

第495回 二・二六に想う(2007/02/26)
朝、会社に向かう途中、渋谷区役所にある観音様に黒塗り街宣車で右翼の人たちが集まっていた。通路も横断歩道も塞いでのことである。
そうか、今日は2月26日か、と想起するまでに少し時間がかかる。
昭和11年2月26日未明、帝国陸軍皇道派の青年将校たちが、昭和維新、尊王討奸を謳い帝都を急襲、大臣たちを殺傷した。しかし、彼らが待望した天皇親政による革命は、昭和天皇自身が彼らの反乱に激怒したことから失敗に終わる。穏便解決を図る陸軍首脳部の策はさらに天皇のお怒りに拍車をかけ、結局29日に討伐命令が発せられ、目的を失った反乱軍は帰順した。
明治神宮に隣接する代々木公園や渋谷区役所、NHK一帯の丘は、かつての陸軍代々木練兵場で、ここにあった陸軍刑務所で、反乱を主導した将校たちが処刑された。慰霊碑は刑務所跡の渋谷区役所合同庁舎に作られている。
今日の街宣車も「平成維新」と白地で書いてあった。天皇に忠誠を尽くし、自らの命を散華させた将校たちは、ロマンチックでもあり、「ナショナリスト」の理想像でもあるのだろう。
が、しかし、ナショナリストである私としては、やはり、なぜ将校の反乱に昭和天皇が激怒したのか、ということを問わなければならない。立憲主義を大幅に踏み越え、結果的に見れば、陸軍統制派の跋扈を招き、大戦への道を一歩進めた「聖断」に対してである。
処刑された将校の中でも有名な一人、磯部浅一は獄中の記述で天皇を「批判」したことは知られているが、それは「批判」ではなかったろう。それよりも重要なのは、彼が事件直後に取り調べに対して語った「この国に、天皇はおられるのか、おられないのか。そのことが私にはわかりません」という言葉のほうであろう。
天皇は、語らない。そのことがいい悪いではなくて、どうも左右問わず誰もが勝手な「天皇像」を投影するスクリーンのようになってしまっている。僕も、ついこの間まではそうだった。
どうやら、皇室は皇室で別の配慮を重ねていることがわかってきたのは、不幸ながら、昨今の「皇統」をめぐる言葉が飛び交っての後のことである。
そう思えば、昭和天皇が敗戦に当たって選んだことも、単に草民を思った大御心というだけでなく、自己保身というでもない。今上陛下が折々に語られる「微妙」なお言葉も、どうやら深遠な叡慮が働いておられるように思われる。
これ以上は民草のうちでも下っ端の雑草に生まれた自分には恐れ多くて考え及びのつかないことであるが、要は、それは「主義」というものではなく、地政学的・歴史的要件を踏まえたこの国の「あり方」とでもいうべきものである。文字通りの「国体」といってもいい。
今日はある「市民派弁護士」と論戦して疲れ果ててしまったのだが、それは左だけに限らない。黒塗り街宣車でテーマを吼えることで自分の正統性は確保できるが、それは現存する問題の解決にはならない。
皇室は皇室として、この国のあり方を考えているが、われわれはどうか。もちろん、「美しい国」といった適当な散文的表現がその答えになるはずもない。将校たちの、磯部の呟きに、どう答えるのか。その問いなくして、議論もへったくれも、あるまい。