

![]()
![]()
![]()
第61回 オランダ・イタリア紀行 Vol.19
コロッセオから地図で言うと西北方向に向かっている。コロッセオに隣り合うようにコンスタンティヌス帝の凱旋門があり、そこから古代ローマの中心地パラティーノの丘を越え、フォロ・ロマーノを抜けると、ひときわ高い丘に遭遇する。カピトリーノの丘だ。
かつてははっきりとした丘だったはずのローマの7つの丘も、長い間に削られ、ならされてその輪郭をほとんど失っているが、カピトリーノの丘はいまもひときわ高く聳え立つ。三方を峻厳な崖に囲まれたカピトリーノの丘は、BC390年に起こったガリア人によるローマ侵略の際にもこの丘だけは陥落せず、「永遠の都」の代名詞となった。以来ジュピター神殿が置かれて将軍たちが神にまみえる場所となった。
その隣のパラティーノというも英語で言うパレスの語源だし、カピトリーノはキャピタルの語源である。ワシントンの議事堂が置かれているCapital Hillとは、「カピトリーノの丘」そのままである。そしていまも、統一イタリアの象徴である巨大な大理石の宮殿が丘の上に作られて、威容を保っている。
![]()
ローマ帝国時代の宮殿を意識して作られたこの建物は、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世宮と呼ばれている。ウソ。街の人々はそんな面倒くさい名前で呼ばずに、「ウェディング・ケーキ」あるいは「タイプライター」と呼んで揶揄している。確かに言われてみればそう見える。名古屋城を模した愛知県庁ほどに、この手の建築物は醜悪だ、ということか。
とはいえ、1861年に統一イタリアを完成させた偉大なるサルディニア王を称えるための建築物である。堂の正面には、青銅製のエマヌエーレ騎馬像が堂々と聳え、目の前のヴィットリーオ広場、さらにはその裾に広がるヴェネツィア広場を見下ろしている。ナショナリズムというのは、力が入っている。
イギリスやフランスのように、長い時間をかけてナショナリズム(この場合「国民意識」とでも呼ぼうか)を形成してきた国と違って、イタリアやドイツ、それに日本は1870年代に、「国家を形成しなければ立ち遅れて負けてしまう」という外圧に近い危機意識のなかでナショナリズムを半ば強引に形成した。日本はつい百数十年前まで、「日本」とか、「ドイツ」とか、まして「イタリア」なんて国が存在していなかったということにほんとうは驚くべきなのだろう。
強引にナショナリズムを形成するためには、虚仮脅し的な装置が必要になるが、イタリアの場合はとりわけ地方意識が強く、それぞれの地方が国家としての体をなし、それぞれにヨーロッパの強国と交渉として生き残りを模索していた。ヴェネツィア王国、トリノ公国、ジェノヴァ公国、ミラノ公国、フィレンツェ公国、サルディニア王国、シチリア王国、ナポリ王国、教皇領。それぞれの国はいまでも風土も違い、方言も強烈で、料理の味も違う。イタリアでのサッカー人気は、ただサッカーが好きだというだけでは片付けられない。かつてマラドーナがいたナポリはナポリ王国の栄光を背負っているし、ユヴェントスのカラーはトリノ公国の何がしかを表象している。その多様性こそが、イタリアという国家の魅力なのだが、それはローマのみでは語れない。いまは、いささか気負いすぎた白亜の大宮殿と時代がかった騎馬像に、ナショナリズムというものの不思議さを見るばかりである。
ちなみに、丘の上にはカピトリーノ美術館がある。ここには有名な像がふたつある。ひとつは、雌狼の乳を飲むロムルスとレムス兄弟の像。ロムルスとレムスは建国神話に出てくる英雄である。そしてもうひとつは、かつてこの丘の上に燦然と威光を輝かせていた、哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝騎馬像である。青銅製のこの騎馬像はミケランジェロによって作られたたいそう美しいものだが、19世紀に入って傷みが激しいために撤去され館内に収められた。傷みが激しいというのは表向きの理由で、ヴィットーリオ・エマヌエーレの騎馬像を丘上に飾るのに邪魔になったのである。そして、ミケランジェロが作った実物と比べると明らかに落ちるレプリカがいまは屋外に置かれている。
