

第387回 教育改革機運に一言物申す(2005/03/15)
朝日新聞の世論調査によれば、78%の人が「ゆとり教育」の見直しに賛成している、とのことだ。いずれこのページは無くなってしまうだろうから、大事なデータを列挙しておく。
・「ゆとり教育」の見直しに賛成−78%
・学校週5日制に反対−62%
・「総合的な学習の時間」を減らし主力教科に振り向けることに賛成−51%(反対33%)
・学力は低下していると認識−79%(うち6割が学校教育が原因と認識)
・学校教育に「生きる力」を育てる役割を期待する−66%教育関係の仕事を主にしている人間から見ると、何ともまあ、無責任な回答である。設問にも問題があったのかもしれないが、飲み屋の酔っ払いが調子よく答えているような矛盾した回答もある。
ついでに、こんな調査も出ていた。高校生の意識についての国際比較。
・授業中よく寝たり、ぼうっとしたりする−73.3%(米 48.5%、中22.8%)
・学校以外でほとんど勉強をしない−45.0%(米15.4%、中8.1%)
・十年後の自分は輝いていると思う−54.4%正直、最後の設問などは設問自体がいかがなものかとは思うが、この二つの調査から引き出されることは、最近の子どもたちは未来に夢も希望もなく、勉強もしないから学力が低下している。だから、学校教育を根本的に立て直してきちっと勉強させるべきだ−ということになりそうである、一般的には。
しかし、「ゆとり教育」はなにがしかの理由があったから導入されたわけである。また、「総合的な学習」も(大きな誤解だが、総合学習とゆとり教育は直接的には何の関係もないし、間接的には学習指導要領に書かれている教科総てが関係しているのだから、総合が学力低下の主犯だという批判は的を得ていない)それまでの教科教育に問題があった、と認識されたから導入されたわけである。
文部科学省の寺脇一派がいかんかったのだ、という人格攻撃や政治闘争の話はひとまず措く。「ゆとり教育」が失敗とみなされ、学力低下につながっていると考えられている昨今の状況は、「ゆとり教育」を導入したころの問題が変質したか、それとも、問題の捉え方そのものが間違っていたか、である。
僕の考えでは、実は学力なんてそれほど低下していないのではないか、と思っている。受験過当競争だった当時のエリート君たちを別とすれば、子どもたちの学習についての質はそれほど変わっていないように思う。
それから、教師の質もそれほど変わっていないように思う。相変わらず低い、ということだ。東大に公立高校から入った僕のような連中はもちろん、私立でもそうかもしれないが、実際に学校で何かを教わったという教師は、校内にひとりかふたりいた程度で、ほとんどの授業は退屈だったはずである。
その分は、塾に行くなり自分で勉強するなりして勝手にカバーしていたように思う。小学校の基礎的な読み書き算盤の時代を別とすれば、それほど、学校教育に何かを負っているという気がしない。どの学校に所属しているかということによって次のステージの展開が違ってくるという、学校の「名前」に負っている部分はあるが、学んだ内容についてはそうでもないように思う。
つまり、大きく変質したのは、子どもが「勝手に勉強する」条件が失われてしまったのではないか、ということだ。子どもの学習能力が落ちたわけでもなく、教師の質が下がったわけでもない。特に教師の質についていえば、これまでは子どもが勝手に勉強してくれていたためにバレずに済んでいたことが、今になって露顕しているだけではないか、と僕は思っている。
子どもが「勝手に勉強する」条件というのは、おそらく、勉強することによって将来的に何らかの社会的地位を確保できるという期待感であろう。多くの子どもたちは、勉強が面白いから勉強するわけではあるまい。このことは、教育システムが社会構造形成に大きな役割を果たしてきた日本社会の、昨今の機能不全の一面であるが、これはこれで一論を立てるに値するので、ここでは触れないでおく。
そこが問題点であるならば、ゆとり教育を廃止しても従前に戻るだけだし、教科を強化しても効果は少ないだろう。とりあえずの結論としては、教師の力を増加する方向で施策を打つしかないのではないか。間もなく引退に近い「でもしか」教師を全廃し、教師の給与をせめて1.5倍にし、残業代もつけ、あまり好きなことではないができる教師にはボーナスを出すなどして、優秀な人材を集める努力をしないといけないのではないか。せめて1.5倍というのは、それなりにきちんとやっている先生方の仕事ぶりを見ているとあの給与には見合わないのではないか、ということだが。
さて、ここで終わってはつまらない。教師の力とは何ぞや、ということになる。
