

第480回 実はみんなお上が好きなんじゃないの?(2006/08/30)
8月25日夜半に起きた、福岡市の、飲酒運転による交通事故は、何とも云いようのない痛ましい事故だった。カブトムシ取りに出かけた帰りの一家5人を載せた車が、飲酒運転の上脇見をしていた猛スピードの車に追突され、車ごと海に転落。ご両親の必死の救助もむなしく、4歳、3歳、1歳の3人のお子さんが亡くなった。
それでも顔を出して、メディアのインタビューに答えていた父親は同い年だが、正直に敬意を表する。僕が同じ立場だったら絶対に無理だ。悲しいだろうし、辛いだろうが、なにより、これからどう生きていけばいいのか途方に暮れてしまうだろうと思う。小林一茶ではないが、「この世しぼみぬ」という思いか。
どうすればいいかわからないので、加害者やその関係者を無闇に責め立てかねない。実際、運転手の同僚や妻を責めたケースもあったが、今度の遺族の方はその憤りを静かに抑えている。その姿勢はほんとうに、慰めにも何にもならないが、立派だと思う。
二十二歳だという運転手は、これから重い軛を引きずって生きていくことになるだろうが、それでも許し難い。酒に甘い風土は九州人の私にもわかるが、せめて、酒を飲んだらより注意深く運転して欲しかった。
通夜には、福岡市長も訪れていた。そして、遺族に謝罪したそうだ。ニュースはそう言っていた。
でもちょっと待って欲しい。「謝罪」?何の「罪」だろうか。
もちろん、刑事上の罪ではない。それを負うのは運転手である。では道義上の罪か。しかし、一人前の二十二歳の男が、勤務時間外に起こしたことにその使用者が責任を感じなければならないというのは、別の事情がないと難しいだろう。たとえば、彼が運転できないほどに業務が厳しかった、とか、会社の仲間で飲んだ後だった、とか。道義上、使用者として、「陳謝」なり「お詫び」なりはあるとしても、「謝罪」って何だろう。
福岡市には、900件あまりの抗議が来たそうだ。だが、この抗議が何を意味するか考えて欲しい。もしこの抗議が正当なら、福岡市は、その反省に立って、勤務時間外の職員の行動についても監視を厳しくすることだろう。同じことはあなたの会社にもいえる。タイムカードを押した後、あなたが何をするのか。万一のときのリスク管理として、会社は、あなたの行動を逐一追いかけることになるだろう。
あるいは、車が落ちたガードレールが甘かったそうだ。みのもんたも小倉智昭もこの点を厳しく指摘していたが、これについては中村敦夫のコメントがいちばん正しい。「どんなに丈夫なものを作っても、それを超える暴走をされれば防ぎようがない。」
過去に同じ場所で危うい事件が起きてそれを教訓としなかったというのなら別だが、あの道で、20センチの段差を超え、4メートルの歩道を突っ切って海へ向かう車が現われることを想定できなかった、と、福岡市の担当者を責めるのはいささか酷というものである。もちろん、もし責めるのなら、ガードレールや道路を補強するための予算供出に、抗議した人は賛成する、ということは当たり前のことである。
世の中おかしくはなってきた。家族が死ぬことが想像できずに自宅に放火して母兄弟を焼き殺したり、友人に母親の殺害を依頼し、自分はその凶行現場の上の二階で静かにしている、といった人たちの行動は正直わからない。だから、「大人」とか「個人」とか「一人前」といった言葉もいささか危うい。
それでも、二十二歳の男となればやはり一人前である。もちろん無謬の個人でないことはわかっているが、それでも、一人前と扱われなければ腹も立つぐらいのものである。それは、今回のような事件があっても同じで、それは起こした個人に対していうべきことであって、その家族や使用者を勢いに乗って責めるのは無責任であるばかりでなく、監視を強めて僕たちの暮らしをやりにくくするものだ。
結局、みんな、自分が何か責任を負うのが面倒くさいだけじゃないか。自由を尊重とかいいながら、役所や会社といった「お上」が好きなんじゃないか。僕が言いたいのはそういうことだ。
まだ半月しか経っていないのにすっかり忘れ去られてしまっているが、シュレッダーに幼児が指を巻き込まれる事件だってそうだ。確かに、もっとケアは必要だろうが、そんな危険なものを簡単に蓋が開く状態で幼児に触れさせないようにするのも、まともな大人としての一種の注意義務ではなかろうか。子どもの頃、扇風機に指を突っ込もうとするとえらく怒られたりしたが、そのことと事情は何にも変わらない。
にもかかわらず、経済産業省が出てくる。そして、会社に、改善を「指導」する。会社の改善も必要だが、わざわざお上が出てくるのはいかがなものか。構造改革といいながら、個人の自由を訴えながら、「お上」の権力と領域を広げているだけではないか。
「お上」は信用ならぬわけでもない。だが信用できる相手でもない。青年将校が立ち上がる直前のように、右翼が政治的言説について火を放ち、政治家たちもむしろ「ざまみろ」と考えていると思しき時代である。
最後は頼りになるのは自分である。それを信じるのは勝手だ、といわれるかもしれないが、それを邪魔されたくはない。金持ちだけが個人で、貧乏人はそうでないというような初期ブルジョワ社会のような世の中は御免蒙る。ただ、多くの人がみずからそういう世の中を好んでいるように見えるのは、困ったものなのである。