館内は撮影禁止だったので、そのできの悪いレプリカのほうだけでもごらんいただこう。
![]()
カピトリーノの丘のふもとに、ひときわ高い塔がある。かつてこの一帯は、皇帝たちのフォロの中でもとびきり豪勢だったトラヤヌス帝のフォロがあったところだ。ご存知の通り、トラヤヌス帝はローマ帝国全盛時代といわれた五賢帝のひとりで、彼の時代、その領土は北はブリタニア(今のイングランド)、南はエチオピア、東はダキア(今のハンガリー)、メソポタミア(今のイラク)にまで及び、ペルシャ湾までを遠望していた。かつてペルシャ湾に臨んだヨーロッパ人は、アレクサンドロス大王とトラヤヌス帝だけである。え?いまの湾岸に展開するアメリカもそうだって?そういうシニカルなことは言わないで。
したがって、トラヤヌス帝のフォロは、ヨーロッパからアフリカ、アジアにわたる領土から集められた金銀財宝美術品で満たされ、ローマの栄光を象徴する存在だった。その威光はトラヤヌスの時代から遥かに下ったゴート族をも圧倒したが、やがて金品は奪われ、建物は破壊された。いまその名残を残すのが、このトラヤヌス帝の記念柱である。
記念柱の内部は螺旋状の階段になっていて、帝がダキアでおさめた戦勝の様子がレリーフになって刻まれている。そして頂上には、大理石製のトラヤヌス帝像が安置されていた、が、16世紀の反宗教改革のうねりの中でトラヤヌス帝像は撤去され、代わりに青銅製の聖ペテロ像が置かれて今にいたる。このペテロ像を鋳造するために、サン・ピエトロ大聖堂の銅製の扉を外したというのだから、ローマ帝国の威光を受け継ごうとした教会の心意気が知れよう。
ときに上の写真は、トラヤヌス帝記念柱の近くにあった、マンホールの蓋。「トマソン」みたいな写真だが、SPQRの4文字が見えるだろうか。これは共和制ローマ時代から使われてきた略語で、ラテン語でSenatus Populusque Romanus、元老院と人民のローマという意味だそうだ。この4文字はローマ市のいたるところにあふれている。ほんとにこだわりが強い。
もっとも、口の悪いイギリス人はこれをからかって、Small Profit and Quick Returns=薄利多売の略語だ、と言い始めた。まったくしょうもない話だ。
カンピドーリオの宮殿と噴水が広がる広場から坂を下って、いちばん下まで下ると、そこがヴェネツィア広場である。噴水を中心にサークル状になった広場は、花も咲き、人も多く大変にぎやかである。映画館や劇場などもこの近辺に集まっている。
名前の由来になったのは、このヴェネツィア宮殿である。ヴェネツィア出身の枢機卿やローマ大使の在外公館として使われたのでこの名がある。何度かこの旅行記でも触れているが、カール5世による「ローマの劫掠」でローマ市街の建物は軒並み破壊されたが、この宮殿はその被害をかろうじて免れたもののひとつであった。そのため、再建されたバロック風の街並みの中に初期ルネサンス風のこの建物がぽつんと立っているとどこか違和感がある。20世紀に入って生まれた我々にとっては、ムッソリーニがここを居館としたことが、映像として記憶に残っている。
この日の晩のことになるが、ヴェネツィア広場のリストランテでたいへんにうまいものを食った後、映画館に入った。馬鹿馬鹿しいが、「グラディエーター」をやっていた。しかし侮るなかれ、イタリア語吹き替えである。イタリア語吹き替えで聞くとちょっと雰囲気が出るのは気のせいか、と隣に座った大学生と思しき若いお兄さんに聞いてみると、しかしオージーが主役やってるんじゃなあ、というご意見であった。ごもっとも。
このヴェネツィア広場から今度は90度折れて坂を登ると、共和国広場にたどり着く。共和国広場には日本人団体観光客のおじちゃんおばちゃんたちがたくさんいる。理由は、この広場にローマ三越があるからだ。石造りの建物の風情の中に真っ赤な、丸に越の字の三越マークがあるのは何とも異様だ。おまけにヴェネツィア広場で、いかにも団体旅行できました海外旅行は初めてです、という感じのおばちゃんに「すいません、三越どこですか?」と日本語で話しかけられたのには参った。旅の途中ぐらい、もうちょっと雰囲気を楽しもうよ。