第49回 オランダ・イタリア紀行 Vol.12

ところで、僕は地中海というものを見たことがない。

 海というのはとても不思議なものだ。地球の表面積の7割を占め、すべての水はつながっているにもかかわらず、人間が名づけた海ごとに違う表情を見せる。
 ヨーロッパ旅行記でこんな話を書くのはよくないかもしれないが、僕にとって最初の海は大村湾、という、琵琶湖よりも小さな入り江だった。幅20mほどのものと、10mほどの小さな水道だけで外海につながっているこの湾は湖のようにいつも穏やかで、静かである。
 その外の東シナ海の躍動的な波、瀬戸内海の鏡のような水面、太平洋の開放感、冬の日本海の黒々とした波など、日本という小さな島々を巡る海にも個性があって、人々はそこに漕ぎ出し、物語を育んできた。

 ときに、地中海の地図を見てみる。普段は気づかないことだが、大きな地図で見てみると、ヨーロッパ大陸は、ユーラシア大陸から伸び出た半島である。そしてこの半島によって蓋をされたのが地中海だ。何より、イベリア半島とアフリカ大陸の間のジブラルタル海峡しか出入り口がない(もちろん今ではスエズ運河があるが)ということは海の穏やかさと、軍事上の安定をもたらしてくれる。
 穏やかな海と軍事上の安定は、盛んな通商をもたらした。その上、陽光がさんさんと降り注ぐ地中海は多くの天の恵みをもたらした。それは最初に、エジプトという、さらにナイルという水に恵まれた土地に文明を生み出し、その文明はギリシアへ、そしてローマへと受け継がれた。地味と鉱物に恵まれた地中海沿岸。そこに文明が生まれ、東西の交易が海運を通じて盛んになるにいたって、地中海の支配権を握ることが西欧文明の死生を握ることになった。最初その権利をフェニキアが手にし、ついでローマが握り、ついでアラブ人が握り、ヨーロッパ人が取り返そうとしたもののアラブ人がこれを跳ね返し、さらにトルコ人が制覇し、最後に、イギリス人が手中に収めた。その地政学的重要性はいまも少しも失われておらず、米軍と英軍は優れた艦隊を地中海にいまも置いている。

 地中海とは穏やかで、豊かな恵みをもたらす海であると同時に、それを一手に収める者に繁栄を約束してきた。
 ローマもまた、カルタゴを滅ぼして地中海世界を手にしてから世界帝国への道を進んだ。そしてローマ人たちは地中海をこう呼んだ。「われらの海」。

ローマ史、いましばらく続く。

世界帝国化した「共和制」ローマの問題は内政だった。貧富の差は拡大し、貴族層や新興平民たちによる政争は激化した。有名な護民官グラックス兄弟の改革は貧困化した平民を救おうというものだったが、二人とも暗殺された。二人が暗殺されたのは、ローマがカルタゴを滅ぼし、マケドニア戦争を制してギリシアを手中に収め、地中海を制覇してまもなくのことだった。やがて貴族と民衆の対立はマリウスとスラという二人の将軍の血で血を洗う政争につながり、粛清と暗殺がはびこる暗黒の時代となった。イタリアの同盟諸都市はローマ市民権を求めて反乱に立ち上がった。
 ローマでは農業が壊滅的に崩壊し、エジプトからの穀物輸入に頼るようになった。これは、自作農の兵士を基本としたローマ軍の変質を意味している。この後、帝国の最盛期においてすら、ローマ帝国軍の常備軍は50万を超えることがなかったといわれる。たかがそれだけの兵力で、ゲルマニア、ブリタニア、メソポタミア、アフリカを制していたのだから、彼らの行政能力がいかに卓越していて、また、軍隊を迅速に移動させるためのインフラが充実していたかが想像できる。

