

第474回 ジャイアンツ愛に見る歴史意識の欠如(2006/02/14)
巨人軍のキャンプで「歴史勉強会」が開かれたらしい。キャンプを見に来た金田正一、広岡達朗の両大OBに原監督が挨拶をさせ、新人の内海に「この方をご存知か」と金田さんを紹介したところ「金村さんですか?」と答え、そこに監督が怒って「何を言っている。いったい何勝した人だと思っているんだ」と言ったら「三百何勝でしたっけ?」と述べて二重の赤っ恥をかいたという。
いやきっと本人は掻いた意識はなく、掻かされたのは原監督のほうである。かようなわけで、急遽若手を集め、吉村二軍監督以下が直立不動の姿勢をとる中、広岡御大の御説が始まり、巨人軍創設から三原水原沢村の第一期黄金時代、戦争を経て水原指揮下、別所川上広岡の第二期黄金時代、そしてONの第三期黄金時代、その後の苦節を経て現今の巨人軍という話があったらしい。
なかなか面白い。広岡御大のお話を、原、吉村といったポスト団塊世代の中間管理層が部下の管理も悪さまで含めて指摘されて恐縮しているが、御大たちの本来の怒りの対象である若手は、先輩の名前を知らなかったことぐらい何がいけなかったのか、釈然としないまま聞かされているという構図はいまの日本社会そのままだ。
オヤジたちの精神注入的な懲罰御説は僕らも何度も聞いてきているしそれがいいことだとも思っていないが、最近ではそういうオヤジを愛する余裕もでてきたこともあって、まあいいかな、と思わないでもない。
とはいうものの、この話が多少は深刻だなあと思うのは、過去についての知識がないまま生きるというのはそれはそれで大変なことのはずなのに、意外と平然としている人が増えていることである。
つまるところこれは、組織とか、社会の崩壊を招く。そんな面倒なもの無くてもいいんじゃーん、とお思いの方はそれはそれでけっこうで、一日の3分の2を自衛のためにびくびくしするようになっても生きていかれればいいし、最悪その自衛の手段が無くなったら殺すか殺されるかの闘争状態に突入していただいてもまあそれは自由、ってもんだが、個人的には少々面倒くさくても、できれば社会や組織の力を使って、身の回りの危険に注意力を奪われることなく、仕事や趣味に精神を集中させて楽しみたいと思っている僕のような人間にとっては多少は深刻な話なのである。
かつてはジャイアンツファンだった私としては、高橋ヨシノブや二岡から匂う、あの無臭感は一体全体何なんだ、ということを考えていた時期がある。ジャイアンツファンとは、ナベツネ御大を持ち出すまでもなくつまりは強いジャイアンツのファンであり、それは長嶋の劇的なプレーであり王貞治の華麗なホームランであった。
そういう「固有名」に込められた精神的なものが社会や組織を維持していく上では重要なのであって、ふつうはそれを「歴史」と呼んでいる。これがなければ社会は崩壊する。かつての「反社会的」というのは、そうした歴史に込められた精神に反発するという一種の反精神をもっていたのだが、昨今の様子をみると無精神というか、どうもそう匂う。東浩紀さんが「動物化」と呼んだ現象に方向性としては近い。
強い巨人軍の歴史を愛さなくなり、敬意を払わなくなれば、当然、ファンの数は減る。巨人軍は歴史的危機にある、強い巨人軍を取り戻す、と語ってナベツネさんはカムバックしたが、彼が何を云っても、監督がジャイアンツ愛を訴えても、選手がこの様子では、これまでのかたちのファンが戻ってくることは期待できまい。
その点、ホークスは、ライオンズ以来の地元の野球熱を煽り、自分たちにかつて強くて愛された西鉄ライオンズの幻影を重ねて見せていることが成功しているし、ロッテはそういう愛とは関係のない、みんなで楽しめる、という点からファンを取り込むことで成功した。ロッテのやり方は僕のような保守派から見れば享楽的ということになるが、それを否定はできない。
かくして、客観的な是非はいいようもない。内海にとっても、大事なのは金田さんの名前と成績(400勝298敗)を覚えることではなく、投げて勝つことであるし、「国民の歴史」的な人たちのように、「正統史観」を組織や社会への愛とともに押し付けられるのも御免蒙る。
たとえばジャイアンツの「正史」では数日前に亡くなった藤田元監督の位置づけは非常に低い。彼は特異な経歴を持つ監督で、その「特異」の意味は、巨人軍以外の球団に所属したことがある、ということである(大洋にコーチとして在籍)。彼以外に、他球団に所属して巨人の監督を務めた人はいない。いわば汚点を背負って、いやそれだからこそ、長嶋解任、王退任という、球団としては打つ手のない状況で監督に二度就任し見事な成績を収め、なおかつ、立て直すとともに王、長嶋に後継を譲らざるを得なかったのである。
それを愛せ、といわれればやはり巨人ファンなら愛するかもしれないが、でも正史のゆえに事実を見てはならない、ということにはならないわけだ。
というわけで話はどうどうめぐりになってきたが、基本的にはこういうことだ。ちょっと振り返ればわかることだが、近代社会と歴史・伝統は対立関係にはない。むしろ相補的なのだ。社会を考えることは、固有名とか歴史とか精神について考えることと不可分である。
僕は今のところ、近代社会より優れた、人間がみんなぼちぼちと暮らしていく仕組みを想定できないので、やはりこのことには危惧を覚える。皇室を云々する小泉道鏡の姿勢はまさにこの意味での「歴史観の欠如」であり、それは一国の総裁から巨人軍の若手投手にまで根深く浸透しているようで、個人的には嫌なものである。