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第53回 オランダ・イタリア紀行 Vol.15
ときに僕が目にしているサン・ピエトロ大聖堂は、コンスタンティヌス帝のころのものではない。
コンスタンティヌス帝が作った聖堂は、ローマの戦乱とおよそ千年の時間を経て、崩落の危機に瀕していた。そのため、16世紀のはじめからおよそ150年をかけて再建されたのである。15世紀から16世紀。ときあたかも、ルネサンスからバロックへと時代が移り変わる時期であった。トルコ帝国に追われたコンスタンティノープルの人々が、東方に保存されていたギリシア・ローマの古典文化をもちこみ、その故郷であるローマにも衝撃をもたらした。人々が恐る恐る地面を掘ってみると、そこには宝の山のような古典文化の精髄が眠っていた。その文化を学びにヨーロッパ各地から人々がイタリアに集まり、東方貿易による経済的繁栄がそれを支えた。
ローマもまた、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィアとならぶ、ルネサンス・バロック文化の中心地となったのである。
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その新たな芸術観は、ルネサンスと相俟って、ローマ時代の写実的かつ法則性に富んだ姿をしている。
ギリシア・ローマ時代に数学や測量学、建築学が発達したように、この時代も、往年の黄金分割や遠近法といった手法が用いられた。ローマ建築に感じられる荘厳さ、力強さはその結果である。そしてその結果を、この時代も受け継いでいる。上右写真のクーポラなどは、そのことを強く意識させる。
かつてはローマ皇帝の権威を示すために使われた、法則性に基づく荘厳さ、力強さが甦ったのがルネサンスだった。それは、中世の二次元的な芸術空間を脱し、視覚的にも聴覚的にも論理的にも一発で荘厳さを感じさせるつくりになった。そしてそれは、神と教皇の権威を示すために使われた。写真左、ペテロの聖座の前では、いまも敬虔な信徒によるミサが行われている。ルネサンスの、神の力を示すために使われた芸術はいまも生きている。
そしてまた、神の力を示すためと称して、多くの芸術家が実験的な作品を残した。それは、神様がいなくなった「近代」という時代の考え方を準備したのだ。してみると、われわれと中世はほど近くにいるということになる。
それを感じさせる作品が、ヴァチカンには多数ある。博物館まで足を運ばなくても、この聖堂にも傑作が並んでいるのだ。なかでも傑作中の傑作が、ミケランジェロの「ピエタ」である。
「ピエタ」は、聖堂に入って右側、ガラス戸の向こうに置いてある。日本人をはじめ、黒山の人だかりだ。
僕の写真では何のことかわからないので、きれいな写真を添えておく。美しい大理石の材質と、一部も手を抜いていない丹念な造形、そして全体を大きな三角形でまとめた大胆な構図に注目してほしい。人間の手で石からこれほどのものが作り出されうる、という可能性に感動してほしい。何とミケランジェロ25歳のときの作だ。
「ピエタ」とは見ての通り、磔刑に遭ったイエスをマリアが抱きかかえる構図で、絵も彫像もある。もともと北ヨーロッパにキリスト教が布教された際、その地方の聖女信仰がマリアと結びついて流布した主題で、ローマ・カトリックからすれば本流というわけではない。それをあえて、カトリック総本山のローマに据えようと思ったミケランジェロはどういうつもりだったのだろう。彼は、ローマ駐在のフランス大使の注文に応じてローマでの最初の作品としてこの像を製作したのだ。
ミケランジェロについて。ミケランジェロこそは、ルネサンス最大の芸術家である。少なくともローマにとっては、そういっていいだろう。
