第394回 「経営に自由あり」、個人にはないのか?(2005/03/28)

 

 企業価値とは何ぞや、ということがホリエモンによるニッポン放送の買収劇から続いている。この話、そういういろんな要素が絡んでいて、ただの喧嘩でないところが面白いといえば面白い。

 ニッポン放送がライブドア傘下になった場合、出演を拒否するという人が増えている。江本孟紀、タモリ、市川森一、倉本聰らそうそうたるメンバーである。和田アキ子も、「社長が代わるだけで出演を辞めるつもりはない」としながら、大物ソフトバンクが出てきた途端に態度を豹変させた堀江社長に対して、「オメエ」呼ばわりで激怒していたとのこと。

 M&Aやら何やらの経済活動の自由を否定するつもりはさらさらないが、ものはやりようというものがあるもので、金さえあれば土足で入り込んで握手を求めてもよい、というスタンスは僕も如何なものかと思う。SBIの北尾CEOも同じようなことをいっていたが、いささか裏もありそうなので、ここは北尾さんよりは全面的にアッコさんに賛意を示しておこう。

 しかしながら、こうした態度は、知的インテリ系の人の間では、ホリエモンに対する「村八分」だとして非難していることが多い。(たとえばここ)が、どうだろう?ちょっと議論が雑ではないか?

 裁判にあたり、ニッポン放送が主張した「こういう人たちが番組に出ないだけで企業価値が下がる」という論理は、気持ちはわかるが論理的な主張としてはいささか無理があることはもちろんだ。人によっては荒唐無稽に映るのも当然だ。旧世代が既得権益の保守に走っているようにも見えるだろう。しかし、出演を拒否している人たちが、ニッポン放送という「権威」やら「既得権益」にぶら下がっている旧世代と断じるのもいかがなものだろうか。正直、タモリも中島みゆきも、ニッポン放送がなくても経済的には困らないはずだ。

 

 最初に、いたってコンサバな僕の感想を書いておく。

 今から書くようなことが合理的経済的思考の働く知的に優秀な方々に通じないのは百も承知ではあるが、タモリだって中島みゆきだってニッポン放送にいわば「育てられた」のである。そういう、人間個々人の力量や判断を超えたラジオ文化とでもいうべき土壌がある。これを守り、次の世代の人を育てるということにおいて彼らは責任を果たそうとしている。かっこよく言えばそうなるものが、ひとつの価値観であり、倫理である。

 同じことをもっと簡単にいうと人間は誰だってまあいろんなところにいろんな恩があっていまのポジションにいるわけで、その恩義っていう関係性からは無縁にはなれないのであり、それなりの対応をせねばならぬ、ということである。これが単なる保守的ナショナリストの戯言にしか聴こえないインテリ諸君には、カントの「何人も常に、他者を手段としてのみならず、同時に目的としても使用せよ」というインテリジェンス溢れる定言命法を(高田総統風に)プレゼントしておこう。

 もちろん、この考え方には問題もある。もはや担当編集者以外には誰もその作品を読まないような腐った作家が「大御所」として文壇にしがみついているような現状は問題だが、かといって、「文壇は腐っている」と言い放ちそれに拗ねた態度をとって、芥川賞の審査会を「所要で欠席」するような村上龍もどうかと思うわけだ。あなたただって芥川賞のおかげでここまで来ているのであり、次の世代を真剣に育てるという責任を果たすか、その気もなければ審査委員を辞めればいいのに、と思う。

 

 話が保守的になりすぎたので少し引き返す。

 タモリや中島みゆきが、ニッポン放送のお偉方と結託し、若手パーソナリティが番組を持つことを阻んでいる、となれば問題だし、ホリエモンの言うように破壊するに値するものである。が、マスメディアとはそんな悠長なことをしている暇のあるものではない。(逆に文筆の世界では、小説でも評論でも、大御所が若手の台頭を故意に防ぐという例が頻繁にある。)

 むしろ中島みゆきは独立独歩で一度は番組を降りながら請われて再登場しようとしているわけだし、タモリはむしろ若手の新規参入の足場を提供しているようなものだ。そんな彼らをして、既得権益にぶら下がる旧世代というのは当たっていないと思う。

 そんな彼らが、自分たちが現在のニッポン放送のスタッフとともに築き上げてきたスタイルを維持し、さらに発展させたいと考えるのは当然のことだ。そして、そのスタイルに対して敬意を払わない経営者や無知なスタッフがやってくるのだったら、そこを離れて、違う場所でクリエイティヴな仕事をしたいと考えるのも、非常にドライで合理的な考え方である。

