第464回 平成十八年年頭所感(2006/01/01)

 

 さて、年が明けた。平成十八年。

 朝まで生テレビを見ていて思ったことがある。この番組は昔からそうといえばそうなのだが、まったく議論が噛みあっていない。噛みあっていない理由は、各政党がいまだに、さまざまな、ある種矛盾した争点の「セット」を準備しているからである。

 内政的には、保守的価値観で行くのか革新的価値観でいくのか。経済的には新自由主義でいくのか社会民主主義でいくのか。外政的には米重視なのか中国重視なのか、また対話路線なのか強硬路線なのか。かつてはこれらの選択肢はあるイデオロギーで貫かれていたが、現在ではそうではない。自民党が異様に革新的な主張をすることがあれば、社民党や共産党が保守主義者の顔をして現れることもある。政党であるかぎり、この「束」から逃れられない。

 

 だが、どうもそんな場合ではないのだ。

 どこに軸足を置くのか?僕としては、近代社会に軸足を置くしかない。現実にはともかく、法律上、人が平等なものとして扱われる社会。誰かに有利な前提があるわけではなく、法の下の平等が実現されている社会。それが僕の云う近代社会だ。

 それは単に法律を守る、ということではない。新自由主義筆頭の村上ファンドの村上さんは、「私はバリバリのコンプライアンス」と云っているが、彼自身が動けば株価が上昇するという、マーケットに絶大な影響力を持っている村上さんがコンプライアンスを貫いても、それは人にとって平等なコンプライアンス(法令順守)とは異なる。

 頭脳優秀で、優秀な人間が稼ぎまくることのできる社会を目にした村上さんにとって、日本社会の温さは憎むべき守旧性なのだろうが、それは僕の云うところの「近代社会」とは方向性が違う。阪神球団に「何のために上場しているのか」と声を上げる村上さんを見ると、株価のためだけに会社が存在しているのではない、と反発したくもなる。

 と同時に、守旧派筆頭のナベツネ&海老沢体制にはもう語る言葉もない。一場投手への金銭授受の責任を取ったはずのナベツネさんが「巨人軍の歴史的危機」に際して何事もなく復権する。自分が圧倒的な力を持っている社会の中で、その力を振るってルールを自分のいいように変更することは、およそ近代社会とは縁遠い姿勢だ。

 お分かりのとおり、なかなか難しい。経済的な格差拡大に反対して新自由主義に抵抗すれば、ナベツネ的論理に絡め取られるし、守旧派を批判すれば村上さん的な発想に流される。いわゆる「小泉改革」とそのチルドレンたちの発想が、後者に根ざしたものであることは確認しておいたほうがいい。決して、万人にとってすばらしい改革をしているのではない。それは政治的・経済的・文化的資源の分配をめぐる闘争、すなわち「政治」の一局面に過ぎない。

 

 ならば、である。ここは日本を守るとか、国家の姿ということ以前に、「自分」を守る、自分の社会における生活を維持するものとして、二つのことを挙げておきたい。

 ひとつは「政治」に参加することである。投票に行く、ということだけではない。積極的に考え、発言すること。幸いにしてこれだけブログが進展しているから、発言はますます容易になっている。影響力のあるなしにかかわらず、発言すること。相手の意志を聞き、論理的に粘り強く、逃げに走る相手を捉まえて話すことが政治だ。このステージから安易に逃亡しようとする相手には罰則が必要だ。

 その上で、この「政治」に参加するだけの基本的な要件を守ることである。国語や数学をきちんと学んでいなければ、「政治」の参加者になることは難しい。この主な用件は二つ。教育を受ける機会を確保すること。義務教育は中学校までだが、そこまでのカリキュラムを充実させるなり、高校での教育を確保するなりの方策が必要になる。

 もうひとつは、教育とも絡むだのが、経済的な条件の確保だ。どこかでIgarashi氏がかつて言っていたが、森永卓郎氏の「年収300万で暮らす」というキャッチコピーは、もともと「年収300万でも暮らしていけるのだよ」というメッセージだったのに、いまや「年収300万までは削ってもいい」という論理にすりかわってしまった。

 それどころか、森永氏自身が、今年やってくるかもしれない好景気バブルの中で、格差が拡大して300万を切る層が大量に出てくる危険がある、と訴えている。300万を切っては、家庭生活は難しい。少子化の原因は経済的なものばかりではないという小泉首相の発言はそのとおりかもしれないが、しかし、300万を切ってしまっては議論の次元が違ってきてしまうし、ロクな教育も受けさせられない。

 社会建設への意志を持たない人たちは、快感の得られる破壊衝動、ここまで美味しい汁を吸ってきた誰かが零落していくさまを見て楽しんでいくことだろう。既に昨年の総選挙の演出にはそのようなところがあった。格差が広がって社会不安が拡大する危機と、昭和初期の財政改革が軍国主義へつながっていき、最終的に失敗したことの再来を考慮せざるを得ない状況が口を開けて待っている。

 この300万というボトムラインを維持しつつ、政治という資源分配ゲームに参加する権利と能力を確保することだ。正義を訴えるだけが能力ではない。自分、あるいは自分が所属する階層、自分が所属する社会それぞれについて、自分の利益を最大化するための主張をすることは間違ったことではない。

 それぞれの利害得失がせめぎあって、資源が分配されるのはふつうの「政治」である。このために、いろんな手を打つことは正しいことだ。こんなことをいうとホリエモンや村上さんの同類と見做されそうだが、最初から参加を除外されたり、参加のルールが一方に有利になっていない(厳密にいうと、ルールの修正に参加できる権利を持つということだが)ことが確保されていれば、神の手があちらこちらに動き回るレッセ・フェールも悪くない。

 僕も自分が大事だから、いざとなったらエスケープするかもしれない。でも踏みとどまれるかぎりは粘って、この社会を近代社会として維持することに、力を費やしたいと思う。

 


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