

高倉院の崩御により、京の街が諒闇に包まれていた折、都の外では大きな変化が起こっていた。木曽義仲が挙兵したのは、この頃である。
義仲の父は源義賢という。平治の乱で斬罪になった為義の息子であるから、頼朝と義仲とは従兄の間柄になる。
もっとも、義賢は「鎌倉の悪源太」と呼ばれた、頼朝の異母兄弟の義平によって討たれた。このとき義仲はまだ二歳であった。母親が泣く泣く中仙道を下り、木曽兼遠という木曽の豪族に息子を託した。最初はひ弱な子供だったが養育されるにしたがって身体つきも立派になり、やがて立派を通り越した体格を持った。力も勝れて強く、かつての征夷大将軍・坂上田村麻呂にも比す人もあるほどになった。
信濃、木曽は山がちである。京まではずいぶんと悪路が続くが、昔からこのあたりは京都との交流が盛んであった。山中を歩くよりも、むしろ北へ向かって日本海へ出て北陸から陸行、あるいは海路山城国入りするという経路は、相当昔から存在していたらしい。
義仲も、この経路で幾度か京都を訪ねている。平家一門の羽振りのよさも、ほぼ正確に把握している。二十年ほどまったく京都から遠ざかっていた頼朝とはやや事情が違う。義仲が十三歳で元服したのも、京都の石清水八幡宮においてであった。源義家は石清水で元服し、名を八幡太郎義家と称したが、義仲はそれを意識して、次郎義仲と名乗った。彼が、あるいは彼の周囲が、いずれ源氏の頭梁として戴こうという野心を初めから抱いていたことが見てとれる。
その義仲が、嫡流の頼朝の挙兵と富士川での戦勝を聞いた。
(遅れをとった、)
という思いはあったに違いない。源氏を結集し、平家を打倒するならば大将はこの自分、という自意識がくすぐられた。
ある日、養父の木曽兼遠を呼んだ。
「頼朝殿はすでに謀反を起こし、関東八ヶ国を従えている。これから東海道を上り、平家を追い落とす御積りのようじゃ。」
事実ではなく、義仲の思い込みである。頼朝はまだこの時期は関東での完全な支配権の確立に専念しており、東海道を攻め上る気配は見せていない。ただ、亡き以仁王からの平家追討の院宣が出ているわけだから、いずれそうなるということは云える。
「頼朝殿は御嫡男ゆえ、その血筋を慕う侍たちが集まります。自然に御加勢も増えたのでございましょう。」
「頼朝殿は勝つと思うか。」
「難しいところでございますな。」養父の兼遠は容易に答えを得ない。頼朝の勢いは確かにあるかも知れないが、京都の様子を見るかぎり平家一門もそう簡単には崩れそうにない。歴史が変わるときの、そのあたりのぎりぎりの判断は、正直、誰にも何ともいえない。
「義仲様は」
兼遠は逆に問うた。
「御挙兵の意志があられまするや。」
「俺か。」義仲もその決断ができずに、こうして兼遠と話しているのである。