

第428回 郵政解散の向こう側(2005/08/14)
衆議院が解散となった。解散なんて珍しいことではないが、そうは云うものの、前代未聞の解散である。
国法上、衆議院が解散するときには3つのケースがある。ひとつは、内閣が衆議院で不信任案を可決されたときだ。このとき、総理大臣には解散または内閣総辞職の二つの選択肢があり、このうち、解散を選択することがある。二つ目は、衆議院が4年の任期を満了した場合。
もうひとつは実は明文化されていない、法解釈による解散である。通常「7条解散」と呼ばれている。憲法第7条=天皇の国事行為のなかに、衆議院を解散することが含まれている。天皇の詔書がなければ、衆議院は解散できないのだ。もともと内閣は、天皇の国事行為を補弼(言い過ぎか)することになっているから、閣議で決定された解散の稟議書を宮中に運び、陛下から詔書に御璽をいただくことができれば、いつでも衆議院を解散できる。
この「7条解散」は明文化された規定ではないため、「違憲である」という見解も少なくない。違憲であるというのは言い過ぎかもしれないが、こういう恣意的なことに使われるのは困る、という感じがする。今回は、何しろ、恣意的すぎる。選挙を戦乱にたとえるのは必ずしもよくないが、「無名の師」と云われても仕方がない。
「無名」の最大の根拠は、総理大臣が、参議院での否決を勝手に「不信任案」と見做したことにある。高校で公民の授業を受けた方だったらご承知のとおり、衆議院を通過した法案が参議院で否決された場合は、再び衆議院で審議することができる。そして、三分の二以上の多数で法案を可決成立させることができる。
今回もそうすればよかったのである。もちろん、現在の与党では衆議院で三分の二の多数を得ることはできないから、そこで解散すれば筋が通っていたのだ。「何だ、結局解散するんじゃないか、同じことじゃないか」と思う方もいるかもしれない。しかし、やはりここは筋が必要だ。
筋というのは何か、ということが今日の話題である。いま、もっとも危険に曝されているのはそこである。
これまで自民党が、鵺のように、全く立場が異なる意見も取り込んで集票マシンと化してきたことは否めない。それが停滞をもたらしたこともまた然り。
小泉さんは、この鵺のような状態を解消しようと、今回の施策を断行している。与党候補を二人立て、最終的に民主党を利することがあるかもしれないという意味では自爆行為だが、現在のところテレビも新聞も、郵政民営化に反対している候補のところにどういう「刺客」が送り込まれるかに関心が集中しており、民主党のみの字もない状態である。これまで田中真紀子の登用と罷免、二度にわたる平壌行き等々、世論の関心をさらうことには長けた小泉さんらしいやり方である。
こうしたこれまでと違うやり方への批判に対しては、「政策本位」という言葉で応酬している。確かに、これまでの日本の選挙に足りなかったことではあるし、とりわけ東西冷戦が終わり日本の政党でもイデオロギー対立が終わった後はなおさらである。しかし、イデオロギー対立華やかなりしころでも、日本の選挙から「地盤」の要素が消えたことはない。
よく引き合いに出されるのは、イギリスである。イギリスの選挙の場合、各政党が「落下傘候補」として選挙区に候補者を出す。こうなると、候補者は政策論争をせざるをえない。しかも二大政党制で保守党と労働党では大方議論の枠が決まっているから、国民は投票と政策選択の一致度が高い。
しかし日本の場合、地盤が強い候補が出馬して当選することになる。とりわけ、これが与党の候補の場合、大事なのは地元の利益をいかに代表するか、ということにかかってくる。
制度というものはどれも一長一短があるし、地域によっての適性もある。これまで日本でこうした政治システムが機能してきたのにはそれなりの理由があったわけだが、時代が変わればシステムも不変ではない。それを考えれば、仕組みそのものを変えてしまいたいという小泉さんの意図はわからないではない。しかし、その意図が政策論争すなわち理屈を前提としている割には、いささか理不尽な点が多い。
まず、衆院選は国民投票では断じてない。どうもそれほど頭の回転がいいとは思えない武部幹事長は、官邸から吹き込まれた「これは郵政への国民の判断を仰ぐ選挙ですからね」という言葉を繰り返しているが、ほんとうに郵政について国民に判断を仰ぎたかったら、実際に国民投票をやってみるべきなのである。
