第402回 近代の向こう、傭兵の靴音(2005/05/10)

 

 イラクでまたも日本人が人質になった、という言い方は間違っているかもしれない。何しろ、負傷した日本人を捕らえている武装グループからは、自衛隊の撤退要求はもちろん、身代金の要求も出されていない。

 イラクの武装グループに日本人が捉えられるのはこれで四度目ということになるが、それぞれにヴァリエーションがある。今回は、いろいろあるが、傭兵だ。イギリスの警備会社なんて言っているけど、本質的には傭兵だ。

 どのテレビ局のニュースを見ても、現在の郵政民営化論議にひっかけて「戦争の民営化」などと報じていた。民営化には違いない。しかしものすごい違和感を覚えた。マスメディアだから仕方がないが、この傭兵という事態は国営か民営か、国家運営か効率化かという問題とは全然別次元の大きな問題を抱えている。

 

 ひとつは、こうした形態の民間軍事会社の人間が戦場にいること自体が、現行の国際法をすり抜けており、行動に対して誰も責任を取らないことだ。アメリカのラムズフェルド国防長官はこの種の民間軍事会社へのアウトソーシングを推進している一人だが、それは「そのほうが効率的だから」である。テレビニュースでもそう言っている。ただし効率的、というのは、単にカネが安上がりだという意味ではない。むしろ重要なのは、国際法上、占領軍は非常に面倒な責務をたくさん負わされていることだ。

 実際、アメリカ軍は、自分たちのことを占領軍と規定していない。阿呆なハリウッド映画じみた、西海岸海上に浮かぶ航空母艦に降り立ってのブッシュ大統領の事実上の勝利宣言も、あくまで「事実上の」勝利宣言であったことを忘れてはならない。あのスピーチで大統領は「大規模な戦闘の終結」を宣言したのであって、裏を返せば、小規模な戦闘は継続中なのである。

 したがって、戦闘が継続中であるかぎり、アメリカ軍は戦闘のための軍隊であって占領のための軍隊ではない。だからこそ、一般市民の家の扉を蹴破って令状もなしに家宅捜索をしたり身柄を連行したりすることができるのだ。もし戦闘が終結していて、アメリカ軍が占領軍になったら、60年前に日本がGHQに統治されたようにMPという別個の警察隊が必要になるし、勝手な捜索は許されなくなってしまう。

 そうした面倒から逃れるための最も手っ取り早い手段が、傭兵を使うことである。傭兵が何かをしても、アメリカは国家として直接責任を負わない。それは傭兵が勝手にやったこと、と言い逃れてしまえば簡単である。これら民間軍事会社の人間が、正規の軍事行動ではなく、武装グループに対する警察的行動に従事していることから、彼らを傭兵と呼ぶべきではないという声もあるようだが、むしろそれだからこそ「傭兵」と認識すべきなのだ。何しろ正規軍と違って、「傭兵」については国際法上、明確な法規定がなく、責任の所在もあいまいなのである。

 

 なぜか。これが第二の点になるのだが、それは、傭兵というのは近代世界があまり想定していない制度なのだ。というよりも、傭兵制を否定して徴兵制を始めるところから、現在の国際社会を規定している近代国家が始まったのだ。

 ギリシアの都市国家や共和制ローマといった一部の例外を除いて、多くの古代国家は身分制度の中で戦士階級を有し、彼らが兵隊となって戦争をしてきた。しかし長い中世の間に戦士階級が崩壊し、傭兵にとって代わった。近代世界の予兆をもたらしたドイツ三十年戦争(1618−1648)で戦っていたのはほとんどが各王朝に雇われた傭兵たちであり、英雄ワレンシュタインも傭兵のリーダーでしかない。

 近代の幕を開けたフランス革命は、こうした傭兵を否定するところから始まった。ハプスブルク帝室出身の王妃、マリー・アントワネットを処刑した革命フランスは、その復讐と革命機運の波及を防ぐために進軍してくる傭兵主体のオーストリア軍に対して、それまで軍事には素人だった市民が銃刀を手にして立ち上がり祖国防衛戦争に赴いた。このとき、マルセイユ市民の部隊が行軍中景気づけに歌った歌が現在のフランス国歌である。

