

第398回 「許し」?それとも「赦し」?(2005/04/12)
今日の朝日新聞の朝刊、社説に書かれていたことがあまりにひどかったので、忙しいなかを縫って書いておこうと思った。
いずれネットからは消去されるだろうが、社説は四月十二日付のこれである。タイトルは「八方ふさがりの日本外交 小泉首相の責任は重い」というもので、要するに、韓国人がソウルで日の丸焼くのも中国人が北京でデモして日本大使館に石を投げるのも、そりゃまあ、多少は相手方にも責任はあるが、もとはといえば小泉首相が靖国神社に行ったりするのが悪い、という内容である。
ナショナリストを標榜してはいるが、僕は、靖国の現状にも首相の参拝にも批判的であることは、このサイトに来ていただいている方はご存知だろうと思う。しかし、それを割り引いても、この朝日の社説はひどい、というか悪質だ。そもそも、靖国問題も日本という国があってこそ成立する課題なのだが、国家論を語ることを避けて靖国に問題を矮小化している(あ、韓国的な言葉が出てきてしまった)。
日本が戦争に負けたという事実、あるいは原爆という「人類の最終兵器」を落とされたという事実をもって、卑小な近代国家の枠組みを捨てて普遍的な態度を取りたがるのは、どの批判からも自分の身をかわして己のみが正義を叫ぶための日本の左翼の最低の行動だが、それが、この社説には陰湿に漂っている。
だから、ナショナリストとして、すなわちモダニストとして、またリアリストとしても、朝日の社説の完全な裏側のことを今日は「あるべき」現状認識として敢えて書いておこうと思う。それは、「日本のやってることもまあひどいが、中国と韓国は本質的にもう手に負えない」という内容になるだろう。
口実であれなんであれ、今回の一連の騒擾の原因が、日本が国際連合の常任理事国入りを目指し、インドやブラジル、それにドイツなどと組んで運動を始めたことにあるのは間違いない。そして韓国も中国も口を揃えて、「近隣諸国の信頼を得られない国が常任理事国などになるべきではない」という。
ではどうして近隣諸国の信頼を得られないのかといえば、「先の戦争に対する謝罪と補償が足りず」「歴史に対して正しく向き合っていない」からなのだ。いつも手に負えないのは、ここからだ。謝罪と補償?歴史に対する「正しい」認識とは?その「正しい」認識の「正しさ」は誰が決めるのか?
韓国の盧大統領は先日の日本への「外交的戦争」を宣戦する文章のなかで、謝罪のあり方について、「加害者である日本が謝罪し、韓国がゆるす」というかたちであるべきだ、と述べた。そして、ドイツはちゃんとやったが日本はやっていない、と語っていた。
この、「ドイツはちゃんと謝罪したが日本はうやむやだ」という話は、それこそ、高橋哲哉大先生らを筆頭に、NHKとの戦いが迷走しているバウネット、それに朝日新聞に至るまでの日本の硬軟の左翼がいい続けてきたことだ。しかし、ドイツと日本の状況がまず本質的に違う。
相違点はいくらでもあるが、今日の話にとってもっとも大事なことは、日本と韓国は戦争をしていないということである。日本と韓国の状況をあえてヨーロッパに比するなら、「ドイツとフランス」あるいは「ドイツ人とユダヤ人」ではなく、「フランスとアルジェリア」あるいは「イタリアとエチオピア」あたりと比較しないと、感情的な高ぶりはともかく、ロジカルな議論になりようがない。
日本と中国は戦争をしたが、これも、中国は日本に負けなかったが事実上勝ったわけではない。日本がアメリカに負けたついでに勝利を手にしたのである。中国の勝利が国際法上確定したとき、その「中国」は台湾小島の地方政府に過ぎなかった。日本は共産中国に敗北したわけではない。
この事実が、両国を苛立たせる原因になっている。先日も韓国について書いたが、中国も、現在の北京政府が日本にすっきり勝利して建国したわけではない。日本の極悪非道ぶりとそれを民族の力で克服したことは、両国史上初登場した近代国家の建国「神話」にとって重要な柱となっており、日本がそれを感情的にはもちろん、冷静にであれ否定することは彼らの近代国家としてのアイデンティティを否定することになるのだ。
そんな彼らが求める日本の「謝罪」とそれに対する「ゆるし」とは、何か?
