第446回 この選挙へ、最後の繰り言(2005/09/16)

 この一週間、選挙をめぐって書いては消してきた。小泉さんと岡田さんの役者としての力量の差も、小泉さんの無法もパフォーマンスも民意のレベルの問題も郵政民営化の問題も書いてはみたが、消してきた。他のサイトやブログでもさんざん書かれていることのようなので、僕程度の人間が屋上屋を架す必要はあるまい。

 

 それでもごく単純にまとめておけば、「改革をやるぞ!」というムーブメントに自民党も有権者も乗り、悪代官面したジジイどもを中心とした郵政民営化法案反対派を痛めつけていい気持ちにはなった。しかし、改革の中身がはっきりしない以上、郵政民営化についてはもちろんのことそれ以外の改革についても、というよりは、小泉さんが恣意的に「改革」と名づけた制度変更や悪い場合には特定勢力の狙い撃ちに対して、われわれは白紙委任状を献上したということである。

 

 これはかなり危険なことだ。今後も、小泉さんは何かヤバくなるたびにどこぞの「既得権益団体」に狙いを定め、彼らが反対すれば「改革に対する抵抗勢力」とみなし、彼らの存立基盤が壊れるところまでやり続けることだろう。

 残った「勝ち組」の人たちはその芝居に快哉を叫び一時的な快楽は得られるだろうが、しかし、抜本的な改革がしたいのなら、せいぜい年収500万程度の郵便配達のおじさんたちをねらわずに年収20000000の霞ヶ関の外郭団体を狙えばいいはずえある。

 そうはならないところが、芝居を見せることに集中した「小泉改革」の本質だ。そして、その標的が特に基準なく政府から勝手に選ばれるものである以上(だいたい何らかの既得権にぶら下がっていない日本人なんてほとんどいないのだ)、次はあなたの番だ、という危険水域に今回の選挙の結果ははっきりと踏み込んだ。尤も、それを忘れさせてくれるほどに小泉さんがいい芝居を続けた、ということでやはり彼の勝ちなんだろうけど。

 

 一時は「サプライズ」といわれた小泉さんの話題づくり政治も、以前、突然の訪朝ぐらいまでは、有力な支持派閥を持たない小泉さんがどうも危ない橋を渡って賭けを続けている割には何とか勝ち続けて運がいい人だなあ、と思っていたのだが、今回の選挙で認識を改めた。どうやら電通と組んだ上でマスメディアを翻弄する技術も含め、彼は天才だ。

 彼と官邸のやり口には、国民の多くが、放置されたままの拉致被害者や年6000人に上る経済苦による自殺者のことなどすっかり忘れてしまう。忘れてしまうのは有権者だけではない。外務省は投票日前に英軍がサマワ撤退の意向を伝えてきたのを忘れてしまっていたようだ。税制調査会は、彼らの言い分によれば決して増税ではないが、ここ数年続いている低中所得層への減税分をもとに復する意向であることを発表し忘れたようである。

 みんながみんな健忘症になったまま、官邸には白紙委任状が渡された。

 

 個人的には、いまは敗北感しかない。

 僕自身は自民党を支持しているわけでも民主党を支持しているわけでもないから、選挙の勝ち負け的な意味での敗北感はないし、「何党支持ですか」と聞かれても違和感を覚えるだけ。では何の敗北感かというと、民主主義が敗けたんだなあ、という敗北感である。

 繰言に過ぎないことは承知している。亀井静香さんが「民主主義の崩壊だ」と叫び、日本人へ覚醒を呼びかけるのは、それはそれとして正当だとしても「お前がいまさら云うな」という違和感をぬぐえない。僕がここで繰り言を云っても、人によっては「ウヨ厨」、人によっては「ブサヨ」扱いされて嘲笑されるのがヲチだろう。

 まあ、民主主義が敗北するのも民意によってだからね。幸いにして歴史が好例を示している。ナチスのときもそうだった。大政翼賛会だって、軍部ひとりを悪者にするにはいささかできすぎている。コミュニスト・ソビエトの時代にも民主主義は貫徹されていたし、朝鮮民主主義人民共和国にいたっては共産主義と儒教的礼仁と民主主義が世界史上例を見ないほどに見事に融合している。

 皮肉ってばかりもいられないのはアメリカだって貧困等の大きな社会的問題を、宗教と神学的に結びついた民主主義が救っている(政権を、だ。国民を救っていないのは先日のハリケーンを見ても明らか)。韓国は、反・反共と反・リアリズムが民主主義と結託した。

 

 わが国の民主主義のようなものも、そっち側への第一歩を踏み出したみたいだね。

 それはそれとして仕方があるまい。ただそれは、民主主義という思想を奪われたくない僕としては敗北なのだ。

 傲慢な言い方に聞こえるかもしれないが、僕は真正の民主主義者である。いまの政治家にはろくな民主主義者がいない。これほどの民意に支えられた小泉さんも、あれだけ頭脳優秀と思しき民主党の方々も、僕に云わせれば民主主義社会に生きる人ではない。

 では真正な民主主義社会とは何かというと、かっこよくいうと「多様な意見や行き方が共存できる社会」である。しかし実情はおそらくそんなかっこいいものではない。他人のくだらない異見に面倒くさいながらも付き合っていく社会ということだ。そしてそのためのコストを支払う社会である。

 おそらくそれは無駄が多く、不恰好で、みっともないところも多々ある社会であるが、この近代が選択したのはそういう社会である。そういう社会を民意は拒否しているのだが、僕は不恰好な民主主義社会のほうがましだ、と思っている。

 

 それはなぜかというと、民主主義には究極の目的があるからだ。それは、「独裁と専制に抵抗すること」。

 次回、このことをもう少し詳しく書いて、最後の繰り言=遺言としたい。


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