第63回 オランダ・イタリア紀行 Vol.21

さて、今日(3月8日)はヴァチカンを再訪することにしたい。サン・ピエトロとヴァチカン美術館を同時に見ることなどどだい不可能なのである。

ヴァチカン美術館入り口

 

 確認だが、われわれ一般人が立ち入ることができるヴァチカンの領土は、サン・ピエトロ大聖堂とヴァチカン美術館である。ヴァチカン美術館に行くためには、表玄関の大聖堂からぐるっと城壁を回りこんでいかなければならない。この城壁はなかなか見事なもので、教皇庁を各国の軍勢から守ってきた歴史を持っている。そして、サン・ピエトロ寺院のほぼ対角にヴァチカン美術館の入り口がある。ヴァチカン美術館は、歴代教皇がヴァチカン宮殿に長い時間をかけて集積したコレクションを展示している。だが、圧巻はやはりローマに芸術が花開いたルネサンス・バロック期の絵画芸術である。そのひとつが、ヴァチカン美術館の観覧コースを進んでいったところにあるシスティナ礼拝堂になるのだが、これについてはすでに触れた。今日はそれ以外の美術について語ることになる。
 混雑するだろうと思って朝8時に宿を出て、地下鉄に乗って出かけたというのに、すでに世界中からの観光客が長い行列を作っていた。

 入るとまず、彫刻が宮殿風のガレリアのなかに展示されている。もっとも有名なのは下のラオコーンの像であろう。

 ストーリーは、トロイ城攻防戦である。トロイの神官だったラオコーンは、木馬が策略であることを見抜き、木馬を城内に入れないように主張する。しかし、衆議で敗れたラオコーンは、神の怒りにも触れ、大蛇によって二人の息子もろとも絞め殺されてしまう、という話である。
 16世紀、ルネサンスさなかのローマで発掘されたこの像は、その秀逸な肉体表現から芸術家たちの注目を集めた。ミケランジェロも発掘現場まで足を運んでつぶさに観察していたという。ルネサンスが、ギリシア=ローマ文化の「文芸復興」であったという証人である。
 ちなみにこの像、右手がない。右手は折れていたのだが、この像を展示するときに「完全無欠」を好んだ展示者の意向によって、想像の右手が足されていた。ところが19世紀になって、どうやらラオコーンの右手と思しきものが発掘された。もちろん、想像の代物とぜんぜん違っていたので、恥ずかしながら右手を外すことになったという。その、想像の右手はいまも台座の裏につけられている。

 長くて天井の高い廊下には、歴代教皇が礼拝堂に飾ってきたタペストリーが展示されている。どれもこれも劇的な宗教画なのだが、それを抜けると、宮殿に到達する。宮殿の壁や天井を美しい絵で飾っているのは、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともにルネサンス絵画を代表する画家、ラファエロだ。

 ラファエロは1483年に生まれた。幼いときから画家の父の手ほどきを受けてウルビーノの宮殿に出入りし、二十歳を過ぎたころにはフィレンツェへと移る。当時のフィレンツェはメディチ家とともに繁栄の絶頂にあり、ダ・ヴィンチもミケランジェロも当然ここにいた。
 若きラファエロは、とりわけダ・ヴィンチの三角法、遠近法、油彩による細密描写、ぼかしなどの新しい技術を貪欲に吸収して、ここで基本的な技術を確立する。ラファエロがルネサンス後期に生まれ、「学ぶ」人であったことに注意してほしい。
 一方で当時、ウルビーノ出身で卓越した建築家の名声が高かったブラマンテが、教皇ユリウス2世の命を受けてヴァチカン再建計画に取り掛かっていた。その後ミケランジェロが意匠を加えたためにブラマンテの名はあまり有名ではないが、サン・ピエトロ大聖堂の最初の建築主任でもあったのである。
 このブラマンテが、新しいヴァチカン宮殿の装飾のために、教皇に若き才能ある画家を推薦したのである。こうしてラファエロはローマにやってきた。弱冠27歳だったが、すでにその技術は、フィレンツェ時代の絵を見る限り卓越している。