「ゆるし」とは何か?これこそ、高橋大先生が研究されているレヴィナスを筆頭とした多くの20世紀哲学者たちが頭を悩ませてきた問題である。もちろんそれは、歴史に多少なりとも関心を持ったニーチェ、ヘーゲル、カントにまで遡る。
大変難しい問題だが、幸い、この問題を簡略化することが、われわれ漢字を使う中華文化圏(!)の民草には「ゆるされて」いる。それは「ゆるし」には二つあって、「許し」と「赦し」である、ということだ。
「赦し」からいこう。たとえば、キリスト教では神が罪びとを「赦す」ことがある。恩赦とか大赦とかいって、刑務所の服役者を釈放することがあるが、これは、天皇家の慶事に便乗してその罪を「赦す」わけである。簡単に言うと、世俗を超越した宗教的、あるいは人間の内面にかかわるメタレベルのはたらきによって罪障をなくすことである。
つまりこれには、神様が必要なのだ。ローマ法王に赦されたクリスチャンは幸せであろう。そして内面的な高揚も期待できるだろう。またある意味では、人間同士の力では解決できないことに対して使う「赦し」である。
一方、「許し」は世俗の出来事、人間界の出来事である。「神の赦し」とは言っても「王の赦し」とは言わないし、「天皇の赦し」と言っても「殿のお赦し」とはまあふつう言わない。やはり「殿の御許し」なのである。
これは、人間と人間、個と個の間の関係で発生したことを「許す」のだ。当然、神がいないから、双方大満足、心から納得することを期待することは難しい。しかし、個と個が出来事の発生以後も関係を取り結んでいかなければならない場合、この「許し」が必要になってくる。よく言えば大人の関係である。相手の謝罪を受け止めると同時に、自分の内面の不満も克服する努力が必要なのである。そして汚く言ってしまえば、妥協が含まれるのである。
中韓が日本に謝罪を求めているが、彼らはどんな「ゆるし」を行うつもりなのか。
たとえば、中韓を初め日本の左翼に至るまで理想例とするドイツを考えてみよう。ユダヤ人がことごとく、ドイツを赦したか?フランス人はドイツを赦したか?そうではあるまい。「許した」のである。もちろんそこには、内面的な葛藤があるだろうし、それは未来永劫とは言わないまでも当面の間消えることはない。だが「許した」。
「許した」ことによって、ユダヤ資本は欧州経済の心臓部であるドイツに復権し、フランスは欧州における政治的プレゼンスを得て、ドイツと協力しつつヨーロッパ共和国への道のりを歩みつつある。それは妥協でもあるし、契約でもある。もちろん、キリスト教会が、内面的な葛藤の克服に与るという共通の精神的風土を持っていたことも効果があっただろう。しかし、自立した個人の集合体としての一人前の近代国家として、文書に署名した。それが契約の意味であり、「許し」の意味である。
ひるがえって、東アジアはどうか。
「許し」ならとうの昔に行われているのである。1952年、サンフランシスコ平和条約で日本は台北政府との戦争状態を終結させた。1965年、日韓基本条約が結ばれ、日本は補償を行った。1972年、日中平和条約が結ばれ、北京政府は賠償請求権を放棄し、代わりに、日本は莫大な対中投資を行うこととなった。
これを反故にして、日本にさらなる「許し」を求めることが許されるかといえば、許されない。もしも、中国や韓国が、一人前のきちんとした近代国家であるならば、という条件付きだが。
今日は暴言の日ということにしておく。その前提で言う。中国も韓国も、一人前の近代国家ではないのである。そんな国を相手に近代人としての冷静な話をしても意味がないのだ。
伏義・女禍の世界創造神話や壇君の建国神話のような、数千年も昔の害のない神話ならともかく、たかだか数十年前の出来事を、捏造歪曲とは言わないまでも不利な要素だけ捨象し有利な要素だけを誇張して神話を創造しなければ国としてのアイデンティティが保てないような国が一人前の「近代」国家であろうはずがない。そしてまた、そのような国に「許し」を期待するだけ無駄というものである。
上記のように、両国は、すでに一度締結した「許し」の内容を変更するかのような要求を次々と出してきている。これだけでも、「許し」を乞う相手ではないことが明らかだ。
しかも彼らは、愛国心の発露などといった内面的な言葉を使って、「赦し」の権利まで行使しようとしている。しかしたとえば、彼らの理想であるドイツと周辺諸国は、一応一人前の「近代」国家である。
どういう意味かといえば、自分たちが神ではなく、人間であることを知っている、ということだ。神の仮面をかぶり正義を背負って問題の解決に当たってもロクなことにならないばかりか悲惨な結末になることを、度重なる宗教戦争から経験している。(だからこそ、「近代」国家が成立したのである。)