 素人集団のフランス軍は緒戦でさんざんに負け続けたが、歩兵部隊と騎兵部隊、さらには砲兵部隊の運用に画期的な作戦をもたらした軍事の天才、ナポレオン・ボナパルトの登場により事態は一変した。「祖国のために」というナショナリズムに根ざした士気の高さと行き届いた訓練、練り上げられた戦術を可能にする統一された部隊行動などにより、素人だったはずの徴兵制の軍隊はプロであるはずの傭兵軍を各地で撃破し、イギリスとロシアを除く全ヨーロッパを制したのである。ナポレオンは結局敗れたが、その影響は絶大で、以後、どの国も、徴兵制による近代軍の創設へと向かい、それは近代国家の重要な柱となった。

 

 つまり、徴兵制とは、われわれが暮らす社会の価値観を作っている、近代の重要な要素なのだ。近代国際法は、基本的に、徴兵制に基づく国家間の戦争を想定して作られている。だから傭兵に関する規定がないのだ。

 もちろん、近代世界になってからも傭兵はたくさんいた。ゲバラだってキューバ人じゃない。しかし現在の事態は、単にその網の目を潜ったかたちの非国家主体による戦闘によって戦争の形態が変わりつつあるというような生易しいものではない。それだけだったら、近代国家がまだ健全な時代にもあった。

 むしろ注目すべきは、「近代の衰弱」のほうなのだ。僕はこれを「中世化」、と親しい人には呼んでいる。

 中世化にはいろいろな要素があるが、傭兵というのは非常に分かりやすいもののひとつだ。一例を挙げると、今回身柄を拘束された日本人は有名なフランス外人部隊に所属していたという。このフランス外人部隊は、上記のフランス革命によって生まれたフランス近代軍が、ナポレオンの敗北によって厭戦気分漂う中、時代を古きよき中世的王朝支配に復古させようとした国王ルイ・フィリップによって1831年に創設されたものである。このとき国王は「ひとりのフランス国民も戦場に送らない」と述べた。それは、平和主義のようでありながら、単に中世への復古であり、一度は国王を支持したフランス国民も、やがてその中世復古という本質に気づき、それを拒否した1848年の二月革命で再び近代国家への道を歩むことになる。

 

 中世化は着実に進行してきた。ルイ・フィリップの時代の出来事は、現代社会にも相通じる事態である。厭戦気分が漂えば、国民皆兵は成立しにくい。いっそ傭兵にしてしまえ、という声が高まることは事実だ。しかし、安易にこの方針を推し進めれば、自由で平等な個人が責任を持つ近代社会の基盤そのものを危険にさらしてしまう。

 戦後60年、平和の皮膜に保護された日本ではもちろん、アメリカでもヴェトナム戦争での反戦気分から徴兵制はなくなった。しかしそれは平和に進んでいるとは言いがたい。むしろ国家の軍隊そのものが傭兵化しているのだ。軍隊に行くのは、国家選抜を経た優秀なエリートというよりは、軍隊に行くのが経済合理性から見てもっとも正しい貧困階級の若者たちである。

 しかも近代国家の一体感を支える重要な機能であるナショナリズムが疲弊しているため、彼ら軍隊に行く貧困層と、ホワイトカラーの高所得者たちが共に暮らす社会の一体感を持ち得ない。華氏911が描いていたことは、単にブッシュが阿呆の猿だというだけではない、われわれが暮らしている社会の崩壊ではなかったか。

 

 現実に、傭兵の時代は近づきつつある。今回の事件は、日本にもそれが他人事でないことを示している。

 お金で動く職業軍人が戦争をするという中世のありさまに逆戻りするだけなら、それはそれでよい。中世の農民は、身分制社会であったがゆえに、いまわれわれが享受している自由やら平等やら基本的人権というものはなかったが、そのぶん、滅多に戦争に借り出されることがなかった。もちろん、自分が住んでいるところが戦場になってしまい、食料財産を接収されたり、焼かれたり、命を落としたりはしたが、それはどちらかというと台風とか地震に近いものだった。

