

第497回 撃たれた市長の娘さん(2007/04/24)
長崎市長が撃たれてからドタバタ選挙を経て一週間が経った。
通常番組を打ち切ってニュース中継に切り替えたら、怒濤のようにかかってきた「九州の片田舎の市長が撃たれたぐらいが何だ」「もう祓わないぞ」という電話はまあ仕方がないとしても、その後ずっと気になっていたのは、ダンナが落選してしまったために、
「父はその程度の存在でしたか?」
「長崎からこんな仕打ちを受けるとは」と叫んでしまった亡市長の娘さんのことである。
このご時世では当然のことながら、すさまじいバッシングの嵐に遭っている。おそらく自宅にも、非難ならともかく、誹謗中傷の嵐が襲っていることだろう。
しかし、である。娘婿が出馬するといういかにも世襲、しかも“男系世襲”的な発想には違和感を覚えるものの、だからこそ、候補者が喋ったわけでもない言葉をとらまえてここまで、というのもいかがなもんだろう、というありきたりなネット言説批判も浮かんでくる。
それよりも、何よりもだが、この映像、私も選挙の翌朝のニュースで見たのだが、もう何というか、明らかに「人事不省」という状態だった。そりゃそうだろう。いきなり父親が撃たれ、よくわからないまま選挙戦をやらされ、まともなブレーンもつかないまま弔い合戦をやるしかないと喪服を着て「千の風〜」を選挙カーで流して顰蹙を買い、挙げ句落選である。
ふつうの人間(ていうか自分)だったら精神がボロボロになっていてもおかしくはないし、つい本音が口をついて出てしまうこともあるだろう。こういう言い方はよくないのだろうが、女性によくあるヒステリー状態といってもよかった。いわゆる理性が効いていない状態なのだ。
あとは、この映像を使うかどうか、という放送局側の判断になる。
僕なら使わない。視聴者の歓心を買い、劣情に訴え、耳目を引く力はあることが分かっているが、使わないだろう。
マスコミがさんざん言ったように市長への銃撃が「民主主義に対する挑戦」であるならば、候補者の細君が、しかも落選した候補者の細君が何を言おうが民主主義の本質とは関係のないことであり、この映像を流しても、正直、無用のエネルギーをあらぬかたちで発散させるだけである。
今回も、ある放送局系列だけが、この映像を執拗に使っていた。しかもワイドショーではなく純ニュースでも延々と流し続けていた。
何を伝えたかったのだろうか?せめてVTRを受けたスタジオで、局としてコメントを付ければいいのに、スケープゴートを傷つけたまま放置プレイみたいな編集なのである。もしそれでも伝えたいというのなら、銃撃を「民主主義に対する挑戦」などと気取って伝えないことだ。それはそれでかまわないと思うが、全国ネットの公共電波を使ってやるこっちゃない。その二枚舌がいちばん許し難い。
僕は、そっちのほうに怒っているのである。