第57回 オランダ・イタリア紀行 Vol.16

ヴァチカンのみならずローマの中心でもあるサン・ピエトロ大聖堂をいったん出る。何度も繰り返しているが、ヴァチカンは独立国であるから、ヴァチカン領内に入って抜け道をするには許可がいる。ヴァチカン国内で出入りが許されているのは、大聖堂とヴァチカン美術館だけである。したがって、聖堂をいったん出て、ヴァチカンを囲むイタリア領の道路をぐるりと回っていかなければならない。
 ヴァチカン美術館の入り口は聖堂とはかなり離れたところにあり、ヴァチカン宮殿の城壁を左手に見ながら結構な距離を歩かされた。並んでみると、絶望的なほど長い行列が出来ていた。言葉で判断するに、ドイツ人もアメリカ人もいた。日本の美術館なら速攻で遠慮するところだが、はるばる東方から来たとあってはそうおいそれとは引き下がるわけには行かず、行列に加わった。今日は半分も見られればいい。後は、ローマにあと3日いるのだから、もう一回見にくればいいさ。

 さて、現在のところ僕はミケランジェロに導かれている。歴代の教皇たちが集めたオリエントやギリシア・ローマの石像たちに目を奪われそうにもなるが、そこに足をとどめる多くの人たちを追い越してとりあえず先を急ぐ。向かう先はもちろん、システィナ礼拝堂である。
 システィナ礼拝堂がどんなにすごいか、ご存知か。ご存じない方にはごらんいただこう。これだ。

 なんだかただのキンキラキンに見えるが、照明が当たっているこの堂内の壁と天上ことごとくが絵である。そして、天井と正面の壁の絵はミケランジェロの手になるものである。一時、汚れと剥落がひどかったようだが、十年程前に大修理が終わって鮮やかな色彩を取り戻していた。ちなみに金を出したのは日本テレビである。

 「ピエタ」を製作した後、いったんフィレンツェに帰っていたミケランジェロを教皇ユリウス2世が1508年に呼び戻したとき、ミケランジェロは33歳になっていた。ユリウス2世は、システィナ礼拝堂(名前は教皇に由来する)の天井画を書くことをミケランジェロに依頼したのである。システィナ礼拝堂は、15世紀に教皇シクストゥス4世が教皇専用のチャペルとして建設した重要な礼拝堂で、いまも、次の教皇を選ぶための枢機卿会議はここで開かれる決まりになっている。

 この仕事を命じられたとき、ミケランジェロはたいそう嫌がったらしい。というのも、すでにユリウス2世の廟墓の製作に取りかかっていて、みずからを彫刻家と規定するミケランジェロは絵などやりたくなかったらしい。そのことは、製作中に父親に送った手紙からも読み取れる。
 しかし彼は、1508年から12年の歳月をかけてこの天井画を完成させた。堂内に高い足場を組み、そこに仰向けになって絵を描いていったという。しかもこの間、当時のしきたりに従って弟子に部分を描かせることがなかった。完成を急ぐユリウス2世は足場を揺らしてミケランジェロに怒鳴ったが、ミケランジェロは教皇を一瞥もせずに絵を掻き続けた。広さはテニスコート3面分に余り、無数の人物たちを配してひとつの物語を作り上げた、才能と、自信と、反骨心。

 「天地創造」というタイトルからわかるとおり、旧約聖書のうち、光と闇の分離に始まりノアの洪水を経て、イエスの祖先たちと、さまざまな預言者が登場するさまが描かれている。この写真でいうと、左から右へとシーンわけされている。

この絵画群でもっとも有名なのが、左の「アダムの創造」であり、右は擬人化された蛇の誘惑に負けて禁断の果実を食べ、楽園を追放されるアダムとイブである。彼はこの人物たちを描くに当たって入念なデッサンを行い、人体解剖の研究まで取り込んで、膨大な人物像のタイプやポーズを研究した。
 だがこの絵で僕にとって印象的なのは、エレミア、エゼキエル、ヨナといった預言者と乙女たち、それにアブラハム、イサクと続くイエスの祖先たちの絵である。

 そうした預言者のひとり、エレミア。この顔は、ミケランジェロが自分の顔に似せて描いたというので有名である。人物表現の豊かさは、もちろん、上のアダムの肉体などにもみてとれるが、それ以上に、預言者や乙女たちの、救世主の到来について思索をめぐらす深い洞察、あるいは到来を待ちわびるように振り向いた顔の表情は、それまでの宗教画にはなくリアルなものだ。
 それにしても、彼はなぜこんな顔を描いたのだろう。いったい彼は、何を考え、何を悩んでいたのだろうか。何か壮大なストーリーを描こうとしていたのか、それとも、単に芸術のための芸術に尽くしていたのか。今まで何度も写真や本で見てきたが、遠く天井に掲げられたこの絵を見ていると、そういう基本的な疑問が頭をもたげてきた。
 確かなことは、この絵が近代絵画の扉を開いたということだ。