 さて、ここからのことはよく知られている。混乱を収拾するために、スラの副官で東方戦争に功績のあった将軍ポンペイウス、生粋のローマ名門貴族の出でありながら民衆の熱い支持を受けていたカエサル、そしてローマの大富豪クラッススの3人が元老院に対抗して権力を独占したいわゆる三頭政治である。しかし10年のうちにクラッススが戦死する一方でカエサルはガリアで大々的な成功を収めて凱旋、政治的なバランスは崩れた。BC49年、元老院と結んだポンペイウスがカエサルの失脚を画策すると、カエサルは遠征中のガリアからイタリアへ進軍、有名な「賽は投げられた」の言葉とともにルビコン川を渡ってローマへ入城した。ポンペイウスはギリシア、次いでエジプトへ逃亡したが殺され、カエサルは権力を一手に握り、終身独裁官となる。
 このとき、カエサルにインペラトール(皇帝)の称号が最初に与えられたのである。

 BC44年3月15日は、シェイクスピアの芝居で有名な、共和政派のブルータスらによるカエサル暗殺が起こった。後継者争いのなかで、カエサルの養子オクタヴィアヌスがBC31年、将軍アントニウスとプトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世の連合軍をアクチウムに破って、100年に及ぶ内乱に終止符を打ち、帝政ローマが始まる。

 BC27年、元老院からアウグストゥス(尊厳なる者)の尊称を与えられたオクタヴィアヌスは、慎重にも自らをプリンケプス(第一の市民)と自己規定して元老院と共和制を尊重するそぶりを見せながら、50年に及ぶ長き治世でローマ都市計画の再建によりみずからの力を誇示し、諸制度において皇帝の権限を確立するのみならず、ローマ神たちの祭祀権を手中にして皇帝の神格化を進めた。
 この後ローマに行くのだが、行って、このアウグストゥスの有能ぶりを実感することになる。

さてアウグストゥスが死んだ後、卓越した皇帝としてはアウグストゥスの縁戚クラウディウス帝ぐらいなもので、あとの10人ほどの皇帝は基本的にさんざんである。なかでもネロの暴君ぶりは、キリスト教徒により後世過激に描写された嫌いはあるにしてもぬきんでている。この時代の皇帝の多くが、自殺したり暗殺されたりしているのである。まだ「帝王学」というものがなくて、みんな皇帝の地位をどう扱ってよいものやらわからなかったのではないか。よくもここでローマが壊れなかったのは、軍隊がしっかりしていたからであろう。

 そんななか、古代ローマ帝国の黄金時代となったのが96年のネルヴァ帝即位に始まる、いわゆる五賢帝時代である。先帝が能力あるものを養子とし後継者としたこの時代、ネルヴァ帝はそれまで生粋のローマ市民が務めてきた皇帝の位を、属州(イスパニア)出身のトラヤヌスに譲るという英断をした。そのトラヤヌス帝が、ローマ帝国の最大領土を確保したことはよく知られている。

117年、トラヤヌス帝時代のローマ帝国の版図である。よく見てほしい。東側が、カスピ海ばかりかアラビア湾にも顔を出している。アジアではアルサケス朝パルティア王国を追い込んでいたのである。
 領土は次のハドリアヌス帝の時代にやや縮小整理され、内政の整備は次のアントニヌス・ピウス帝の平和な時代へ引き継がれた。
 その後を継いだストア派哲学者のマルクス・アウレリウス帝にとってはその理想を発揮する場が整っていたはずだったのだが、不幸にして彼の時代になって北方ゲルマニア戦線で異民族の侵入が相次ぎ、帝はその対応に忙殺されることになる。彼の最大の失策は、五賢帝時代のルールを破って息子コモンドゥスを帝位につけたことで、コモンドゥスは暴君化し、やがて暗殺されて古代ローマ帝国黄金の日々は幕を下ろすことになる。
 で、どっかで聞いた名前だな、と思ったあなたは鋭い。昨年のオスカーをとったラッセル・クロウ主演の「グラディエーター」はこの時代が舞台として設定されています。ストーリーとしては、高齢のマルクス・アウレリウス帝は、五賢帝時代のルールに従い、有能なゲルマニア方面軍司令官マクシマス(これが主役のクロウ)に帝位を継がしめんとするのだが、それを知った息子のコモンドゥスがアウレリウス帝を殺害し、マクシマスを処刑しようとする。間一髪のところで逃れたマクシマスは逃亡のさなか奴隷に身をやつし、やがてイスパニアで剣闘士として活躍、その名をとどろかせて、ついにローマ・コロセウムでの皇帝コモンドゥスの御前で戦うことになる・・・ということです。世界史の丸暗記も、使ってみると何かの役に立つものですな。主役が最初に剣闘士になるところがイスパニア、というところがなかなか渋い。

