

第443回 自己責任のなれの果て(2005/09/05)
開発途上国は悲惨で、先進国は安心だというつまらぬステレオタイプに拘泥するのはよろしくないとは重々わかってはいる。それでも、今回のアメリカ南部を襲ったハリケーンの残したものを見ていると、これが先進国の風景か、と思ってしまう。
もしこれが先進国、しかも、自由と平和のためにはるか中東まで大軍を派遣することができる世界最強の自由主義国であれば、いったい何のために先進国になったのか。何のために国民は働き、産業を興して豊かになったのか。町を水浸しにし、十万の人を避難所に溢れさせ、幾千人が死んだか遺体の収容もできず、挙句強奪を起こすほどに社会を壊すためではなかったはずではなかったか。
もう、近代国家ではなくなっているのだ。少なくとも近代国家と近代社会の幸福な結合は終わってしまった、その印象は何かにつけてここで何度も書いてきたが、そのことを象徴的に示す事件だった。もちろん、アメリカだけの話ではない。
そしてわれわれは、権力と金を持った人間が自由に動き回り、どちらもない人間は泥水啜って暮らすという時代が迫りつつあるに、どう抵抗すればいいのか。
罹災者数万という今回のハリケーンに対して、アメリカの気象局は「未曾有」の代物だったがゆえに対応が追いつかなかった、と述べた。さらに、自然災害等に対する危機管理の責任者は、「警報を出したにも関わらず、自動車を使って避難しようとしなかった住民にも責任がある」と述べている。
昨今云われている「自己責任」の本質である。それがはからずも露呈しているのである。
この態度の根幹を成すのは、「人は誰しも、物事を判断できる知性があり、それを十全に発揮すれば完璧な正解にたどり着くことができる」という信念である。だが、この信念はあまりに多くの問題を抱えている。
まず、もし結果が正解にたどり着かなかったとき、「自分には完璧な知性があったのにそうならなかったのは、人間には誰も予想できない、知性を超えた事態が発生したからであり、そのことについては自分は免責される」という自分の責任を回避する論理。もうひとつは、異なった意見が対立した場合は現実社会では往々にして権力関係によって結果が出るにすぎないのだが、この「知性」信者たちからみれば、負けた意見は「本来なら完璧な知性を発揮して自分と同じ正解にたどり着くべきであったのに、その十全なる発揮をする努力を怠った」という相手に自己責任を押し付ける論理である。
この二つが重なると、「知性」を具現していることになる権力者は、絶対に傷つかない無謬の立場に立つことができる。かくして、権力者は、「人は誰しも、物事を判断できる知性があり、それを十全に発揮すれば完璧な正解にたどり着くことができる」という一見普遍的な命題からスタートしながら、「最終的な知性を自分が占有している」という傲慢さと、「正解にたどり着けずに失敗した場合はそれは自己責任である」という、社会環境や社会関係にまったく関心のない態度を併せ持つことになるのである。
それがアメリカで起き、日本やイギリスでも起きつつあることである。日本でも、健忘症の人々は忘れてしまったのだろうが、去年の四月ごろは自己責任を大合唱していたのだ。だが、もはやそれは、政治とはいえまい。
気象局のコメントは、知性を理由にした責任回避の最たる例である。ハリケーンは、史上最大だった。過去の例からは全く予測することができなかった。そうかもしれないが、しかしそれを検証することはできない。なぜなら、それを判断する知性は気象局のテクノクラートたちが占有しているからだ。それ以外の人間がコミュニケートする回路をはじめから閉ざしておいて議論も何もあったものではない。
海の向こうの話ではない。日本でも十年前に、未曾有の被害をもたらした巨大地震について、「震度8」という新たな区分が設定された。だが、誰もこの妥当性を検証することができない。震度7にも耐えられるように作った高架橋が倒れたから震度8にした、というのでは、ほんとに高架橋が震度7に耐えられたかどうか検証することもできない。気象庁と国土交通省のテクノクラートたちの責任回避にはなるが、われわれには何の役にも立たないのである。
そして、逃げなかった罹災者に対して「自己責任」を求める。逃げなかったのではない。金があって、車があって、時間があった人々はちゃんと逃げ出したのだ。逃げ出せなかった人の多くは貧しく、車も持っていなかった。逃げる手段もなく、それを提供したバスがやってきたのは水害発生の後のことだった。
自動車を持っていない人間に向かって「自動車で逃げなかったお前が悪い」とはひどい言い草である。かつて、マリー・アントワネットがパンを求める婦人たちのデモに対して「パンがなければケーキを食べればいいじゃないの」と言ったというが、それに類する発言だ。