ふつうの解説書なら、1520年までかけて「天地創造』を完成させたミケランジェロがいったんローマを離れたあと、1536年に再びローマに舞い戻り、システィナ礼拝堂の奥壁に「最後の審判」を描き始めた、とくる。それはその通りである。
 それはそのとおりであるが、歴史派の僕としてはもうひとつ、この時代の背景を描いておかなければならない。それは、ミケランジェロがその才能を、ローマをはじめとするイタリア諸都市で開花させていた時代、ヨーロッパ全土を宗教改革の嵐が吹き荒れていたということだ。

 もともと、ドイツを中心とするゲルマン系の王国・帝国とローマ教皇は歴史的に対立をしてきた。その対立をベースとして宗教改革は起こったわけだが、その嚆矢は、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井に絵を描いていた最中の1517年、ルターが「九十五か条の論題」を発表したことである。しかしそもそもこの論題が最大の批判のターゲットにしているのは、サン・ピエトロ大聖堂の建築資金に困った教皇が、この切符を買えば罪が許されて天国へ行けるという「免罪符」を発売したことだったのだ。ローマ・ルネサンスは実に、宗教改革と切っても切れない関係があった。

 世界史の教科書レベルでは、たちまち新教派が勢力を拡大したような印象を抱きかねないが、そうではない。
 ときの神聖ローマ皇帝は、ハプスブルク家のカール5世だった。カール5世の名は、ヨーロッパ史を理解するうえでは是非とも覚えておきたい。ハプスブルク家のなかでも名門に生まれた彼は、その血縁上の偶然も重なって、ハプスブルク家のフランス領であるブルゴーニュ公を手始めに、スペイン、ネーデルラント(オランダ・ベルギー)、イタリアのナポリ、シチリア、サルディニア、アメリカ・アフリカのスペイン植民地、そしてハンガリーなどハプスブルク家領を相続し、西暦800年のカール大帝以来の大きな領土を保持した君主である。
 ちなみに新教国オランダに苛烈な宗教弾圧をもたらし、オランダ独立戦争を引き起こした熱烈なカトリック信者のスペイン王フェリペ2世は、カールの息子である。

 どちらかというと、旧教国スペイン寄りだったカール5世は、ドイツ国内の新教派の反乱を抑えるためにルターを呼び、自説の撤回を求めたもののルターがこれを拒否、ドイツ国内の足元がぐらついているのを見た隣国フランスのフランソワ1世はカールの領土への攻撃をはじめた。なかでもテーマになったのは、イタリアの支配権をめぐってであった。

 そして1527年、戦乱がローマを襲った。イタリアから皇帝カールの軍勢を追い出したいという利害でフランスと一致した教皇クレメンス7世(フィレンツェ・メディチ家で、ミケランジェロを可愛がったロレンツォ豪華王の弟。いささか政治的には節操がなかった)は、カール5世に対して宣戦を布告した。しかし戦線は圧倒的に皇帝側に有利に進み、皇帝軍は教皇軍を蹴散らしてローマ市内に突入した。皇帝軍といっても正規軍ではなく、ごろつきを集めたような傭兵軍である。ローマ市内は掠奪されるままとなり、若い男性は殺戮に遭い、修道女を含む女性が暴行を受けた。兵士たちはローマ帝国以来の歴史的建造物を破壊し、損傷した。信じがたいことだが、ミケランジェロが大作を完成させたばかりのシスティナ礼拝堂は皇帝軍の厩舎になり、壁はいいように落書きされた。
 市内は軒並み破壊された。殺戮の上、ペストが流行して4000人以上が落命した。教皇はヴァチカン近くのサンタンジェロ城に7ヶ月間も監禁され、高額な賠償金を払わされた上、それまで拒否していたカールへの戴冠を強制されたのである。
 ローマの劫掠(サッコ・ディ・ローマ)と呼ばれるこの事件は、ローマに再建不可能と思われるほどのダメージを与えたと同時に、思想的にもキリスト教世界に衝撃をもたらした。ルター派は、「退廃したローマは新たなるバビロンであり、そのバビロンは退廃と繁栄の罪を償ったのだ」と主張した。カトリック派はこの事件の痛手から立ち直るために保守的傾向を強めて、反宗教改革と呼ばれる巻き返しに出る。イエズス会が結成されるのはこの事件のあとである。

 かような、いささかきな臭いローマに、ミケランジェロは呼び戻されたのである。すでに60歳を超えていた。ミケランジェロの話、もう一話だけ続く。それほど、ローマでの彼の印象は強いのである。


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