だが、アジアの友邦の態度はそうではない。彼らは、日本が土下座どころかはいつくばっても赦さないだろう。彼らの言う「正しい歴史」とは、「加害者の国民の内面を、被害者の側が規定する権利が当然ある」といういささか神がかった信仰に基づいている。
中世欧州で多くの書物が焼かれ、男が殺され、女が乱暴され、魔女が焼かれたが、そこまでしてもアジア友邦の「赦し」が得られるかどうか。試しにデモに参加したり、日の丸を焼いている連中に聞いてみるといい。日本を滅ぼす、というぐらいのロクでもない答えが返ってくるのが関の山だろう。
これまでも条約締結後、必要になるごとに南京、百人斬り、人体実験、教科書、毒ガス、慰安婦、とネタが連発されてきた(その過半が、どこの新聞社とは言わないが怪しげな証言を元に日本人によってでっち上げられた「事実」であることが最低の不幸ではあったが)。もしここで靖国で妥協しても、再び新手のネタが登場することは間違いない。それはもちろん、強請集りの類でもあるのだが、もはや和解が程遠い双方の精神構造のゆえでもある。
最後は少し暴言度を抑えて整理しておく。つまるところ、彼らは、彼らが受けたと信じている仕打ち(それとてかなり誇張されているというべきだが)を日本に仕返ししてやりたいという恨み辛みがあり、それが解消されないストレスを抱えているわけだ。それがああいう行動になる。
それに対して、日本が理解しておくべき側面もある。何事もなかったかのように日本が一人前の近代国家面して(それもかなり怪しいのだが)、「過去は過去ですから、未来志向でね」というような顔をして靖国に参拝してしまうと、いたずらに相手のトラウマを刺激してしまう。それはそれ処世術というものも必要であるから、そこは何がしかの配慮を探り合う必要があるだろう。
しかし、中韓との「真の和解」を、などというのはそれと別次元の話である。和解する意志のない相手と和解はできない。イエス・キリストのような稀代の自己犠牲の精神を持っていたりすればまあ別だが、それとて、和解する意志のない相手と和解することがいかに宗教的にも困難な課題であるかを示しているだけだ。
そしてその宗教的な要素で内面の和解を図るということも、ヨーロッパと違いアジアでは難しい。アジアにネットワークを広げているのは茶の湯の裏千家ぐらいで(なにせ家元が訪中すると釣魚台で国賓級の待遇である)、仏教はもはや同じ仏教と呼ぶのが困難なほどに日中韓では乖離してしまっている。「赦し」は期待しにくいのが現実だ。
根本的には、僕は、日本に対しても当然一人前の近代国家たれ、と期待している。国内的にも国外的にも。そして、現実にはまだまだの部分が多いことは間違いのないところだ。ただそのことと、中韓の正義を己が正義とすることとは話が別である。
歴史の終焉を15年ほど前に越えてコスモポリタン面している日本の美しい市民左翼の皆さんは「真の和解を」とのたまわれる。それに匹敵するぐらいの崇高な精神をお持ちのようなので、万が一この国の危急に際しても決して抵抗せず、死の直前まで銃口を向ける相手に向かって和解の可能性と平和の尊さを訴え、しかし蹂躙されるままに殺されて国と運命を共にされ、人類史に光輝ある一頁を残されるかもしれない。(もしそんな方々が、私は世界市民だからといの一番に逃げ出したりしたら、僕が地の果てまで追い詰めてそいつらを殺しに行くだろう。余談)
しかし、僕はそれほど高貴な精神も崇高な理想も持ち合わせていない。だから、彼らの「赦し」が得られるまで暴戻に耐えるよりはそれに抵抗するための手を打とうとするだろう。ナショナリストであり、つまりはモダニストであると自己規定している僕としては、もはや近代的な論理のレベルでは彼らと断交することも視野に入れ、、それ以外での道を模索すべきと考えている。
それは例えば、残念ながら、中国が、庶民を奴隷的に使役する70年ほど前の軍閥割拠国家になってもいいから、権力者の欲につけこむといったことである。また、相手が信頼に足る近代国家ではないのだから、70年前のように、一朝事あるときは軍隊を派遣するような体制を整える必要もあるだろう。
内面の葛藤を両者が抑制する意志がなかったり、あえてそれを外交カードに使ったりするのなら、少なくとも「近代」国家としての関係を取り結ぶことは諦めたほうがよい。それ以外にも関係はありうるが、少なくともその努力は無駄だということである。
神もなく、メタ・レベルの権力機構もない国際関係では、それがある種の冷厳な現実だ。それから目を逸らすような、一面お花畑満開みたいな能天気なことを書いたり語ったりすることは、げんなりすると同時に有害でもある。それは決して、「許されない」。