 つまり、もしホリエモンが、タモリや中島みゆきに出て欲しいのであれば、彼らが出演するに値するラジオ放送を提供する用意があることを示すべきだ。また逆に、旧来のパーソナリティが出て行った後、新しいスタイルのラジオ放送をホリエモンが提供するのならばそれはそれでいいのである。

 そして、それだけのことである。ホリエモン側に立って出演者たちを非難する必要も、出演者側に立ってホリエモンを非難する必要もない。どちらにとっても合理的な通常の経済的行為なのではないのか?どっちにしても、今回出演拒否を表明した彼らの行動を経済的な規範から「保守主義者による村八分」と批判するのは、いくらなんでも無理があるのではないか?

 

 今回の論争をめぐって、堀江社長を支持するわりと頭脳優秀な人たちには、僕は違和感を覚えている。それは、経営というか、そのために投資される金が中立的だ、と考えているように思われるのだ。もっと極端に言うと、カネと、そのカネの扱いに象徴される合理的精神なるものは公正中立である。逆にそれに対して批判をすることは、感情的で、非論理的で、狂った思考なのだ、ということがあらかじめ想定されているように思う。

 もし会社の経営やその経営を決定する株券が、番組(製品)の質に対して中立あるいは資本の効率化によってむしろよくなる、という前提が正しければ、経営者が変わったら番組を降りるというタモリ、中島みゆき、倉本聰らの態度は確かに村八分を求めるものだし、恐喝まがいでもある。

 しかし、そういう前提は必ずしも正しいとはいえないし、何より、その前提を被雇用者なり、契約の相手なりに強制することはなおさらおかしいことだ。とりわけ、フリーランスで仕事をしているパーソナリティたちはそんな前提を受け入れる必要すらないのであり、もしそのパーソナリティが企業価値を維持するために必要なのであれば、彼らを説得する材料をそろえるのはむしろ経営者側の仕事である。

 

 確かに今回の一件、僕はそれが本質だとは思わないけれど、世代間闘争の様相が一面ではある。メディアの報道の仕方も、おおむね、さまざまな制度で守られた既得権益を破壊しにかかっている堀江社長に対して嫌悪感を底流に漂わせている。当事者となっているニッポン放送やフジテレビがそうなるのはなおさらのことだ。

 そうした、旧態依然とした経営者たちを批判するのは理解できる。何もしていないテレビ局の管理職の給料を半減すべきだ、というのはそのとおりだろう。だが、それと、このパーソナリティたちの行動は、同類ではないのではないか。

 

 現実問題はともかく、経営者と、契約する労働者は対等な関係であることが、自由主義の世の中の原則である。そうでなければ、さまざまな手段を使って資金調達などできないのは当然である。

 自由主義の世の中では、株主が、その企業の仕事の内容や成長度合いに応じて経営者を選ぶのだという原則が今回はっきりさせられたのと同じレベルで、労働者もまた、自分の好みや給与等を判断して、経営者あるいは会社を選択することができなければならないだろう。

 ただし、現実には、金がある経営者と金がない労働者の間には厳然とした差がある。株主は金があるから身軽に会社を選べるが、労働者は労働以外に提示する条件がないためにそう簡単に転職することもできないのは往年マルクスが主張したころから変わらない状況である。ここで理念どおりの自由主義を貫けば、悲惨なまでの労働条件の切り下げが発生することは目に見えており(すでに現実化しつつあるが)、これは社会政策によってフォローしなければならない。

 しかしながら世の流れは、経営優先に傾きつつある。おそらく、近代社会が是正すべきひとつの課題として追及してきた労使対等は、もはや風前の灯である。そんなご時勢のなか、フリーランスの契約相手に対してまで、経営の自由を保障するために彼らの行動を制限するような主張をするのは、大多数の労働者の条件をますます悪化させるのに加担するのではないか。

 繰り返すが、経営の自由も株主の自由も大事だ。しかし、それによって契約相手であるところの被雇用者の自由が犠牲になる必要はまったくない。そうしなければグローバル・メガ・コンペティションに勝ち残れない、というのであれば、我々は地道にその「こんぺてぃしょん」やらを変革する方向で努力する必要が求められているのではないだろうか。少なくとも、合理的という必要もないほど自然な個人の選択を「村八分的制裁行為」と非難するよりは、そのほうがはるかに生産的なことだと思う。

 全体として、被雇用者が守勢に回っている現在、せめてフリーランスの個人に対してぐらい彼ら自身の選択を認めてやらなくて、何が自由な世の中なんだろうか。

 


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