

![]()
![]()
![]()
第63回 オランダ・イタリア紀行 Vol.22
ヴァチカンを出て、ローマ市内を歩く。明日にはオランダにいったん戻らなければならないから、ローマの午後を堪能できるのはこれが最後だ。
といいつつ、昼食はヴァチカン美術館内の食堂で済ませてきてしまった。外で食べればよいのは間違いないところだが、面倒くさくなってなかで食べた。キャンティーンみたいな食堂で、もちろん外のリストランテに比べれば話にならないのだが、それでもパスタのトマトソースは絶妙だった。文化とは、かくも人を豊かにする。アムステルダムの国立美術館の食堂で、草としか思えない野菜を食べさせられたのとは雲泥の差である。街を歩く。テヴェレ側沿いを歩き、古い町並みに教会が紛れ込んでいるのを確かめながら歩く。歩くより他にない。なぜならば、町中が長い昼休みに入っているからだ。
イタリアの昼休みは、戦時中、ナチスの空爆を避けるために長い昼休みを取り始めたのが、いつの間にやら労働組合の既得権益となって、ついには全国的に広まったものらしい。そういえば、イタリアは戦後左翼運動の一大根拠地だった。左翼政権も何度も誕生した。グラムシの『獄中ノート』を首っ引きになって読んでいたのはもう10年も前になる。内容もすっかり忘れてしまった。
それはさておき、官公庁はもちろん、一般の商店も、よほど目抜き通りにある店でなければ、午後1時から午後4時ぐらいまでいったんお休み、ということになってしまう。みんな昼寝している。うらやましい。こんなのんびりした国に生まれてみたかった。とはいえ、これだけのんびりしている人々の国と、「働きアリ」と揶揄されるわが国の国債が同等に格付けされているのである。悔しいというか、だったらわが国もみんなサボってしまえばよいのに、などと不届きなことを考えている。
この昼休みのおかげで、ある教会が再開するまで、門前で立ち某けをすることになった。あまり日本人観光客が寄り付かないが、われわれ日本人にとってはたいへん馴染みの深い教会、ジェズ教会である。
たびたびの繰り返しで恐縮だが、16世紀のローマはルネサンス・バロックの文化的な爛熟と、宗教改革に伴う嵐のなかにあった。新教派の勃興を許したかたちのカトリックは、1545年から開かれたトリエント公会議でさまざまな宗教的論点における正統の再確認と綱紀粛正を図り、プロテスタントとの全面対決の姿勢を固めた。その先頭となったのが、若く、純粋な宗教的情熱を抱いた修道士によって結成されたいくつかの修道会で、そのうちのひとつがイグナティウス・ロヨラが1534年に結成したイエズス会、ジェズイット教団である。
その中心が、このジェズ教会だった。写真の下部中央、IHSのジェズ教会の紋章がいまも高々と掲げられている。
ジェズ教会内には、創始者ロヨラの墓がある。今もこの墓の下に彼の遺骸は納められている。
ロヨラは、教皇に忠実に布教をすることを会の目的とした。イエズス会はヨーロッパ各地に学校を作って教育に情熱を注ぎ、カトリックの教義の布教に努めたほか、大航海時代にあわせてスペインとともに南米へわたり、先住民の集落化と、教育のみならず商業、農業、軍事に至るまでの技術を伝えた。
そしてアジアには、ロヨラの朋友であったフランシスコ・ザビエルがやってきた。ザビエルは、スペインのバスク地方・ナバラ王国の王家に生まれたが、王国はのちのスペインとなるカスティリヤに滅ぼされた。余談だが、いまもバスクの人たちはスペインに対して独立を試みているが、その淵源はここにある。
やがてロヨラに出会い、イエズス会の創設メンバーとなる。1541年から48年まで、教皇使節の資格でインドのゴアを拠点にインドに布教を展開、大成功を収めた。このなかで、ひとりの日本人と出会い日本への宣教を決意、1549年から2年余りにわたって布教し、1000人の信徒を導いたという。このあと、中国布教を考えていたが発病し、息を引き取った。
ザビエルの遺体はポルトガルに送り返されていたが、1622年、ローマ教会によって聖人とされ、遺骸はインドのゴアの教会に移されていまもある。彼はいまもローマ教会にとっての東洋の守護の聖人、信仰布教の守護者である。ときに、ゴアに遺骸を移すときに、彼の右手の肘から先が切り取られて、このジェズ教会に安置された。上の写真がそれだ。写真ではわからないが、中央の丸いガラスの向こうに、ミイラ化したザビエルの右手が飾られ、いまも信徒を守護している。