以前、日記のほうでこのことを書いた際に、僕は「塾化」という言葉を使った。お金がなくて、低位の公立校でしか勉強できない子どもたちと、高位の私立校あるいは塾で親の資産を投じて勉強できる子どもたちの格差が広がることを防ぐために、公立校を強化する必要がある、ということである。
しかし、Igarashi氏からその認識は短絡的過ぎる、という批判をもらった。エリート育成私立校や塾がある一方で、公立校や低位私立校がその機能を果たしきれていないために、それを補完する形で低位の子供たちを指導している「塾」というのも多くある、ということだ。
低位というのはこの場合、たとえば、方程式を解くときにどうしても移項ができないとか、負の数を乗じるという概念が理解できないとか、そういうことである。(もちろん、エリート私塾の子どもたちも、テストに出れば解けるだろうがこの概念を理解できているかどうかは甚だ怪しい。)確かに、そういう塾や私立はある。そのことを踏まえないと、話が進まない。
ただし、氏とのやりとりの中で「教師の力」についての示唆があった。それは子どもたちの達成感、ということである。移項ができる、負の数の掛け算ができる、その達成感である。これを与えられるかどうかが、教師の力の大きな一部であろうと思うのだ。
画一的な教科教育が、この達成感を子どもたちに与えられなかった。だから「総合的な学習」が始まった。文部科学大臣をはじめ批判にさらされている総合学習だが、うまい先生がやれば総合学習ほど子どもたちに達成感を与えられる科目はない。個性に応じて、という一文が霞ヶ関から与えられているが、このことを把握している教師は意外なほど少ない。
つまり、総合学習が教師に求めているのは、今日の文脈でいえば以下のようなことである。全員を一定レベルに到達させるためには、画一的な授業をどうしてもしなければならず、当然、理解できない子どもも出てくる。だから、総合学習では、子どもたち一人ひとりの個性を見極めて、異なった課題を与え、その達成感を味あわせることが重要なのだ。
ここまでだと簡単そうに見えるが、クラスの子どもたち一人ひとりの個性を見極めている教師は驚くほど少ない。だから、的確な課題や役割を与えることができないのだ。
総合学習で有効といわれるものに、グループ間の交流学習がある。これは、特に小学生などには、国際異文化理解よりも、都会と田舎でやったほうが遥かに有効な類のものだが、グループ形成の折にリーダー役、調査役、プレゼン資料作成役、などに教師が子どもたちを振り分ける。この振り分けが重要なのであって、それぞれに適した子どもたちを振り分けないと、総合学習の意味がないのだ。
充実した学習の場合、子どもたちは、その役割をこなすことで大きな達成感を得る。もちろんそこまでには、教師が叱咤激励、時には泣かすほど追い込んだりして、子どもたちにとっても充実した成果を引き出すのだ。リーダー役の子が相手の鋭い質問に窮したときに、地道な調査をしていた調査役の子どもが突如代わって答えるなどのハプニングもまた、しっかりした授業設計がもたらしたものである。
しかし、ここまでできる教師はほんとうに希少だ。ほとんどの場合、総合学習は、学校の近所でメダカを捕まえたり、JETプログラムでやってきた外人とあやふやな英語の授業をやり、系統だった授業を年間通してやることはない。
そもそも、総合学習ができる教師は、一学期は子どもたちのコミュニケーション能力(聞くこと、伝えること)の育成に費やし、その間にそれぞれの子どもたちを見極めている。本格的な授業に乗り出すのは二学期になってからである。しかし多くの教師には、そのことが理解できない。
さらには、「あの子はリーダーで、どうしてあの子は下調べなの?不平等じゃない」などという、子どもの達成感そっちのけの悪平等論が振りまかれ始め、挙句は「あの先生のクラスの子はあれだけやっているのに、隣のクラスの子と差がつくのはおかしい」などと校長がPTAにねじ込まれることになる。(而して、優秀な(特に公立の)教師は、全国的には有名でも校内では孤立しているのが多くのケースである。)
かくして、子どもの個性尊重、各個の「生きる力」の育成を叫びながら教師の自主的な授業を否定する世間(その矛盾が冒頭の調査結果に現れている)、そして、画一授業に安穏としてみずから授業構成を練る努力を拒否し続ける怠慢教師たちによって、教育改革は頓挫しつつある。本気で改革するならば、他の条件が変化しない以上教師の質を上げるしかないだろうが、組合系ロートル教師がこぞって反対するであろう。
いま改革しないと、社会全体への影響の波及が避けられない、と危惧しているのだが。あからさまに混乱した調査結果をしたり顔で大マスコミが報じている世の中では、どうしようもないのかもしれない。