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第60回 オランダ・イタリア紀行 Vol.18
ヴァチカンで頭を使いすぎたので、今日はローマの街中を歩こう。今日とは、3月7日になる。
スリで有名なローマ市バスと地下鉄を乗り継ぐ。実に、ローマ滞在中に3回スリに遭遇した。被害には遭わなかった。見るからにスリ、という人たちばかりだったからだ。『地球の歩き方』にすら、赤ん坊ないし赤ん坊の人形を前に抱えて接近してくる、小柄な人たち(PCな理由でそうは書かれていないが、つまりはジプシーと呼ばれる人たちだ)が何度か僕のジャケットの内ポケットに手を伸ばしてきたが、わかりやすすぎるので被害には遭わなかった。しかし彼ら彼女らはそれでも手を伸ばしてくるので、一度は地下鉄で伸びてきた手を手刀で叩き落した。彼は僕を指差して、この日本人がどうのこうの、ということを大声で叫んでいたが(ジャポネーゼという言葉だけ理解)、車内の人たちもみんな「こいつがスリだ」ということをわかっているので、無視していた。
ほんとに窃盗をやりたいのだったら、スタイルから技術から再検討するべきだ。もっとも、陽気なイタリア人たちはガードが甘いのかもしれないが。ところで、北海に面して太陽に恵まれないオランダと比べると、ローマには燦燦と太陽が降り注ぐ。先に述べたように、食べ物もうまい。土地の滋味と太陽の幸は存分に恵まれた土地である。
文化的にも長い時間の間に鍛えられているから、街もおしゃれだし、何より女性がおしゃれだ。オランダのように背が高くて化粧っけもファッションセンスもさほどない国とは違い、イタリアの女性は小柄で(大柄なほうでも僕と同じぐらいだから、まあ現代の日本人とそう変わらない)、小奇麗な服装と、派手ではないがしっかりとしたお化粧をしている。それもあるのだが、何より美人が多いように思うのは気のせいか。それともオランダから来たからか。オランダを貶しすぎだ。
街を歩いていると幸せそうな男女がそれは楽しげに腕を組んで歩いたり、カフェでコーヒーを飲んだりしている。ほんとに心底楽しそうである。そういう国民性なのだろう。さすがに、ギターで愛を歌っている男は見かけなかったが。街を歩くと、サン・ピエトロ大聖堂を中心に放射状の道が伸びていることがわかる。建物は、19世紀後半から20世紀初頭の石造りなのだが、区画はそれよりも古く、美しい。街中のあちこちに広場があり、そこには噴水や下の写真のようなオベリスクがある。オベリスクは、古代エジプトの神殿に作られた太陽神を象徴する四角柱の石柱で、ローマ帝国がエジプトを領有していたころにたくさんぶんどってきたらしい。帝国滅亡後、大半のオベリスクが倒れて地中に眠っていたが、16世紀のバロック芸術の時代に掘り起こされてふたたび立てられた。オベリスクはバロック文化に彩りを沿える。
こうした、過去の皇帝たちがみずからの偉業を記念するために持ってきたオベリスクが、現在のローマに権威を添えている。
この、今のローマの街の基本計画を作ったのは教皇シクストゥス5世である。1585年、宗教改革の嵐のなか、シクストゥス5世が教皇に立った。シクストゥス5世は卑賤の身から修道院の小坊主のような仕事をし、そこから教会の頂点にまで上り詰めた人物である。彼は教皇になるやいなや、まだ完成途上にあったサン・ピエトロ大聖堂の最終的な再建を急ぐとともに、聖堂を中心としたローマの都市計画に乗り出した。幸いというか、神聖ローマ帝国軍の掠奪にあってローマはひどい状況にあり、そのぶんだけ、教皇には真っ白なキャンバスが広がっていたわけである。
その基本的な目的は「キリスト教世界に君臨する町としてふさわしい景観」を作り出すことであった。いま見るローマは、この時期からの教皇たちによって作り出されたものである。そういうものを、羅列的であるが、見ていこう。
シクストゥス5世は、ローマ帝国時代の遺物を上手にローマの景観の中に取り込んだ。
西洋において初めての「世界帝国」だったローマ帝国の遺跡を街の景観に歴史のなかに取り込むことは、キリスト教による世界支配の正統性を示すためでもあった。そうした風景を見ると、ローマに来たなあと実感する。幸い太陽も長い時間われわれを照らしてくれる。ゆっくり歩こう。
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地下鉄の駅を出て、まずはこれだ。コロッセオ。写真でも何度も見たが、実物を目の前にするとその大きさに圧倒されてしまう。右の写真でわかるとおり楕円形をしていて、長径188m、短径150mの巨大さ。右の写真をよーく見てもらって、歩いている人の大きさと比べていただければほとんど狂ったような巨大さを感じていただきたい。しかも、地下もあるのだ。地下室は猛獣や剣闘士の控え室で、せり上がり式の昇降機も完備されていた。いざとなればここに水を張って模擬海戦を見て楽しんだという。収容人員5万。霞ヶ丘の国立競技場並みだ。