 1509年、ラファエロはヴァチカン宮殿の絵画制作に取り掛かる。まったく同時期に、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井に「天地創造」を描いていた。ラファエロはこれをどうしても見たいと思ったが、ヴァチカンの奥の院である礼拝堂には教皇の許可なしには入れない。あるとき、制作が進まないのにいらだった教皇ユリウス2世が天井付近の足場の上にいるミケランジェロを罵倒し、怒ったミケランジェロがサボタージュをして、礼拝堂に誰もいないという時間ができた。これを聞いたラファエロは、叱責を覚悟で礼拝堂に忍び込み、ミケランジェロの絵をつぶさに観察したという。
 この話の真偽はともかく、ラファエロの人物表現技術が格段に向上したのは確かだ。それまできわめて不自然なポーズで描くことが多かったのに、ローマに来た翌年には彼の技術は目を見張るほどの上達を示した。
 その結実が、ヴァチカン宮殿「署名の間」にある「アテネの学堂」だ。

 アテネの学堂は、ルネサンスの精神を絵にしたものである。ラファエロの才賢ぶりが伺える絵だ。

 よく引用される中央の二人は、左がプラトン、右がアリストテレスである。プラトンは右手で天を指差し彼の「イデア論」を唱え、アリストテレスは右手を水平に伸ばし、観察と実践を中核とする彼の哲学を語っている。
 写真ではよく見えないがプラトンの左にいて対話を試みているのがソクラテス、写真左端の人の輪の中央にいるのがピタゴラス。階段の手前で肩肘をついたヘラクレイトスは、プラトンとアリストテレスの会話を耳から遠ざけようとしているかのようである。ぎりぎり入っていないが、写真右下の人の輪の中核にいるのはユークリッドである。
 ルネサンスのヨーロッパ人たちがあこがれた、古代ギリシアの賢人たちが一堂に会した夢の学堂を、ラファエロは高い技術を使って嫌味なく描いた。

 さらにラファエロは、同時代の芸術家たちをモデルに模した。白髯をたくわえたプラトンがダ・ヴィンチであり、縮れ毛のアリストテレスがミケランジェロであることは容易にみてとれる。
 写真には映っていないが、この写真の右側にラファエロ自身と思われる人物も描かれている。ラファエロは、学堂の隅っこで、ダ・ヴィンチとミケランジェロの議論を聞いているのである。
 先人たちの技術をたちまち習得し、自らのものにしていったラファエロ。いかにも彼らしい、学堂への登場であった。完成したとき、まだ30歳前だった。

ダ・ヴィンチは自らの才能を街に認められず、失意のうちにローマを去った。
 ミケランジェロは、ユリウス2世をはじめとする教皇たちと激しく衝突し、みずからの信念を譲ることをしなかった。

 二人に比べて、ラファエロは人懐っこい性格で愛された。若き日の彼の肖像画が残っているが、洒脱な青年、という印象である。男前で、女性にも大人気だったらしい。酒を愛し、女性を愛し、幾多の女性遍歴を重ねた。そのロマンチックな人生はときどきの作品に陰影を投じており、彼の人気が今になっても落ちない理由のひとつである。その証左となる、あまりにも美しい女性の肖像画をご紹介しておこう。

ラファエロのモナリザと讃えられる「ヴェールの女(ラ・ヴェラータ)」。これはフィレンツェにあるもので、ローマにあるものではない。なぜ紹介するかというと、幸いなことに今年の春、この絵は日本に来ていたのだ。4月に上野の西洋美術館で、僕は幸運にもこの絵を見ることができた。ふくよかな体躯と美しい面立ち、かすかに愁いを帯びた目。彼が「モナリザ」を意識しながら描いたのは当然としても、その顔、白い服装など、色彩の表現をほぼ自在に使いこなした、ラファエロの完成された才能を思わせる。
 これを描いたとき、ローマ教皇に愛される売れっ子画家となっていたラファエロは33歳。巨大な工房を保証され、多くの弟子たちを抱えるという、ダ・ヴィンチともミケランジェロとも異なる道を歩き始めていたラファエロは、その芸術家人生の絶頂を迎えていた。ただし、彼にはあと4年しか時間が残されていなかった。それを彼が知っていたのかどうか。