そうしなければ、大きな争点(郵政が果たして大きな争点か否か、という議論も別にあるが)があるたびに衆院を解散しなければならない。もしくは、郵政が一連の改革の第一歩だということを明確に打ち出すべきだが、郵政の後にどのような改革が続くのか、ということがまったくわからない。
それに、郵政の賛否だけで議員を分けようという今回のやり方では、お題目に反して政策論争が十分とはいえない。そのもっとも典型的なのが小泉首相であることは言を俟たない。小泉首相の政権で存分な政策論争が期待できそうもないというだけでなく、今回残る自民党の人たちが、武部幹事長を筆頭としておよそ「改革」とも「政策論争」とも縁遠そうな人々が残っている。
では民主党がいいのか、ということになると、これも悩ましい。確かに自民党よりは政策論争をやっているように見える。机上の空論かもしれないが、やってはいる。しかし、そのことが彼らの云うように「国民」のためになっているのか。
僕の危惧は、異論を述べる回路というものが損なわれるのではないか、ということである。筋を通してほしいというときの「筋」とは、小泉さんがいうように政策論で物事を綺麗さっぱり分かりやすく割ることも大事だが、それよりも、主流とは異なった意見を述べる場を作り、あるいは述べたという証拠を残していく、ということに尽きる。これは民主主義の知恵というものである。
これはなかなか大した知恵で、物事には必ず表と裏があるというこの世の真理に即して云えば、小異を大事にしておくのは社会が全体として文句のつけようのない素晴らしい世の中になるわけではないが、滅法悪くもならないための知恵である。そして何より、われわれが参加可能な社会を持続させるための知恵でもある。
どうも、民主党はもちろん自民党の現在の主流派の人にも、このことがわかってもらえていないようだ。異論を斬るのはけっこうだが、あのような斬り方はよくない。対立候補として立たなければ、党役職を外すといった強権的なやり方が横行するのは、それはそれとして選挙民の信任を得て当選した人間に対してあまりにも不当である。下世話なことが好きな世間には受けるかもしれないが、それは、今後異なった意見を許さないという社会への第一歩になりかねない。
民主主義というものを止揚の反復による真理発見過程であるというヘーゲル的視点から見ている人が今でも少なからずいる。竹中さんの発言にも折々そんなところが見受けられるが、それはあまりにも歴史に対して無反省というものだろう。むしろ、すべての物事が表裏の関係を持っている以上、常にコストはかかるが安全弁を用意しておく、そのほうが多様な意見を尊重する民主主義の基本である。
それを失った民主主義は理性万能主義に似た「知性」主義にしかならない。理性万能主義とは、歴史でいえばナチスであり、スターリニズムであり、現役では金正日ということになるが、松下政経塾出身でアメリカ留学経験を持ち米国の人脈を誇る若手議員、といった民主党的な議員像もそれほど遠くない。彼らは、一般の人が困っても「それは自分の能力不足を責めるべき」といって取り合わないだろう。小泉政権はそれをもっとも極端な形で推し進めようとしている。
だが、個人の能力不足を責められるほど社会の機会が均等な状況ではない。これは世界的な流れで、アメリカではその格差は絶望的に拡大しており、政策論争型二大政党制の本場英国ですら、本来ならそうした要素に敏感であるべき労働党が、その理念からは全く真逆の政策を推進している状態である。
そんな状況を、竹中さんは一周遅れで一生懸命追いかけようとしている。彼らは私利私欲のためにやっているわけではないが、追いかけてさえいれば、「知性派」である彼らの勝ちは保証される(それは彼らの能力の発揮の結果だということになるだろう)。しかしまともな民主主義社会に生きようと思うなら、いまは抵抗勢力に手を貸すべきかも知れない。
抵抗勢力は一方で抜きがたく官僚支配と結びついている。これを打破するには政権交代が必要だ。結論としては、民主党も壊れなければならない。まともな国家観と社会の理念を持っているとすれば、小沢一派に託すしかないというのが現在の結論である。