まだ2世紀だ。先は長いぞ。進もう。
 五賢帝時代以降、基本的にはローマ帝国は混乱が続く。この時代の唯一名有名な皇帝はカラカラ帝だ。その巨大な風呂もとい公衆浴場で有名なのだが、より大事なのは彼が支持を得るために帝国内の全自由民に等しくローマ市民権を付与した(212年)ことだろう。これでローマの求心性が著しく失われる。で、結局彼も暗殺されてしまう。そのことによって、正統派ローマ人の支配は終わり、その後は各地に軍閥がはびこり、その軍閥が勝手に「皇帝」を担ぎ上げるどっちらけ状態となる(「軍人皇帝時代」という)。

 この混乱に終止符を打ったのがディオクレティアヌス帝だが、彼はローマ人ではなく、ダルマツィア出身のイリュリア人である。今風にいうとクロアチア人である。彼は属州とイタリア本国との区別を無くし、全帝国領に管区制度を布いて東方的な専制支配を行い、秩序を回復した。同時に、帝国を東西に分け、それぞれの帝国を正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)がおさめる四帝統治(テトラルキア)を行った。これによって、ローマの中心的かつ特権的な地位は相当失われてしまった。
 このややこしい制度はうまく機能せず、ディオクレティアヌスの退位後早速帝位をめぐる内戦となり、ブリタニアで皇帝に擁せられたコンスタンティヌスがまず西の皇帝の地位を、324年に東皇帝を滅ぼして、ふたたび帝国を統一する。

 夢のお告げによってキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝はキリスト教の側からはすこぶる評判がよいが、しかし、ローマに決定的な没落をもたらした。それは遷都である。ギリシア植民市以来の伝統をもつビザンティウムに新都コンスタンティノープルを造営したのだ。これによって、ローマはいわば「ただの街」になってしまったのである。
 彼の死後、帝国は再び辺境からの異民族の侵入に悩まされ、395年、テオドシウス帝の死とともに帝国は東西に再び分かたれた。そしてこれが永遠の分割だった。
 ローマは再び西ローマ帝国の「首都」となったが、苦難に遭いながらも巧みに政権を保ち、一千年以上にわたって命脈を保った東帝国と異なり、西帝国は東帝国を素通りしてきたゲルマン諸族の攻略に苦しめられた。410年、西ゴート族がローマを占領・略奪、撤退の条件としてガリアに西ゴート王国の建国を認めた。422年には遠征してきたヴァンダル族がアフリカで王国を建国し、残る領土はイタリアとスペインだけになった。おまけにアッティラ率いるフン族がはるばるヨーロッパまでやってきて各地を蹂躙した。ローマはその掠奪からまぬかれたが、最後の防衛のための出費は痛かった。

 476年、弱冠17歳の皇帝ロムルス・アウグストゥルスは、部下の傭兵隊長オドアケルにローマを追放された。オドアケルは次なる皇帝を立てず、みずからイタリア王となった。これによって、ローマ帝国は滅亡したのである。五賢帝時代以来、およそ300年をかけての衰退と終焉だった。世界帝国の都ローマはゲルマン人たちが闊歩するイタリアの一都市に成り下がり、人口は全盛時の10分の1にまで減少したという。

 だが、ローマはやがてふたたび歴史の舞台に登場してくる。こんどは、キリスト教の中心地として、である。そして、ローマ帝国が最後にキリスト教を公認していたことが、ローマを再び桧舞台へと押し上げることになるのだ。


 Vol.13へ   オランダ・イタリア紀行トップへ


[PR]アナタのウラ県民性をチェック:こっそり一人で?ワイワイ皆で?診断しょ