第339回 リーガル・マインドといえば聞こえはいいが…(2005/02/14)

 

 日本ラグビー協会が小さな組織だとは思っていないけれども、しかし、NHKと朝日新聞に苛められている様は見ていて可哀相になってくる。

 確かに、非は、ラグビー協会にある。しかしまあ、チョンボといえばチョンボに過ぎない。誰かに圧倒的な過失があるわけでもなく、その結果、誰かが大損をしたわけでもない。NHKも朝日新聞も正論を吐いているけれども、結局は、争っている両社の面子に過ぎないことは誰の目にも明らかだ。

 

 ただの騒動として見るのも構わないが、少し身近にひきつけてみる。

 ラグビー協会に、専属の弁護士がいるのかそれとも専門の法務部があるのかわからないけれども、少なくとも、NHKと朝日にはある。NHKや朝日に比べて、そういう機能が弱いことも確実だ。

 で、こういうリーガルな戦いになったときに、そういう、プロの法務の専門家を持っている人間のほうが駄々を捏ねることができる、という世の中は何とも大人気なくて嫌なものである。

 似たようなケースは先日の、松下がジャストシステムを訴えた裁判もそうなのだ。会社の体力としても、法務的な戦いを遂行する体力としても、松下のほうが圧倒的に上である。それでいて、たとえばマイクロソフトを訴えることはしないだろう、という気がする。それは理非の問題ではなく、法務的な戦闘能力に劣るからである。

 ジャストの大ヒット商品の小さな機能に対して文句をつけ、裁判で販売差し止めを勝ち取れば、相手企業からそれなりのカネをせしめることはできる。それはそれで合理的な考え方なのかもしれないが、だったらそういえばいい訳で、「今後知財企業としてやっていく」とかいう尤もらしいことを言われると余計に大人気なく感じる。要は、弱きを挫いて生きていくわけでしょう。

 

 いまのところ、会社同士の戦いに終始しているが、いずれ私たち個人の身にもそうしたことが降りかかってくる時代が来るだろう、というか、もうすぐそこまで来ているようである。

 気がつくと、自分の行動は法律でがんじがらめになっていて、しかし、相手には強力なプロの法務屋がいて、こちらは昼間は仕事をしつつ夜必死に法律書を読んだところで、最初から勝ち目はない。それを理だと言われても、ねえ。

 Igarashi氏がブログに書いていたけれど、ホリエモンなんてのはその先導者としての役割を果たしているようにも見える。彼は後期近代、と書いていたけれど、僕なんかはロマン主義モダニストなので、それが近代の一局面(Z.バウマン)と呼べるのかどうか、いまひとつ自信がない。

 

 ロマン主義モダニズムとは何かというと、いろいろ側面はあるのだが、今日の話のロジックで言えば、理が通っているからやってもいい、問題ない、というのは、僕にとっては近代的姿勢ではないのである。

 人によって理はある。この世には幾つもの理がある。そして、社会には、理と理の対立が常時溢れていることを知らねば、話は始まらない。そして、その対立を解消する(あるいは解決する)過程の中で、社会の価値観が作られていく。これが司法的過程であり、その価値観の創造に参画し同時に義務を負うことが社会へのコミットメント、というわけである。

 リーガル・マインドといえば聞こえはいいが、文字面を守っているだけでは法を守ったことにはならない。大雑把に言うと、価値観を守るために法があるのだ。そして当然のことながら、この法は、万人に平等であるべきだ。やや問題を含んだ言い方ではあるが、法知識を持つ者にも持たない者にも、平等であるべきである。

 しかし現実には、法知識を持つ者が独占的に有利なポジションを確保していく状況が生まれつつある。すでにしてビジネスの世界ではそうであり、それは許すとしても、一般民の生活までそうなってよいものか、どうか。

 一般民は莫迦でよく、それを権力者が庇護すべきだと能天気なことを言うつもりはないが、その否定の論理が、僕が「知性」と呼ぶ現代の権力のあり方を固めつつあり、人を排除しつつあるように見えるのだ。この点、もう少し考えて生きたい。

 

 ところで、自分の非は甘んじて認め、代償も支払うつもりでラグビー協会が裁判に訴えた場合、裁判所はこの訴えを聞いてくれるのだろうか。どういう判断をするのだろうか。是非みてみたいものだ。相対的な弱者を、司法は救えるのか。

 

 


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