第53回 オランダ・イタリア紀行 Vol.14

3月6日の朝になる。あんまり日付などどうでもよくなってきた。飛行機さえ逃さなければ、それでよいのだ。
 夜が明けて明るいところで見てわかったのだが、テルミニ駅周辺は古い、19世紀末か今世紀初頭の石造りの家を壊して、新しい町並みを再開発しつつある。ぼろい部屋の窓から見た町並みは、こうだ。

 誰がこの写真を、200万人の大都市ローマのど真ん中だと思うだろう。というわけで、早朝早々窓を開けたときから僕のテンションはダメージを受けることになった。

 ダメージ回復のためには、宿を変えなければならない。フロントに下りると昨日のおっさんとは異なり英語がわかる気の弱そうなお兄さんが座っていたので、部屋を帰るように交渉したが満室だといわれ、じゃあいいよ、キャンセルしてくれ、と荷物をまとめて部屋を出てきてしまった。いきなり宿探しになるとは思わなかった。

 テルミニ駅前を通る大通りは「カブール通り」と名づけられている。カブールはもちろん、いま話題のアフガニスタンの首都ではなく、イタリア王国初代首相のカブールである。カブールは、サルディニア王国の名門貴族にして財務家、そして、英仏独露墺の列強が勢力拡張を競うなかで巧みにサルディニアの国力を拡大し、ついにはガリバルディとともにイタリア統一を成し遂げてサルディニア王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世をイタリア王とし、みずから初代首相の座に就いた。ときにフランスに領土割譲をしながら、最終的には教皇と結んでローマに駐留していたフランス軍を追い出すなど、ビスマルクとともに19世紀を代表する卓越した政治家である。

 ま、それはさておき、そのカブール通りの近くに古くて上品そうなホテルを見つけた。フロントに聞くと空き室はあるという。一泊25万リラ=およそ12500円とやや高いが、ホテルの風格を見てみるとそう高い値段ではない。即決で荷物を預けた。聞くと、創業は17世紀というとんでもないホテルで、古くから旅行客を迎えていたのだそうな。部屋を見てみるとカーペットが敷いてあり、内装もすべて木材。いやあ、温かみがあるねえ。冷蔵庫もついているし、バスタブも広い。前の宿は最上階だったのでロクにお湯すら出なかったのだから、まさに天国と地獄。格が違うだけに、従業員もみんな英語が流暢なのがうれしい。

 宿の安心を得るのは旅においては大事なことである。さて、市内へ繰り出そう。

ローマ市内にはトラムもあるが、交通手段としてはバスと地下鉄が発達している。とはいえ、地下鉄はせいぜい4路線ぐらいしかないので、どうしてもバスに依存することになる。
 ちなみに、テルミニ駅前のバスターミナルは、巨大なディオクレティアヌス帝の浴場に作られている。

 ディオクレティアヌス帝は、前にも書いたとおり3世紀の末、混乱の帝国を再統一して専制的支配をもたらした皇帝である。帝国の滅亡後ここは教会となり、そのおかげで巨大な建物の中心部だけが残されている。私のような遠国からの旅人は、何気ないバスターミナルがディオクレティアヌス帝の風呂だったりすることにいちいち感動しているのだが、街行く人々はそんなこと関係なく歩いていく。当然か。

 ガイドブックにしたがって、64番と書かれた2両連結のバスに乗る。行き先はヴァチカンだ。とりあえず行かねば、始まるまい。よくわからないままに適当なバス停で降りて、ティヴェレ川を渡ると、はるか向こうにヴァチカンの、そしてローマの象徴、サン・ピエトロ大聖堂が見えてきた。

 奥のほうにバシリカ(聖堂)が見えるのがわかるだろうか。手前右側に見える塔はサンタンジェロ城というお城で、聖堂と直結の城壁で結ばれている。ローマが他国に攻められると、教皇はその城壁を伝って城に逃げ込んだのだ。
 このサンタンジェロ上から向こう側が、イタリアではない「ヴァチカン」の領土になる。

 ヴァチカンはローマ教皇の在所、カトリックの総本山である。常識ではあるが、ヴァチカンはイタリア共和国とは別の国で、ヴァチカン市国という名称で呼ばれている、面積は0.5km2、人口およそ800人、国旗も国家もちゃんとあり、警察、軍隊、銀行、などが揃っているれっきとした独立国だ。パンフを見ると、「我が国の主要に使われている言語はイタリア語ですが、公用語はラテン語です」と書いてあるあたり、一国としての面子が見えて面白い。なぜこんな小さな国ができたのか。
 ローマ教皇は西ローマ帝国の滅亡以降、「教皇領」という領地を持ち、みずから国家として存在し、傭兵を使って軍隊をもち、ときに攻め時に掠奪に遭うという、他のイタリア諸都市とは異なる歴史を歩んできた。
 最寄のところでは1848年の二月革命のあおりを受けて、教皇がローマを脱出するという事件がある。このとき、青年イタリア党によるローマ共和国が成立するのだが、教皇はフランス軍を連れて帰ってきて教皇領を奪回したのだ。これに怒ったナショナリズムはイタリア統一運動へと進み、1861年トリノを首都とするイタリア王国が成立(上記参照)。
 しかし、ナショナリズムには国家の誇りある歴史が必要なのだ、日本史から京都を除外できないように。というわけで、統一イタリアもやはりローマを首都にせねば気がすまなくなり、「ローマか、さもなくば死を」という大袈裟なキャッチフレーズとともにイタリア軍はローマへ進軍、教皇領を併合してローマを首都とした。当然教皇は怒り、「ヴァチカンの囚人」と自分を名乗って引きこもった。

