第404回 罪を憎んで…?(2005/05/15)

 

 国会で、小泉首相が吠えていた。靖国参拝をやめるつもりはない、中韓は内政干渉だ、A級戦犯合祀は「罪を憎んで人を憎まず」だ、と。

 ひとつひとつはいいのだが、丁寧にやっていかないと難しいことばかりだ。

 ひとつは、この「罪を憎んで人を憎まず」というのが難しい。中国や朝鮮のような儒教国家では、人を憎まないわけにはいかないのである。これは文化的な相違で、この点に関しては、歴史的にも日本がいちばんゆるい。

 中国などでは、王朝が交代したときなど、5世紀以降はほぼ例外なく罪がなくとも前王朝の一族は皆殺しだし、墓も暴かれる。王朝交代でなくても、死後に叛逆の罪を着せられて墓を壊され、遺体に鞭打たれ磔晒し者にされた挙句、七族の親戚まで悉く殺されるなど、家のつながりを大事にする主義だけに、その人のみならず一族まで影響が及ぶ。

 この「家」と、家に結びついた個人という観念は、日本ではなかなか理解しがたい。余談になるが、僕は夫婦同姓でも別姓でもあまりその議論には関心がないのだが、日本のフェミニストの中には、夫婦同姓を強制する日本よりも別姓の中韓のほうが開明的で進歩的だ、というようなことをいまだに真顔でのたまう人がいる。「家」についての観念がまったくない安易な議論であるが、それほど、日本は儒教を受け入れた国でありながら儒教的価値観から遠い。

 日本の歴史を紐解くと、多くは当人が殺されても、妻や家族は出家させられる程度で何とかおさまっている。大伴家持の遺体が墓から掘り起こされて鞭打たれたなど、例外的な出来事である。為政者の側もそこまでする気がないし、される側もそこまでされる気がない。七族が殺されることが分かっていながら皇帝の意にそぐわない文章を改めることを拒む歴史家など、日本では想像もできないのだ。

 韓国でも事情は同様だ。「戦後の総決算」を謳う現盧政権は、その総決算のひとつに、植民地時代に日本の統治に協力した人物を洗い出し、その子孫の財産を没収して、反日に戦った「勇士」たちの子孫に分配することを決めている。日本人からすれば「え〜それってまともな近代国家なのかい」としか言いようがないが、彼らにとっては自然なことなのかもしれない。ご先祖様が抗日運動や解放戦争(=朝鮮戦争)でどれぐらい活躍し、また、アメリカや南朝鮮に妥協しなかったかによって家の「成分」が決まる北に至っては言うにや及ぶ、である。

 まあそういうわけで、日本の「罪を憎んで人を憎まず」という考えはなかなか理解してもらえないのである。これは頑張って理解してもらうよう努力するしかない。国際理解のひとつだ。それを怠って文化の違いを訴えているだけでは、駄目である。

 

 とはいうものの、重要なことはもうひとつあり、こちらのほうがより重みがあると僕は思うのだが、日本は果たして「罪を憎んで」きたのだろうか?

 「ナショナリスト」を自称する僕があえて繰り返し言う靖国批判の根っこはここにある。実は日本人は罪を憎んでもいないのである。

 東京裁判には日本人が参加していなかった、これが戦後のねじれ構造の発端だと言ったのはジョン・ダワー氏だが、そのこともあって、人も罪も憎んでいない宙ぶらりんな状態が続いていて、この宙ぶらりん構造においてのみ、石原慎太郎的なナショナリズムも、市民派的な平和主義も成立可能なのだ。

 東京裁判で裁かれた罪人を、いまさら鞭打つ必要はない、というのが小泉首相のロジックだろう。しかし、日本政府はこっそりだが事実上東京裁判を否定している。公式に首相が発言したことはないが、あの手この手を使っている。なかでも、A級戦犯を「昭和殉難者」(絞首刑になった七人をして殉難七国士と呼ぶこともある)として靖国神社へ合祀することにより、名誉を回復しているのだ。

 もちろん、東京裁判を、勝者による一方的な捌きだから国際法的に無効だと主張するのはひとつの見識である。しかし、であれば、アメリカに頼らず日本自身が、「A級戦犯」ではなく「戦争指導者」の責任を追及すべきである。何でもドイツと比べるのには感心しないし、ドイツだってすべてにわたって正当に責任を追及したわけではない。ナチの情報機関はCIAやKGBに雇われて戦後も大活躍し、ために追及を免除されている。

 しかし、ドイツと日本の違いがあるとすれば、ドイツはまがりなりにも自分の手で調査機関を設置し、いくばくかの指導者の責任を追及したが、日本はそうしていないということだ。日本も東京裁判に甘んじないのであれば、そうすべきだ。

 個人的な意見を言えば、それは中韓のためにやるのではなく、第一義的には、領土の維持に失敗し、多くの同胞を死地に赴かしめ、子孫の代までわけのわからない指弾を受ける原因を作ったことに対する政治的責任である。僕が戦死者なら、責任を取らない指導者たちと合祀されるのは真っ平御免だ。

 そんなことで英霊に報いているのだろうか。今も続く、日本社会の無責任体質の根源を作り出してしまったこの事態に、心ある英霊は嘆いているのではないか。

 

 にもかかわらず、日本のナショナリストは、東京裁判を否定しながら、「不当な東京裁判」を免罪符にして責任の追及を免れているのである。そして左翼同様、日本は戦争で負けたことで近代史を超えて普遍的な立場、歴史の終わりにいるような振りをしている。これはナショナルなものに触れるのが面倒な市民派左翼の方々の得意技だが、ナショナリストを気取る小泉首相の言う「未来志向」というのも同根である。扱うのが面倒な過去のことに触れたがらないだけだ。

 人を憎まなくてもいいが、罪を憎むのは近代国家としての責任だ。それができていなければ、「許し」ではなく「赦し」を求めることになる。人を憎まないのは、宗教的な判断だ。普遍的な正義だ。だが、「赦し」を中韓に求めるのはいささか無理があるというものだ。

 「許し」を和解の条件とするのならば、罪を憎まなければならない。死屍に鞭を打つ必要はないし、韓国みたいに指導者の子孫から財産を巻き上げる必要もない。ただ、我々の手で、我々の責任を裁いたという見える形が必要なのだ。

 それがないままでは、小泉さんが何をどういおうと靖国参拝は火種であり続けることだろう。こういう柔なことをいってはいけないのかもしれないが、主権国家とは、他の主権国家が存在してこその主権国家である。火種を抱え続けたままでは双方にとって正常な国家間関係は営めない。こんな状態で、常任理事国もへったくれもないと思うのだが。


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