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第47回 オランダ・イタリア紀行 Vol.11
この二日間の疲れを癒すためにぐっすりと眠った。ほんとに旅は、まだ途半ばなのだから。
朝の9時ごろに少し遅めの朝食をとり、フリック氏の家を辞する。トラムに乗ってハーグ中央駅へ。そして、スキポール空港にたどり着き、チェックイン。荷物を預け、フライトまでの時間は空港内のパブでビールを飲みながら本を読む。優雅なものだ。この旅には10冊ほどの本を持ってきた。これは僕の長旅のスタイルなのだが、本や音楽に選択肢がない状況が嫌いなので、たくさんの本やCDを持っていく。だが皆さんご存知の通り、本を持ち歩くのはけっこう重い。そこで、読み終わった本を片っ端から捨てていくのだ。すでにここにいたるまでに、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の文庫本3冊を読み終えて捨てており、このときは金子勝さんの経済学の本を読んでいた。
そうこうしているうちにフライトの時間となる。午後1時ぐらいだったか。KLMのボーイング767、オランダ・スキポール空港からローマ・レオナルドダヴィンチ空港へ。何とたったの2時間半だ。
さすがにこのフライトではビジネスクラスに当たらなかった。3人がけのシートで、隣はアメリカ人、そのまた隣はドイツ人の若者だった。東洋人みたいだけど、どこから来たの?と聞かれたので、日本からはるばるやってきたんだよ、と言うと、それは世界一周みたいなもんだね、とアメリカ人が言った。アメリカ人の彼は、どうやら世界一周旅行のようだった。
というわけで、ひとまずオランダを離れて、イタリア・ローマへ向かう。いよいよだ。
「イタリアへ!イタリアへ!パリは私の学校となるだろう!ローマは私の大学だ!それを見たものは、すべてを見たことになるのだ!」
というのは、ゲーテの名作『イタリア紀行』の一節である(岩波文庫版より)。「ローマ、私はようやくにして世界の首都に到着したのだ。もしも良き道連れと共に、立派にもののわかった人に案内されて今から15年も前にこの都が見られたのだったら、自分は大した果報者だと思う。しかし案内者もなく、自分ひとりで訪れねばならぬものだとすれば、その喜びがかくも遅く与えられたことを私は帰ってよかったと思わなければならない」(同前)。
とまあ、ここまで過激かつロマン主義的な感動があるわけではないけれども、やはり歴史愛好家の僕としては、ローマへ行くということの意味は大きい。生まれてきたからには一度ローマを見ないと死ねない(むろん本当は「ナポリを見て死ぬべし」という言い方が正しい)。
地球上の有史を大きく分類するとすれば、西洋史と東洋史に分かれる。そして西洋史の極は、言うまでもなくこのローマだ。現在の「西洋」は、この都市に都を置いた世界帝国の栄華に源泉を持っている。彼らがみずからをヨーロッパだと規定しているのは、他ならぬ、この帝国の末裔であるという認識があるがためだ。そしてまた、帝国滅亡後、この都市に拠点を置いた世界宗教によって、ヨーロッパと言うものが確定されていく。巨大な帝国と、ゆるぎなき宗教の都、それがローマである。それを訪ねるとは、何とまた楽しいことであろうか。というわけで、飛行機はオランダからローマへと向かっているのだが、僕のようなスノビストが簡単に到着するはずがない。しばらく、ローマの歴史のおさらいをすることになるのだ。さあみなさん、世界史の復習だと思って聴いてみよう。
伝説によれば、ローマは紀元前753年に建国された。ティヴェレ河畔の7つの丘のうち、パラティーノの丘の上に作られたという。パラティーノの丘は、フォロ・ロマーノが作られているところである。
その伝説とは、ギリシア神話の女神ヴィーナスの子にしてトロイ戦争の英雄・アエネイスがティヴェレ河畔に流れ、その子孫の巫女が軍神マルスと結ばれてロムルスとレムスの双子が生まれた、というものである。二人は王位を狙う大叔父に捨てられ、パラティーノの丘で雌狼の乳を飲んで育った。やがて成人した二人は大叔父を討ち、ローマを建国。やがてロムルスがレムスを滅ぼし、初代の王位に就いた。これ以後、七王時代という王政時代に入るのだが、この時代は純ローマ市民であるラテン人ではなく、お隣のエトルリア人の王による支配であったようだ。やがてローマはエトルリアからの支配を脱し、王政を打倒し、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)によって構成される「共和制ローマ」の時代に入る。
共和制ローマはコンスルという、任期制の統領によって政治が運営されたが、長い時間をかけて身分間の闘争が行われ、次第に平民の権利が拡大されていったのは世界史でも教わるところだ。まず、元老院への平民の参画(パトレス・コンスクリプティ)、護民官(トリブヌス・プレビス)制度の創設(BC494)、十二表法の制定(BC451)、貴族と平民の通婚を認めたカヌレイウス法の制定(BC445)、そして世界史では重要事項である、2名のコンスルのうち1名を平民から選出するというリキニウス・セクスティウス法(BC367)へと続いていく。世界史フリークだった皆さん、思い出して満足してますか?