 この緊張関係を解消したのはムッソリーニである。世界恐慌が起こった1929年、ムッソリーニは教皇庁との間で、教皇庁の施設をヴァチカン市国という国際法上の独立国として認め、イタリアとは別個の主権国家として自由に活動してよいという取り決め(ラテラーノ協定)を結んだのだ。そしてこのとき、イタリアの国教をカトリックとも定めた(これは1984年に廃止)。
 かくして、世界最小の国家ヴァチカンが誕生したのである。もちろんこの国の主権者はローマ教皇であり、国家に対する独裁権という意味では世界最後の絶対専制君主かもしれない。

そういうヴァチカンへ足を踏み入れる。まずは、サン・ピエトロ大聖堂へと向かうことにしよう。
 それにしても、巨大な建物だ。大理石の白さと重厚感が存分に発揮されている。携行していたガリマールのガイドブックに拠れば、地上からドーム(クーポラ、という)の最上部までは136.5mもある。手前の広場も広大で、聳え立つオベリスクを中心とした楕円形の広場になっていて、その広場の円周を回廊が囲んでいる。回廊といっても太い円柱で支えられた、高さは30mはあろうかという巨大なもので、その回廊の上には聖人たちの彫像がずらりと並んでいる。そして正面の建物のファサード上には十二使徒の彫像が並んでいる。

 まったくもって、人を威圧する力に満ちたつくりだ。この広場は新年やクリスマスなどに、教皇が直々に行う野外ミサの会場となるのだが、世界のカトリック信者が集まる気持ちはわかる。建造物の力強さと、聖人たちの眼差しにさらされれば否がおうにも昂揚するはずだ。そして信仰をあらためて強くするに違いない、と不信心者のわたしでもそう思う。

 この劇場のような空間を構成したのはバロック時代の建築家、ベルニーニだそうである。僕も試したのだが、広場の中央に行くと回廊を支える4列の柱が重なって1列にしか見えなくなる。この舞台に教皇が登場して信者を祝福するところを想像するだけでもゾクゾクする、意志に基づいて世界を作り出すというふうな力強い構成だ。

広場を見つめる回廊上の聖人たち。 正面の十二使徒。手前はそれを守護するカール大帝。 ヴァチカンを守護するスイス人傭兵の交代。

 

 いまだにヴァチカンはスイス人傭兵によって守られている。1505年、教皇ユリウス2世が200人のスイス人による常設近衛軍を作ったことに始まる。彼らの名を偉大たら占めているのは1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の軍がローマを荒らしまわったときに、スイス兵はひるむことなく戦い、半年にわたってローマを守り抜いたのだ。制服のデザインが独特なのだが、カメラにズーム機能がついていなかったのでよくわからない。もうしわけない。こうしたもののひとつひとつが風格と力を感じさせる。

 しかし威圧的だ、と言いながら、である。それはむろん神とイエスと、その後継者(?)であるところの教皇の権威を見せつけるための建物であり設計には違いないのだが、しかし、単に強圧的なだけではいけない。それは宗教としての体をなさない。これだけの長い期間宗教として機能し、なおかつ、いまも世界において主流である西洋文明の基礎的なものを提示している「力」はいったいどこからくるのか。
 これが、ヴァチカンを巡りながらの問いとなる。

キリスト教がローマ帝国において公認されたのは313年、コンスタンティヌス大帝のミラノ勅令による。
 それまで、この一帯は人がすんでいないところだった。ティベレ川に近く、丘の割には湿気が多くて住みにくかったこの地区は、墓地として使われてきた。上述のサンタンジェロ城も城砦となったのは中世からで、もともとは、ハドリアヌス帝からカラカラ帝までの歴代皇帝の遺体を収める霊廟であったのだ。
 さらには一般の墓地もあった。この墓地は今も地下に残っている。3世紀ぐらいまでの墓地で、驚くべきことに、同じ郭室に、キリスト教徒と異教徒の墓が一緒になって収められているのだ。初期キリスト教、つまり公認以前のキリスト教を知るうえでは欠かすことのできない遺跡だ。
 この墓地群の中に、ひとりの聖人の墓がある。それが聖ペテロ、イタリア語でサン・ピエトロの墓だ。

サン・ピエトロ聖堂内のペテロ像/聖堂地下のペテロの墓

 

 当然、ペテロの像が安置してある。左足に触れると幸せになると言う伝承があるのだそうで、像の前には人だかりができていた。日本でいうと、天神さんの牛の頭を撫でるのと同じだな。一応、僕も触ってきた。偉大なる使徒にして宣教者、聖人の第一とされるペテロが、異教徒の異邦人に恩寵を恵んでくれるかどうかは定かではない(逆に劫罰を食らったりして)。

