第374回 いまだ校庭で竹槍訓練(2005/02/23)

 

 ちょっと大上段な言い方だが、地方自治の力量が現在のところ最も試されているのは、教育である。

 公共の施策が総てそうであるように、教育もまた文部科学省の管轄下にあるが、○○村のどこに道を作るかということが国土交通省に、△△町のどこを畑にするかということが農林水産省によって細かく管理されているほどではない。

 つまり、文部科学省の管轄は、各都道府県の教育委員会までにしか及ばない。どこの小学校に誰先生を配するかといった細かいことについては教育委員会の裁量だし、その先生を何主任にして何年生を担当させるかということは学校長の権限である。実際、学校と仕事をしてみると分かるが、校門の内側における学校長の権限というのは絶大なものがある。自分の趣味と合わない先生を閑職に配するのに、誰に許可をもらう必要もないのだ。

 そして教育委員会の権限も大きい。去年、東京都の公立学校の、さまざまな研究会のメンバーになって発表したりしている意欲的な先生方に対し、「本職を疎かにするな」と戒める委員会の通達が出たところ、先生方は公にそうした活動をすることができなくなった。職員室から一歩も出ず、何十年も変わらなず、何を言っているのかわからない退屈な授業を続けている労咳もとい老害教師が「本職を疎かにしていない」と考えているとは、まさか思わないが。

 しかし、そんな学校に闖入者があるともうあたふたである。それまで偉そうにしている権限はいったいなんだったんだ、というほどにうろたえる。それは地方自治政府全体に波及する。

 

 先日の、大阪・寝屋川での小学校教諭が殺された事件のあたふたぶりがすごい。

 事件そのものは、そんなに難しい事件でもないと思う。ニュース等々は犯人の少年が引きこもりで、ゲームおたくで、とまたしてもそちら側にカテゴライズしようとしているが、簡単に言えば、うまく人間関係を作れず社会の中に居場所を作れなかった少年がたまたまあった逃避場所で世界への憎悪を募らせ、たまたま殺してしまった、ということに過ぎないだろう。

 小学校のころに担任がいじめから助けてくれず、その復讐だったというのは言い訳に過ぎない。彼の日記を漁っても動機につながる記述が出てこないのは当然である。たまたま、学校に行って、たまたま、その先生を殺してしまったのである。こうした無意味な情報をマスメディアは最も嫌う。世間を安心させるのが、マスメディアの重要な機能だから。

 それはそれで考えなければいけない問題であるが、その後の学校の治安対処というのが、もう滑稽を越えて戯画を越えて、哀れである。学校教育に関わる人々は、その程度のことしか考えられないのだろうか。

 とにかく、哀れなのはこの条例案である。川西市民は、包丁を買うときに氏名を書かねばならなくなるかもしれない。何をどう考えても、筋が通っていない。何を目的にしているのかさっぱり分からない。比喩として考えて欲しいが、日本一国が麻薬購入時に購入者の個人情報の登録を義務付けたが、周りの国では麻薬購入が自由で、かつ、水際でのチェックもないという状況で、その義務付けの意味があるだろうか。

 市長さん、目立ちたかったの?と思わざるをえない。

 

 その思いは、日々流されるニュースを見てもつのるばかりだ。毎日のネタに苦労しているローカルニュースなら仕方のないことかもしれないが、学校で防犯訓練とかいって、犯人役の先生をさすまたで取り押さえる風景が映像で流される。見るたびに切なくなる。

 「やりますよ〜」と新聞社やテレビ局に集まってもらって、取り組みを披露する会を催すことしか、できないのだろうか。そしてまた、そんなことが全国各地で行われている。愛媛県では、警察官が「まもるくん」という新たな「部隊」をつくったそうだ。ネーミングの悲哀はともかく、いかにも、テレビ映り向けに演出された出動風景がまた情けなさを増幅させる。

 

 こんなことでジョージ・W・ブッシュを引き合いに出すのもなんだが、学校に闖入してくる犯罪者はいわばテロリストである(あくまで戯画的に暗喩的な意味で、だ。真面目に受け取ってもらっては困るが)。

 ジョージによれば、昔の戦争というのは、国と国が外交手段を尽くし、尽き果てたときにどちらかの大使が重々しく開戦通知を手渡し、お互いの大使が召還されると同時に戦端が開かれるというものだった。戦場に斃れた人間は、国家によって意味づけをされ、丁重に葬られた。

 しかしまあ、それは、「理性」という名の政府による暴力が隅々まで浸透した古きよき近代国家の時代の話である。現代では政府による暴力は漸減され、そのぶん人々の自由は増えた。しかし同時に、古きよき「理性」の範疇ではいかんともしがたい行動をとる人々が出てくるようになった。

 それは、たとえば、東京の地下鉄でガスを撒いたり、飛行機をハイジャックしてニューヨークのビルに突っ込んだりすることであり。そして、実行した人たちにとっては、これははっきりと、合理的な行動である。そして死んだ人たちは、突然、理不尽な出来事によって強制的に幽明の境を越えさせられる。

 

 このことは、(これもまた戯画的にだが)一般社会の犯罪にも当てはまる。昔ほど、動機や犯意をもって犯罪を犯す人は少なくなりつつある。自分の行動の中に、明確に理性だったロジックを持っているとは限らない。いやそもそも、持っている人なんていなかったのだが、それを持っているように振る舞うことがこの社会の成員であることの条件だったのだ。

 しかし、人々の自由が増すとともに、明確な犯意を持っていなくても犯罪に走る人が増えてきた。「理性」で以ってこうした人を抑圧しようとしても、あるいは、擁護しようとしても、うまくいかないに決まっている。特定の誰かを殺したくて殺したのではないのだ。

 世界への憎悪や苛立ちを表現するためには生身の人間が必要で、だから、たまたま目の前にいた人を殺してしまうに過ぎない。こうした殺人は、殺人行為自体も旧来の社会に対して挑発的であるし、それ以上に、被害者の死が、(死そのものが本来はそうであるのだろうが)理不尽で、無意味で、犬死であることを露呈することによってより挑発的なのである。

 学校へ人殺しにやってくる人間が、「いまから人を殺しに行きます」という開戦通知を持って現れるわけではない。また、これもテロリストと同じように、誰が犯罪者であるかを判断することは難しい。学校の門は開けなければいけない以上、こうした人間が入ってくることを完全に防ぐことは不可能だ。しかも、学校では、現代日本では減少しつつある「公共の場所」の数少ないひとつなのである。公共とは、身分差や階級差に関わりなく人々が出入りできるという意味である。

 

 そんな時代に、教員たちによる防犯訓練である。何もしなければ指弾されるだろうが、何かやればいいというものではない。

 日教組も政府も反対しているし、教育委員会も好まないようだが、この公共空間のセキュリティを守るためには、政府が、「理性」による暴力を導入するより他ないだろう。つまりは学校に訓練された警官を配備するということである。当面の策はこれしかない。しかしその先、これは社会の問題になってくる。このサイトで何度も言っている、崩壊しつつある社会の再構成である。

 ゲームおたくの狂った犯罪と解釈しても、また、竹槍訓練を重ねても、その場しのぎ、その場の指弾しのぎに過ぎない。問題は総体的に考えなければ解決できないことを、肝に銘じておくべきだ。

 


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