この競技場は、ネロ帝時代の大火後の再建によって西暦80年に完成し、落成記念式では5000頭の野獣が生贄として神々に捧げられたという。そして最後のイベントは、東ゴート族の大王テオドリックが523年に催した。その後、帝国の荒廃とともにここは使われなくなったばかりか、建築資材としての大理石の切り出し場と化してしまったのである。上のほうから大理石がなくなっているのはそのせいだ。おまけに内部に人が住み着くようになって、ローマ帝国の威光も何もなくなってしまった。そのままなら確実に崩壊していたであろうコロッセオを救ったのはキリスト教だった。帝国時代、キリスト教徒がこの競技場で処刑された(そういえばタリバンもサッカー場で処刑していた。人が集まるからかな)という、おそらくは伝説が作られ、教皇はここを聖地として祝福したのである。おかげで、帝国の栄光をいまも感じることができるわけだ。
コロッセオのすぐ傍には、凱旋門がある。これが凱旋門だということがすぐわかるのは、パリ・シャンゼリゼ通りにある凱旋門とよく似ているからなのだが、当然パリのほうが、というかナポレオンがこれを真似したのである。この凱旋門は、コンスタンティヌス帝の凱旋門だ。
帝国の西の皇帝だったコンスタンティヌス帝が西暦312年、東の皇帝マクセンティウス帝を破って帝国を再統一した記念として作られたものである。レリーフその他は2世紀の建造物から転用されたものらしいが、人物表現等には見るべきものがある。初期キリスト教美術と相通じるところがあるからだ。そもそも、コンスタンティヌス帝は帝国統一の翌年、ミラノで勅令を発してキリスト教を公認した皇帝である。フランク帝国のカール大帝とともに、キリスト教を守護する世俗の象徴なのである。そういうわけで、この凱旋門は「神の勝利」という意味合いを付与されて残ったものである。上の写真は、コロッセオから凱旋門を見た景色だが、向こう側が小高い丘になっているのがわかるだろうか。この丘が、ローマ7丘のひとつ、パラティーノの丘である。パラティーノの丘から、現在のローマの中心のひとつであるカンピドーリオの丘にいたるまでの谷地に、古代ローマ帝国の中心フォロ・ロマーノが広がっている。
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パラティーノの丘は、帝国時代のローマ市街のほぼ中央に位置している。初代皇帝のアウグストゥスがこの丘に居宅を構えて以来、歴代皇帝の宮殿となった。そのふもとに、フォロ・ロマーノは広がっている。フォロの遺跡は幸いにというか不幸にもというか、中世には人が住まなくなったために土の堆積に襲われ、およそ20mも積もった土の下になり、その上ではのんびりと牧草などが行われていた。この遺跡が再び太陽を見るようになったのは、19世紀に入ってフランス軍がやってきたとき、ナポレオンが発掘を命じたのが最初らしい。ナポレオンは実に、フランスだけではなくてヨーロッパじゅうにナショナリズムの種を蒔いたのである。
これも、写真で歩いている人の姿がわかるだろうか。建物の遺跡ひとつひとつは巨大で、手前のファサードはローマ神の神殿である。写真に映っているいったいがフォロの中心で、元老院の議事堂や、BC367年に貴族と平民の和解を記念したコンコルディア神殿、それに帝政期に入ると、カエサルが火葬された跡地に作られたユリウス神殿やアウグストゥス帝の凱旋門などが作られていた。この写真の右手がパラティーノの丘になるのだが、宮殿に住む皇帝が丘を降り、議員や市民が待つフォロで下り、市民が歓呼で迎えるさまは想像するより他はないが、わずかに残った大理石の大きな遺跡からその空気だけは感じられそうである。
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フォロ・ロマーノは基本的には、共和制ローマのためのフォロである。帝政期に入ると、皇帝たちがそれぞれに自分の栄光を讃えるためのフォロを建設するようになった。その最初はカエサルで、次いでアウグストゥスである。現在残っているのはこの他にネロ、ネルヴァ、トラヤヌスらのフォロが残っているが、いずれも保存状況はよくない。
フォロ・ロマーノに隣接する一帯は、皇帝たちがフォロを多数建設したためにフォロ・インペリアーリと呼ばれるようになったが、そのほとんどがいまは見ることができない。1920年代に、シクストゥス5世ばりにローマ都市計画を考え出したムッソリーニが、自分の政務所があるカンピドーリオ広場からローマの象徴コロッセオに至るまでに、大きな直線の車道を作ったのだ。そのために、多くの皇帝たちのフォロが道の下にうずもれてしまった。愚かな話である。
その、ムッソリーニによって作られた道から撮影した、大変美しいフォロ・ロマーノの夕景。
右手に見える丸い塔は、まだ教会ではない。「まだ」とは、これがコンスタンティヌス帝によって作られた6000uにも及ぶ巨大なバシリカのひとつで、まだキリスト教会ではなかったという意味だ。バシリカ、とは現在では教会の代名詞だが、古代ローマにおいては司法・行政・経済活動を行う政庁であった。
ところで、コンスタンティヌスがこれを作ったころには、フォロ・ロマーノで元老院と市民が集まるといった古き良きローマの面影は形式的にすら失われていた。貴族や軍人が勢力を争い、アウグストゥス時代の栄光は失われていた。東方への憧憬もあったコンスタンティヌスは、ローマを捨てて遥か東方のビザンティウムに都を遷すことにした。コンスタンティヌスの栄光は、ローマにではなく東方に降り注いだ。ローマの落日の始まりであったのだ。
という話を、フォロの黄昏に託してみた。気取った写真で申し訳ない。