第467回 統一は悲願、ES細胞騒動は悲哀(2006/01/12)

 

 ES細胞をめぐって、韓国は大騒動である。ことは、ソウル大学の黄禹錫教授が一昨年、世界で初めてヒトクローン胚からES細胞を作り出した、という『サイエンス』に掲載された論文が、捏造なのではないか、という指摘を受けてからである。

 『サイエンス』に論文が載るということの威力は文系の人間には想像しがたいものがあり、それが撤回されるとなるとなおさらである。これほどセンセーショナルな論文が捏造だとすれば、アメリカ・ベル研究所の科学者が常温超伝導のデータを改竄して以来ではないか。

 「第一号国家最高科学者」の栄誉を受け、偉人として小学校の教科書にも登場、記念切手まで発売されていたという黄禹錫教授である。こういう栄誉を与えて嬉々とするのは民族の特性で南も北も変わらないようだ。自国の科学の英雄の成果を批判することは、ウリナラ(自民族)に対する冒涜である。疑惑を初めて報じた韓国MBSの番組からはスポンサーが一斉に降り、MBS自体からもスポンサーの撤退が相次いで社長が謝罪する、という事態にまで立ち至ったのだ。

 だが結果はクロ。その分、国家を裏切った罪は重くなる。すべてが剥奪。いやそれでも「黄禹錫を支持するネチズン連帯」という組織が「黄教授への批判はウリナラの偉大さを傷つけようとする陰謀」と事ここに到っても訴えているというのだから、筋金入りである。

 

 なぜES細胞がそれほど注目されるのか。それは、科学というのは往々にしてそうなのだが莫大なビジネスチャンスを生むからだ。ちょっとES細胞について書いておく。

 我々の身体は、蛋白質の塊である細胞からできている。そして、それぞれの細胞がどのような働きをするかを決めた設計図がDNA(デオキシリボ核酸)である。ゲノム、と云われるのもほぼ同じ意味として、この稿では差し支えない。

 DNAに刻まれるひとつひとつの情報単位を「塩基」という。人間のDNAはおよそ60億塩基ある。つまり、60億文字が書かれた設計図が細胞の中にあり、そこに書かれた文字配列にしたがってさまざまな種類のアミノ酸や蛋白質が作られ、人間の身体が作られていく。

 この文字情報の中には、身体どこに何を作るか、という情報も書かれている。「ボディプラン」というやつだ。これがちゃんと書かれていることによって、頭は腹でもなく脇でもなく首で胴体につながっている。首の骨は6つでも8つでもなく7つだ。心臓は一個だし腎臓は二つ。滅多なことでは心臓が二個になったり腎臓が三つになったりしない。しかも内臓の位置もほぼ確定している。

 

 これはかなり不思議なことなのだ。なぜなら人間を構成する約60兆個の細胞は、すべて同じ遺伝情報を持っているからだ。そもそも我々は、1セットの遺伝情報を抱えたたった1個の受精卵から生まれる。この受精卵が分割して2個、4個、8個…と増え最終的には60兆まで増えるわけだが、増える際には遺伝情報は複製されて、すべての細胞が、眼球の細胞も肝臓の細胞も皮膚の細胞も同じ遺伝情報を持つわけだ。

 なのに、である。同じ遺伝情報を持っている細胞が、ある場所ではきちんと脳細胞になり、ある場所では筋肉になり、ある場所では皮膚になる。指先に爪の代わりに目玉が生えてきたりはしない。皮膚の近くで分裂して生まれた細胞は、肝臓や心臓の細胞と同じ遺伝子情報を持っているにもかかわらず、皮膚の細胞になるのだ。細胞生成は逆転しないのである。

 

 このことは、臓器移植等の医療行為に重大な障害となっている。ご存知のとおり生物には免疫反応というのがあり、自分のものではない異物が身体に進入するとそれを拒否して排除しようとする性質がある。傷口に入ってきた黴菌を白血球が食べるのも、違う血液型の輸血ができないのもその一例だ。最近では脳死による臓器移植が増えてきたが、他人の臓器を移植する場合、強烈な免疫反応を薬で抑制しなければならない。抑制するだけでも一苦労で、免疫反応を抑制できたとしても今度は別の細菌が進入したりして身体に大きな負担となる。

 しかし、もし、同じ遺伝子を持った自分の細胞をあらかじめ保存しておいて困ったらそれを移植するということができれば、免疫反応を心配しなくてもいいのだ。だがそれができないのは、生物の細胞は何の細胞になるかがあらかじめ決まっていて、勝手に心臓の筋肉の細胞や肝臓の細胞を作り出すことはできないからである。

 

 とはいえ、もともとは細胞はたった1個の受精卵細胞だったのだ。この受精卵細胞は、何の細胞にでもなりうる性質を持っているはずだ。細胞が分裂し、身体を作っていくどこかで、細胞が器官に特化する命令が遺伝子から出ているはずなのだ。

 だから細胞の発生プロセスにさかのぼり、「君は何細胞になりなさい」という遺伝子のプログラムが起動する前の細胞を、生命として生まれた生体から取り出すことができれば自由に臓器や細胞を作れる可能性がある。

 科学の進歩は、「皮膚を作れ」「目を作れ」という命令を出す遺伝子群(ホメオティック遺伝子という)を発見し、制御できるところまではきている。本来なら4枚のショウジョウバエの翅を2枚に減らしたり6枚に増やしたり、あるいはハエの脚に強引にハエの目玉を作ったりはできる。だから、「まだ何者でもない」細胞を発見あるいは作り出すことができれば、肝臓を新たに作りなおしたりすることも可能なのだ。これは医療行為への貢献はもちろん莫大なビジネスチャンスにもなる。

 この「まだ何者でもない」細胞を、胚性幹細胞、通称ES細胞と呼ぶ。全世界の生命科学者が挑んでいるが、まだ見つかっていない。何しろ60億文字で書かれたプログラムは複雑怪奇だ。どれが意味ある文字列でどれが無意味な文字列かすらよく分かっていない。ある場所のプログラムを化学的に書き換えたとしても、その場所は他の無数の場所と関係しているので、起動しなくなってしまうのだ。ES細胞をめぐる事情は、ざっとこんなところである。

 

 だがビジネスチャンスへの誘惑は大きい。発見したとすればノーベル賞間違いなしという名誉欲も少なくない。まだ日本人もヨーロッパ人も発見したことのないものを、ウリナラの英雄が成し遂げた、そんな国家いや民族の栄誉を背負ってしまったとなっては…。

 いまだ日本という壁を介すことなく世界と向き合ったことのない韓国・朝鮮という国の悲哀という側面が(そのあたりはこちらに)この世界的に大きな対象と絡んでしまったひとつの悲劇として、記憶しておくべきニュースだろう。

 


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