 自由やら責任というものが面倒くさく、自由からの逃走を企てている現代人にはそんな中世的世界が住み心地よさそうに見えるが、しかし、決してそうはならないだろう。かつての中世にはなかった、資本というものが今はある。それは人々を否応なく、資本の力のおもむくところに駆り立てる。

 これから逃れることはほとんど不可能に思える。見田宗介大先生はそのマルキスト的観点から、近代史は「資本主義社会への疎外」の後に「資本主義社会からの疎外」がやってくるという、二つの疎外が存在すると言っていたが、この「資本主義社会への疎外」という概念はけっこう重要だ。清貧の思想で資本の誘惑から逃れられると安易に思っている人は、それが誘惑ではなく圧倒的な暴力であることをいずれ知るだろう。

 そして、その暴力の犠牲になる人がいたとしよう。近代社会であれば、多かれ少なかれ誰かの責任を問うことができた。原因を追究し、二度目の悲劇を防ぐ措置をとることが意味あることとされた。しかし多くの人が自由と責任を放棄した新しい時代においては、それは中世と同様、天災的な運命でしかない。

 どこかの国の軍隊が自分の土地を踏み荒らしたならば、相手国ないし自国の政府に補償を求めることができた。しかし、多国籍の傭兵に土地を踏み荒らされたとき、誰を訴えればいいのか?その傭兵個人か、雇っていた会社か?その傭兵が帰属する国か?それとも、傭兵とは関係なく、戦争を起こした国なのか?

 このルールが規定されることは、よほどのことがないかぎり無理だろう。なぜならそれは、民間軍事会社の資本活動を阻害するものであり、資本の力に反するからだ。いま、その資本に反する力は圧倒的に弱い。資本と社会には駆り立てられ、酷使されるが、犠牲になるときはそれが運命であるとあきらめるように諭されることになるだろう。

 そしてすでにわれわれは、資本主義社会へと疎外されてしまっている。逃げ道もないのだ。そんな状態で、近代史がよりどころとして人々に与えてきた自由や平等、人権を奪われたらどうなるか。中世社会の悪しき側面、激しく固定的な身分格差、抑圧、不自由、実験や発展の阻害、合理精神の発露の禁止、異端審問などが、中世社会以上の勢いで吹き荒れることだろう。住み心地よく生き残るのは一部の勝ち組だけで、多くの人々は、勝ち組を支持しつつ貧困化され収奪され奴隷化されていく時代が迫りつつある。

 

 傭兵の跋扈はそのひとつの兆候に過ぎない。バウマンは否定的ニュアンスで使っているが、僕にはそんな時代が「後期近代」とは思えず、むしろ「新中世」とでも呼ぶべき時代だと思うのだ。いまこそ、それへの抵抗が必要だと思うのだが、その声はあまりに小さい。せいぜいわが身一つを隠す塹壕を物理的にも思想的にも築くのが精一杯である。

 ただこれだけはいえる。イラク戦争を支持する新種の神がかったアメリカのナショナリズムや、リアリズムのふりをした現在の日本の脆弱な新ナショナリズムも、また、それを批判する啓蒙思想も、あるいはそういうことに関心のなさそうな合理精神に基づいた新自由主義も、どこかで手を取り合って、そうした暴力的な「新中世」の到来を招きつつある。

 そのことへの警戒感を捨てないことだ。そして、使えるものは使って抵抗すべきだ。今回の事件を、郵政民営化のアナロジーと捉えるような愚は一晩で捨てなければならない。

 抵抗のよりどころは、ひょっとしたら私が彼かもしれない、ひょっとしたら私がイラクの人かも、ひょっとしたら私がゲリラかも、と、「代替の可能性」を可能にする想像力である。それが現在の社会に最も欠如している。「新中世」にも人々が生き残っていける可能性を残すには、それしかない。


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