 しばらく、ペテロについて。
 聖書によれば、ペテロはガラリヤの猟師の息子で、元の名をシモンと言った。伝道をはじめたばかりのイエスが彼を教団に誘ったのだ。おそらく事実であろう。
 十二使徒の中でも、もっともイエスとの接触の記述が多い。さらにイエスは復活後、シモンの前に姿をあらわし、「天国への鍵」を渡す。

「あなたはペテロ(注:「岩」の意)。私はこの岩の上に教会を建てる。・・・私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも説かれる。」(マタイ福音書第16章、第18、19節)

このイエスの言葉は、その後の教団の指導権をペテロに託したことを示していると考えてよいだろう。事実ペテロはエルサレムで初期教団の形成に関するいくつかの重要な決定を行い、その後は伝道のためにローマへ行く。しかしローマはネロ帝によるキリスト教大弾圧が行われていた時期であった。ペテロは、ネロ帝は、みずからローマ市に火を放ち新しい都市計画をもくろんだが、その罪を市内のキリスト教徒になすりつけて大弾圧を行っていた。
 ペテロもまたその犠牲となる。ネロ帝は、ヴァチカンの丘の墓地群に隣接して作っていた大きな競技場(映画『ベン・ハー』の戦車競走のスタジアムを想像してもらえるとOK。ちなみに聖堂前の広場のオベリスクは、この競技場にあったものを移したものだ)でペテロを処刑する。紀元64年のことと言われている。そしてペテロはそのまま墓地に葬られた。

聖堂をいまも守護しているコンスタンティヌス帝

 

 それから250年後。初めてのキリスト教徒の皇帝コンスタンティヌスは、聖書の言葉を成就する役割を背負うことになった。
 ほぼ廃墟となっていたネロの競技場跡に、幅64m、奥行き120mの巨大なバシリカ(上から見たら十字架の形をした聖堂のこと)を建設したのである。そして内陣中央の祭壇はちょうどペテロの墓の真上に来るように設計された。これが初代のサン・ピエトロ大聖堂だった。かくしてローマは、キリスト教会の中心としての威容をはじめて手にしたのである。

 ここまでの歴史を知っておかないと、教皇の権威というものがわからない。
 コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教化した後、地中海世界には5つの大都市に教団の拠点が置かれた。ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアである。神学論争を通じて、これらの教会の主導権争いは激しかった。なかでもイエス殉教の地エルサレム、帝都コンスタンティノープルの教会は有力で、ローマはこれに対抗するために、ペテロの殉教を持ち出して、自らの権威付けを図ったのだ。

 やがて帝国が分裂し弱体化するなかで、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアはイスラムの支配下に入り、主導権争いはローマとコンスタンティノープルの戦いとなる。これはそのまま、東ローマ帝国と、西ヨーロッパ諸国との政治的な争いを反映したものだった。政治的にはヨーロッパ諸王は東ローマ皇帝の名義上の権威に服従していたが、それを脱するためにローマ教会大司教の権威を借りたのである。
 教団内では一介の大司教に過ぎないローマ教会大司教が、他の教会を超える権威をもつために、『天国への鍵』が登場する。聖書によれば、ペテロはイエスから天国への鍵を付与された。つまり神の国のイエスに対して、ペテロは地上での代理執行人となったのである。そして、ペテロ殉教の地ローマ教会の首である大司教は、ペテロの後継者であり、他のキリスト教徒とは違うのだ、という論理を展開していったのである。そしていつの間にか、ペテロが初代ローマ教皇という肩書きを持つようになったのだ。

 そのために、世俗権とも結びついた。800年には東ローマ皇帝に断りなく、教皇レオ3世がカロリング朝のカールに帝冠を授けた。このころ、かつてコンスタンティヌス帝は夢のお告げに従って、神の代理人である教皇に世俗の領土を寄進したという「コンスタンティヌスの寄進状」が発見され、教皇の世俗に対する優位も確立されつつあった。寄進状が、ローマ教会による偽書だと判明したのは、なんと18世紀なってからのことである。

 かくして、ペテロの首位権を足がかりにローマ大司教は「教皇」という「力」を得た。教皇は自らの肩書きに、キリストの代理者、聖ペトロの後継者、そして全教会の最高司祭、西欧の総司教、イタリアの大司教、ローマ教区の司教、バチカン市国の元首といったものを持っている。そして何より、自らを「神のしもべのしもべ」とよぶ。「神の僕」はペテロのことであり、彼はその「僕」なのである。彼の言葉と思想は神とペテロによって守られており、信徒はそれに従わなければならないのである。

 一介のローマ教区の司教が(ただの司教だったら故郷の長崎にもいた)「教皇」という特別の存在へと変貌していくさまを、ペテロを中心に書いてみた。これがわかると、ローマのいろんなことがわかると思う。

 むろん、力は論理のみによってもたらされるのではない。いましばらく聖堂にとどまり、造形的に力を演出したバロック・ルネサンス時代の人々について次回は考えたい。


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