった。

 彼の倫理観とか常識を問題にしているのではなく、それぐらいやっておいてくれれば、この、社会が崩壊するような論調の登場に対して抵抗できたのに、という無念さである。

 Igarashi氏もブログに書いているが、だれも社会が壊れることに抵抗していない。小泉さんなんかは保守派のフリ、つまり共同体復古主義的な顔をしつつそれが壊れることに何のためらいもない。一方で、小泉さんに対抗すると息巻いている市民派のエリートさんたちも、この手のはみ出し系個人についてはまったく配慮を持っていない。

 僕が何度も使っている言葉でいえば、「知性的でない」人間は切り捨ててかまわない、というのが双方に共通した認識である。でもその「知性的」の「知性」とは何かというと、かなりスタートラインに差がついた建前総中流実質階級社会で、アッパー・クラスにいた人たちが、そりゃ下層階級にいたんだから知性的になりようがないだろ、という人たちに向かって「あんたら自助努力不足だね。これ自己責任だからね」といって切り捨てる…ということによって、「事後的に」確定する「知性」である。

 この点では、小泉さんみたいな守旧派のフリしている人も、社会改革を目指している知的エコノミストさんたちも、極論すると村上龍さんも、こっそり後ろ手を握り合っていることになる。

 

 そりゃ昔の共同体はよかったかもしれない。戦後日本経済を支えた共同体的な結束はよかっただろう。しかしそれをもう一度、というわけにはいかないのである。なぜか。昔の共同体には昔の共同体なりの社会契約というのがあっただ。国や地方政府が面倒を見れない、個人が生きていくうえで必要な社会契約の部分を、共同体が支えていた部分が多分にあったのだ。

 具体例でいうと、戦前の失業者対策なんて政府としてはひどいものだったが、東京で失業してカネがないから東北本線を歩いて帰る人たちに沿線の人が炊き出しをする、なんて心根があった。自殺しなくてももよかったわけだ。貧乏人に生まれて学校になんか行けなくても、その子が神童であれば学資を出してくれる地方の名士がいた。あるいは、今で言えばイラクの情勢がどんなに危険かを新聞代わりに福岡の無職の青年にも教えてくれる多少智恵のあるおじさんがどこの田舎にも、いた。もちろん、障害を持って生まれた子を、(世間に隠しつつではありながら)親族が金を出し合って食わせた。

 こういうのを、戦後、全部国が請け負った。最初は国の心意気でもあったのだろうが、それが昭和40年代、特に田中内閣以降、単なる利権拡張に堕し始めたと思われる。そしていまや、「民間で出来ることは民間で」とこの種の仕事から国は手を引いた。しかし、平凡な個人が生きることを支えていた社会契約を国が潰し、その後手を引いたときには、代替としても何も残らない。

 

 そんな状態なのに、政治をつかさどる両軸は適当なことを言っている。プロジェクトXに涙するオヤジ政治家さんは「昔はよかった、あのころの日本をもう一度」と言うが、現実には戻ってこないだけでも悪いのに、彼らが言うのは「思い込んだら試練の道を、行くが男のド根性」的な精神論であって、それについて来れないヤツは「ヘタレ」扱いになってしまう(イラクで捕まった人たちがそうでしょ)。

 多少マシに聞こえる言い方をすれば、高校野球の効果を援用して「やればできるは魔法の合言葉」と所信を述べる首相になってしまう。彼らは共同体論に根ざし、あるいは、ナショナリスティックな前提に立っていながら、社会契約を結ぶことには抵抗がある。なぜなら、わざわざ捕まった人を助けに行かなくてはいけないから。そんな面倒なことはしたくない。

 一方知的市民派の方々も同じことである。人口と資本の流動性を高め、都市への人口流入を進めていけば高度経済成長は復活できる、なんて本が最近真顔で売れているらしいのだが、だったら「金の卵」はどこにいる?田舎では共同体と社会契約がまがりなりに機能していた最後の世代である「金の卵」を抜きに高度成長を語れるのか?それって単に、資本の集中を高めて資本一回転ごとのスケールメリットをでかくするってだけの話じゃないのか?

 いや、これだけ資本を制御する人間の移動が国際的に早くなり、彼らが投資結果に責任を負わない時代にあって、それが無事に機能するとすら思えない…。ある意味、共同体論に根ざした安易にナショナリスティックな前提があるのだ、この話にも。

 

 で、一見政治的な対立軸に見えるこの二つが、実はいずれも共同体論あるいはナショナリズムに依拠しつつ、社会契約を結ぶのを面倒がっているという結論になるのだ。

 典型的なのは小泉さんと竹中さんの関係である。国民ひとりひとりを思いやっているようなフリをしている小泉さんのもとで、竹中さんの仕事はカネをグルグル効率よく回転させてGDPを上げ、金持ちさんの投資対象として魅力的に見せることである。そのためには当然、いままで国から貧乏人に配っていたカネを取り上げて金持ちさんに渡す、ということになる。その結果としてGDPが上がったことを小泉さんが「景気がよくなった」とアピールする。その裏で年に2万人以上が経済苦で自殺しているが。

 この両者は、困ったことにどっちも共同体論の仮面をかぶっているので、賛同を得やすい。やすい、というか、完璧な支持を得たのが4月のイラク人質事件だった。今回、まともな対応をする必要性を、政府は痛痒も感じていないらしい。

 国民の側も、おそらく、直感的に、「知性」による勝ち組/負け組化を感じているのだろう。いささか噴き上がりすぎた4月の政府への支持は、単なる支持や人質家族への嫌悪だけでなく、その行動によって自分が政府と同じ「勝ち組」にいることを確認したいとまで思っているからではないか、と僕は考えている。

 だが、である。いうまでもなく、この行動への加担は個人が生きていくうえで必要な社会契約を崩壊させてしまっている。注意して欲しいのは、「勝ち組/負け組」化を僕は全面否定していない。もしそれに付随する社会契約が成立するのならば(それは勝ち組に一種の“ノブレス・オブリージ”が課せられるということだが)、僕は否定しない。

 しかし現状では、「阿呆は死んでもしょうがない」「貧乏人は死んでもしょうがない」の方向へ流れている。そりゃまずかろう、と思う。そこまでは共通認識であって欲しい。本気で「しょうがない」と多くの人が思っているとしたら、この社会の崩壊は底が抜けているのであるが。

 


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