一方でこの時期、ローマは着々と領土を拡大し、イタリア半島の他部族による反ローマ連合を次々と打破。BC275年にはイタリア半島南部のギリシア植民市タラントゥムをめぐってギシリア王と戦いこれに勝利、イタリア半島の支配権をものにした。
で、次にやってくるのが3度にわたるポエニ戦争である。
当時、地中海世界全般に絶対的な支配権を持っていたフェニキア人の植民都市・カルタゴとの最初の戦争は、長靴型のイタリア半島に蹴っ飛ばされている島・シチリア島をめぐって戦われた。この戦いのために慌てて海軍を創設したローマだったが、臨時の海軍にしてはよく戦い、また、20年にわたる戦闘の中で卓越した技術も身に付け、アエガデス諸島沖の海戦(BC241)でローマ海軍はカルタゴ海軍を壊滅させ大勝利を収めた。この戦いの結果、シチリア島のみならず、コルシカ島、サルディニア島をカルタゴから奪い、イタリア半島の通交・通商のためのいわば「シーレーン」を確保したのである。
三次の戦争の中で最も激戦かつ高名なのは、第2次のポエニ戦争である。第1次の戦争でも活躍したカルタゴの名将ハミルカル・バルカスは、先の敗北の汚名を注ぐべくイベリア半島に勢力を築き始めた。このバルカスの息子がカルタゴ軍最高司令官のハンニバルである。ハンニバルは父の意思を次いでスペインで軍勢を涵養し、熟したところでイベリアにあったローマの同盟市を攻撃して戦端を開いた。BC218年春のことである。
陸軍で持っていたはずのローマだが、今度は海戦を予想して海軍の軍備を整えていた。その隙を狙い、ハンニバルはスペインから4万の軍を率いて長駆6ヶ月、行軍のみで1万5000の兵を失いながらも、ピレネーと雪のアルプスを越え(上はその絵)、北イタリアに突入して背後からローマを襲ったのである。ローマ軍はトラシメヌス湖畔とカンネーで致命的な敗北を喫した。カンネーでのカルタゴ軍の戦死者が6000余人だったのに対し、ローマ軍の戦死者は5万を数えたという。主力を失ったローマの陥落は目前だった。しかし頭脳明晰なハンニバルはローマを迂回し遠く南イタリアにまで足を伸ばした。ローマの同盟市を根絶し、ローマを孤立させて、地中海世界の覇権をあきらめさせるほどの決定的な敗北を与えようとしたのだ。そして同時にハンニバルはカルタゴ政権内部の政争のとばっちりを受けて、ローマを攻めきれるだけの補給が得られなくなってしまっていた。
長期遠征のため疲れが見えたカルタゴ軍に対し、またイタリア諸都市の抵抗も終わることがなかった。このさなか、ローマに英雄が立つ。後にその戦功を讃えられてアフリカヌスと名を送られる好戦派の大スキピオが、ローマ軍の司令官になったのである。
ハンニバル軍との戦闘に活躍していたスキピオはその軍功を認められ、わずか26歳にしてイスパニア攻略総司令官に任じられる。スキピオはすぐさま軍を整え、海をわたってスペインのカルタゴ軍の戦略拠点カルダゴ・ノヴァを制圧、続いてここを守備していたハンニバルの弟ハスドルバルの軍を打ち破った(BC209)。ハスドルバルは兄に合流すべくイタリアへ向かったが、北イタリアでローマ軍の迎撃に遭って戦死し、カルタゴ軍は大きな戦力を失う。
スキピオは凱旋し、BC205年にはローマのコンスルに就任し、軍政両方の実権を握ってカルタゴとの最終決戦に臨んだ。BC204年、スキピオ軍はシチリアから地中海をわたってアフリカへ進撃、カルタゴに迫った。カルタゴ政府は慌ててイタリア半島のハンニバルを呼び寄せたが、BC202年、主力を長い戦いで失っていたハンニバル軍はザマでスキピオ軍に大敗北を喫して壊滅。カルタゴは降伏し、イスパニア半島および地中海のすべての島々と艦船を譲渡し、巨額の賠償金を科せられて大国としての命運が尽きたのである。
ハンニバルはその後もカルタゴ政権内にあってローマへの復讐を企てた。人材難の中、行政長官となり、憲法を改定し、自らの遠征軍を苦しめた政権内の腐敗も一掃した。しかし、ハンニバルの力を恐れるローマの工作にはまってカルタゴを追われる。シリア王国のアンティオコス3世のもとに逃れ、シリア艦隊を率いて再びローマと戦った。このときのローマの司令官はスキピオの弟で、スキピオの指示を受けてシリア軍に完勝、アレクサンドロス大王時代に端を発するセレウコス朝シリアを滅ぼす。ハンニバルはさらに逃れたが、ローマの追及についに逃げ場を失い、服毒自殺した。BC183年とも、182年とも言われる。これら2度の戦争に比べれば、第3次のポエニ戦争はスケールが小さい。
BC149年、ローマの実権を握っていたのは監察官の大カトーだった。弁舌家で知られるが政治的センスに優れ、徹底したローマ主義者であった。ヘレニズム文化の擁護者であった大スキピオに、シリア王からの収賄の嫌疑をかけて彼を政界から追いやり、シリアを徹底的に破壊したように、彼は今度はカルタゴを破壊しようとした。
すでにカルタゴにローマに対抗する力はなく、商都市として身の丈相応の繁栄を楽しんでいたカルタゴに、些細な条約違反を口実に戦争を仕掛けたのである。戦争はわずか3年で終わり、街は破壊し尽くされ、カルタゴ市民は殺害されるか、生き残った者は奴隷として売り飛ばされた。かくして、地中海国家ローマの覇権が確立されたのである。