彼は最初、フィレンツェの宮廷でキャリアをスタートさせた。フィレンツェは当時メディチ家のもとでの繁栄の絶頂期で、豪華王とあだ名されたロレンツォ・ディ・メディチの時代だった。彼は父親とともに宮廷に出入りし、メディチ家の人々との交流を深める。その交流をした人々のなかから、後のローマ教皇が二人も出ることが、彼の運命をローマで花開かせることになる。ローマに入ったミケランジェロは当然、多くの発掘されたローマ時代の彫刻を研究している。その結実のひとつとして、「ピエタ」はある。「ピエタ」には、若い才能ある芸術家の自身も十分に感じられるが、それだけではない。マリアの表情に注目してほしい。キリスト教芸術の世界に「諦念」を持ち込んだのは彼が最初なのだ。
ローマ時代の造形は、ある人物や神の栄光を讃えるためだった。その神は遠くにいた。ダ・ヴィンチは『最後の晩餐』で、驚き慄く使徒たちの表情に強い人間性を付与したが、中心人物のイエスまでにはその描写はいたっておらず、またその空白があの壮大な絵画の魅力を醸し出している。
ミケランジェロは、そうしたルネサンス前期の作風を研究し尽くした上でこれを作っている。聖書の物語の主題でありながら、このマリアの表情は聖書の物語とは別種の何かを語っている。ミケランジェロが、いわば「傍流」の主題であるピエタを選んだのはそれゆえかもしれない。それが独特の「力」を持っている。それまでの世界のどこにもなかった「力」である。
ちょっと神学的な言い方をすれば、それまで遥か彼方にあった「神」が、ある意味では、ミケランジェロの意志の中に宿ったのだ。アリオストの言葉だが、彼は「死を乗り越える聖天使ミカエル」となったのである。彼自身が物語を編み出そうとしていたとは思えない。そういう狡猾さはこの作品の中にはない。見る者が物語を感じざるを得ない力をもつ作品を作り出す意志が、彼のなかに備わったのである。その意志を「神」と呼んでいいかはわからない。おそらく、より適切な比喩があるだろう。いまのところをそれを何と呼んでよいのか、僕にはわからないが。
しばらく、ミケランジェロに導かれて進もう。
最終的にサン・ピエトロ大聖堂を今の姿に仕上げたのも、「設計技師」ミケランジェロである。ミケランジェロがこの設計に加わるまでにも多くの設計技師が携わったが、上の写真にある祭壇の仕上がりと、ドームの最終的な形を決定したのはミケランジェロだ。
ローマ時代のパンテオンに代表されるドームはより緩やかなお椀形をしていた。写真でしか見たことがないが、7世紀に作られたイスタンブールの聖ソフィア聖堂などは、そうしたドームである。なぜそうなのか。ドームの屋根の重さを支えるために、上に行くほどに材質の厚みを減らさなければならない。そのため、伸びるように高いドームを作ることができないのだ。
だがミケランジェロはローマのドームに学びながら、それをものの見事に裏切った。このドームは内径41.7m、膨大な量の肋骨を使って石材を支えている。その技術を、人文復興の流れのなかで過去の数多くの教会建築からミケランジェロは編み出し、オリジナルにしてしまったのだ。しかも、それまでの教会が塔を持つのに対して、それに代わるだけの権威をもったドームを持ったのである。しかも高いので、なかに入ればいやおうなくの荘厳さを感じさせられる。しかも、ドーム部から入る光は幻想的ですらある。
このドームはその後、西欧世界のドームの模範になった。身も蓋もなくこれを真似したのがアメリカの連邦議会議事堂である。あれだけ明け透けにイミテーションを作るのはさすがにアメリカ人。ミケランジェロが「死を乗り越える」というのは、彫刻のみならず、彼の、決して本業ではなかった建築においても発揮された。ルネサンス最大の芸術家の精髄は、ヴァチカンに散りばめられている。このあと、そのドームへ登って見事なローマ市街の鳥瞰を楽しもうと思っていたのだが、膨大な行列ができていたのでやめた。いったん大聖堂を出て、そこにあった「ヴァチカン市国」の郵便局から日本に私信を出す。もちろんヴァチカンは独立国なので、その切手は川の向こうのイタリアの郵便局では使えないのである。
さて、大聖堂は出たが、ミケランジェロの話、いましばらく続く。