

第480回 司法は仇討ちの場ではないのでは?(2006/07/29)
先輩と一緒にニュースを見ていたが、酒も入ったせいで、大人げなくも意見が対立してしまった。飲酒運転で死亡事故を起こした運転手のみならず、同情していたその同僚にも民事上の賠償責任を認めた、というのである。
従来は「業務上過失致死」でしか裁けなかった飲酒運転に刑事上「危険運転致死罪」が新設されるなど、飲酒運転に厳しいご時世になりつつある。それは悪いことではあるまい。今回の民事訴訟は、被害者の遺族が、飲酒運転であることを知りながら止めなかった同僚や、その癖があるにもかかわらず止めなかった妻にも賠償責任を求めたものである。
判決は、自己の実際に立ち合っていなかった妻には責任を認めなかったが、同僚には「車で帰宅する者に正常な運転ができなくなるまで飲酒をすすめた者には、運転を制止するべき注意義務を課し、怠ったら民事上の責任を負わせるべきだ」と、事実上の幇助の罪と断じた。
ニュースの論調も、先輩の口調も、当然というものであったが、どうも僕はそう思えない。思えないのでいろいろと言ってみたのだが、却って反撃に遭ってしまった。僕もうまく伝えられなかったという負い目はあるのだが、つまり云いたいことは以下のようなことである。
上手に表現できないのだが、この訴訟や判決に象徴される世の中が、「人が死ぬという蓋然的なリスク」とうまく付き合えていないのではないか、ということなのだ。人は、必ず死ぬ。若い人間より年寄りのほうが死ぬ確率は高いし、交通事故で死ぬよりは何らかの病気で死ぬほうが確率は高いが、とにかく死ぬ。どの理由で死ぬかは誰も知らない。これが世の常だ。
だが、である。いくら飲酒運転の癖があったとはいえ、その妻まで訴えてはまるで仇討ちである。彼が酒を飲んでいなければ、同僚がもうちょっとマシだったら、女房がきっちりと旦那を縛り上げていてくれたら、娘は死なずに死んだのに、という思いはそのとおりである。しかし極端なことをいえば、たとえバカ運転手が酒を飲んでいなくても、その数分後に別の要因で死んでいたかもしれないのだ。
遺族の気持ちはよくわかる。わかるというと口幅ったいが、自分も、もし、大学生まで育てた娘が乱暴な飲酒運転で殺されれば、恨みは骨髄に至るであろう。その恨みは否定しない。これも極論だが、僕は仇討ちも否定しない。しかし、それを司法がやってしまっては社会が成り立たない。
遺族は(私的な仇討ち以外には)泣き寝入りするしかないのか、というとそうではない。それは、自分の遺族のためももちろんであるが、同時に、先ほど述べた「人が死ぬという蓋然的なリスク」を減らす方向で考える、ということだ。新設された「危険運転致死罪」も、その制定に当たっては、トラックによる追突事故で二人の子供を失った遺族の力が働いている。
国会や世論に働きかけ、刑事上の新しい法を制定する。その前提であれば、遡及法も可である。民事上の賠償が社会的な制約になるというのは、単に、司法を私的な仇討ちの道具として使うことを助長することにしかならない。もちろん、個人にとって、法を制定する、刑事上の凡例を動かすと云ったことへの壁が高いのも事実であり、そこを改善する必要はあるが、この社会が成り立っていることの基本を見失ってはならない。僕はそう考える。