 ラファエロは「アテネの学堂」の後、ダ・ヴィンチもミケランジェロも去ったローマで画家としての名声をほしいままにしていた。そして、多くの弟子たちを使いながら作品を量産しつつ、ヴァチカン宮殿の完成に勤しんでいた。回廊を52シーンに分け、ミケランジェロ同様に、旧約聖書のアダムとイヴから「最後の晩餐」に至るまでの物語を描いた。この時期の作品も、ヴァチカンに残されている。

 彼が愛した「聖母子」のモチーフを描いた、「フォリーニョの聖母子」。背景の美しい風景はラファエロ晩年の特徴である。端正な人物表現はさらにやわらかさを増し、構図は安定的な三角形でまとまっている。ルネサンス絵画のすべての要素がここに入っているといってよい。

 彼の遺作となった、「キリストの変容」。キリストが使徒たちに自らの神性を示すために変容した話で、使徒たちはひれ伏し、慄いている。天上の奇蹟と地上の悲惨という物語の対比を一瞬のうちにまとめ、それを明暗の対比で描いた構図は、次の時代へのイントロダクションとなった。たとえば、この図から神の要素を取り除けば、レンブラントが次第に見えてくる。
 ラファエロはこの絵を制作中に亡くなり、弟子のジュリオ・ロマーノがこれを完成させた。教皇をはじめローマ市がこれを悼み、彼をパンテオンに葬ることを決定した。ラファエロは、おそらく最も愛したであろう街ローマの、もっとも伝統ある建物に埋葬されることになったのである。

パンテオンにあるラファエロの墓

 

 ラファエロが死んだのは1520年4月6日、彼の37歳の誕生日だった。45歳のミケランジェロが、システィナ礼拝堂の天井にむかって寝そべりながら、「天地創造」をようやく完成させようとしていたときだった。

かくして、ヴァチカンには、ミケランジェロとラファエロという二人の作品が相競うように存在することになった。もちろん、ダ・ヴィンチの絵もあるが、ダ・ヴィンチが活躍したのはルネサンスの中心がフィレンツェにあるころだった。ルネサンス文化の中核がローマに移ってきたころダ・ヴィンチはすでに晩年で、ミケランジェロとラファエロが活躍の時機を得たのである。
 しかし二人の活動は対照的だった。ミケランジェロは弟子も取らず、孤独に耐えながら己の信念を守って戦い続けた。ラファエロはそんなミケランジェロの技術を鮮やかに身に付けた。

 ミケランジェロはおそらく、ローマという巨大な物語と戦う自分の信念を、言葉にすることはできなかったであろう。他人に説明することはできなかったであろう。ラファエロだけが、彼が戦うために手にしている武器を見抜き、それが何であるかを知りえたようだ。
 一方、ラファエロはその武器を言葉にしえた。他人に説明することもできただろう。構図とデザインを彼が決め、あとは弟子に指示して色を塗らせた彼の工房のスタイルは、ひとえに、およそ深遠なものを説明可能な形で把握したラファエロの明晰さに由来するように思う。その明晰さを駆使して、ラファエロはローマという巨大な物語の上で華麗に舞ってみせた。そのぶん、早く命を燃焼させてしまったのかもしれない。
 二人とも類稀な才能に恵まれていた。どちらが天才といいたいのではない。ただ、人は何がしかの文化のなかでしか生きられぬ。とすれば、その文化と戦うか、そこで舞うかの選択を迫られる。ミケランジェロは戦った。ラファエロは巧みに舞った。二人は己の天分を存分に燃焼させたかもしれないが、そのためには、やはりローマという強靭な舞台が必要だったのではないだろうか。

 人と物語といずれが勝つものか知らぬ。しかし、ラファエロはその生き様そのままに、ローマでもっとも由緒ある建物・パンテオンの礎石となって、いまもこの街の物語を支えているのである。


 Vol.22へ   オランダ・イタリア紀行トップへ


[PR]話題の《あのゲーム》の世界へ:今なら無料で遊び放題のチャンス中だよ!