相手の環境に全く無関心。まるで貴族が貧乏庶民を見る態度である。さらには、不満が高まると、信仰心厚きジョージ・ブッシュが司祭のような深刻な表情を作って「忍耐と寛容」を訴えてみせる。せっかく近代まで来たはずだったのに、時間は、絶対王政まで逆行してしまったようである。
しかも、その言い方は正確ではない。ある意味絶対王政よりも性質が悪いのだ。
中世の時代、庶民と王、あるいは貴族の差は絶対だった。おそらく多くの王は、自分と庶民とはほとんど違う生き物だと考えていたし、庶民のほうもまた然りであったのだ。もちろんそれは不平等で、固定的な身分制社会である。
だがそれは「生まれ・出身・血筋」という環境の違いによるものであり、決して個人の責任ではなかった。とりわけ専制国家では、庶民はもちろん収奪の対象ではあったものの、王や政治組織とは基本的には無関係であった。戦乱で少ない財産を焼かれて困窮したり飢えたりすることを除けば、誰が王でもよく、どの家が王朝でもよかったのだ。マリー・アントワネットの言葉は、そうした中世的な身分制社会のいわば無邪気さを表現した罪のないものだった。
しかし、庶民のほうは怒った。ルイ13世以降の絶対王政は、フランス国家に住む人間を強く結びつけることで統一感を作ることで成立したものである。庶民にとってはいい迷惑だったろうが、しかし、このことによって、すでにフランスは王様と百姓が無限に懸絶した無邪気な中世国家ではなくなっていたのだ。庶民はフランス国家と社会という組織体の一部に組み込まれ、ルイ王家とですら無関係な存在ではなくなりつつあった。身分は違っても同じ人間だという意識が広まり、極端な無理解は許されなくなったのだ。
つまり、庶民のほうでは近代が開きつつあったのである。18世紀中欧の比較的専制的なハプスブルク帝室からやってきた姫君にはいささか酷な状況であった、ということができるだろう。その姫君の首を切り落とすところから始まった近代は、現実はともかく、王様も貴族も庶民も同じ人間だ、ということを大前提として進んできた。
「人間」の範囲が、ブルジョワ男子市民から奴隷全般まで広がるのにはそれなりの時間がかかったし、今でも多くの問題を抱えているが、その基本的な命題を云えば、すべての人間は生まれや人種によって差別されることなく平等であり、自分で自分の能力を開花させるために努力することができる、というものである。それぞれの人間は、自己の責任において判断し、行動できる主体的な存在だ、ということだ。
当初はその努力の成果が見えないために「能力がない」と見做され、挙句は「人間」でないとされてきた労働者、女性、奴隷なども、それは彼らの能力のせいというよりは環境のせいであり、平等な機会と教育が与えられれば彼らも「人間」たりうる、ということが19世紀から20世紀にかけて積み重ねられてきた。このことが、多くの人の幸福に寄与してきたことは確かだ。
ところが、である。
世紀も変わるころになってどういうわけか、時代が逆行している。見た目は、近代の豊かな成果を踏襲しているように見えるのに、内実は変わってきている。人間の平等を主張しすぎた結果、停滞に見える現象を招き、それへの反動であると云ってしまえばそれまでだが、しかし、それだけでは片付かないほどの変化に思えてならない。
その姿を正確に見定めるのはなかなか難しいが、ごく簡単に云うと、このような考え方の政治が続き、人々もそれに応じていけば、平等社会の衣を被った強烈な差別社会、階級社会が待っているように思うのだ。
強烈な、というのは、中世社会のような身分制社会と比してのことである。身分社会であれば、階層間での収奪はあるにせよ、過干渉はない。一揆や革命といったそれなりのアピールの可能性も残されている。また、下層社会は下層社会なりの互助といった社会組織を作ることも可能である。
だが、現在のような「自己責任」に基づきながら、社会条件や環境の違いに無関心な社会は、階層間の壁がないだけに、下層の人間は自主的に下層社会を組織することもなく、「自己責任」の名の下にどこまでも放置され、落とされていく。
今回のハリケーンの被害状況を見ていると、それを思う。社会の下層に住む人々は、ひとたびコトが起きても、「どうして自動車で逃げなかったの?」と自己責任を理由に突き放される。それに備えて政府は何をしてくれるわけでもないし、さらには、人々が自分たちのために組織化することも許されない。それは、社会上層の人たちの「自主努力」の妨げになるからだ。かくして、社会として、自分たちの身を守る手段が失われていく。
今回の選挙は、手段が失われていく中での重要な抵抗の機会のひとつである。だが、それだけでは十分ではない。選挙を含め、社会と民主主義のあり方についても考えなければならない。一言で云うとそれは「過信しないこと」だ。理性や知性、それに基づく社会や民主主義といった制度を絶対視したり過信したりすることは、この社会の崩壊に手を貸すことになる。
それに留意しながら、投票へ行こう。もし間に合えば選挙までに、僕らが投じる一票の意味を考え直してみたい。自己責任を理由に、社会が壊れてしまう前に。