![]() |
ジェズ教会はいまも信徒たちが集まる現役の教会なのだが、イエズス会の歩みはそれほど安定的なものではなかった。
ザビエルが布教した日本には、キリスト教は比較的よく広まっていたが、豊臣秀吉による禁教令、そして徳川家光による全面禁教と大弾圧によって、隠れキリシタンを除いて根絶やしにされてしまった。明治以後、再びイエズス会はやってきて上智大学などを作っているが、すでにそのころには布教よりも教育に中心が移っていた。たとえば韓国などに比べて、日本はあまり布教がうまくいかなかった国といえる。最大のマーケットだった中国では、イエズス会は順調に信徒を増やしていた。しかも朝廷に取り入ったイエズス会は、中国国内での独占的布教を認められていたのである。しかし、イエズス会の圧倒的な成功に対する嫉妬が他の修道会に沸き起こることは避けられなかった。しかもイエズス会は、ようやく他の世界を凌駕し始めた西欧文明の技術を運搬する役目も背負っており、彼らの指導的立場は世界の信徒団体において強くなりすぎていた。また、日本のキリシタン大名もそうであったように、ヨーロッパの文物や技術と引き換えに信仰や布教を獲得していた側面は否めない。
やがて他の修道会は連盟で、教皇に、イエズス会の中国布教は教義を枉げていると訴える。イエズス会は中国人に布教するにあたって、儒教の「孝」という概念を、父なる神と信徒の関係を説明するのに使っていたが、他の修道会はこれを捉えて教義を損ねていると訴えたのである。この訴えは認められ、教皇は直々に、「イエズス会の教えは間違っており、今後は他の修道会にも等しく布教させるように」という尊大な手紙を清朝全盛期の皇帝・乾隆帝に送ったのである。これを受け取った乾隆帝の困惑は想像に難くない。わけがわからなくなった乾隆帝はいっそ、とキリスト教を禁教した。
イエズス会の過激な布教はおさまらず、1773年、イエズス会は教皇クレメンス14世によって解散を命じられた。1814年、ピウス7世が再興したときには、イエズス会にはかつての過激さはなく、教育を主眼とする団体に生まれ変わっていた。
いまもイエズス会は、この教会を拠点として、世界中に教育機関を作って、各地の教育の向上に協力している。
最後に、日本人観光客があまり訪れない箇所をもうひとつ。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会がそこである。ここは、サン・ピエトロ聖堂とは別の意味で、ローマにおけるキリスト教の根拠地だ。サン・ピエトロはキリスト教の父であり、ラテラーノは母である、という言い方がされることもある。この聖堂も、ヴァチカン市国の敷地になる。
この教会は、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した後、最初に土地と建物を教皇に寄進したという由緒がある。以来、サン・ピエトロの補完的な役割を負ってきた。800年、教皇レオ3世はクリスマスに、みずからが戴冠した皇帝カールに晩餐室をプレゼントし、元老院たちの住居ともなった。今はない付属の宮殿は1377年まで教皇の公邸ともなった。しかし、ルネサンス期以降は中心がサン・ピエトロにその機能が移ってしまったが、しかし、ローマ司教座はいまもここに置かれている。ムッソリーニと教皇庁が和解した条約を「ラテラーノ協定」というのは、ここで調印が行われたからである。
この教会のすぐ傍に、階段がある。「聖階段」がある。写真はフラッシュを焚けなかったのでぼやけているが、信者が跪いて階段を上っているのがわかるだろうか。これはイエスが、ピラトによる裁判へ向かうときに上った階段で、コンスタンティヌス帝の母親が寄贈したと言われる。これが本当に、イエスが上った階段かどうかははっきりしないが、それでも信徒は、恐れ多いこの階段をいつのまにやら跪いてのぼる習慣が生まれたのである。
それゆえ、この階段の端っこは、石造りながら丸くなってしまっている。信者の膝で削られたのである。いったいどれだけの信徒がこの階段を上ったのだろうか。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ界隈の夕暮れ。この界隈はバザールがあったりして、庶民的な雰囲気だ。そういえば、イタリア共産党もここで生まれたのだっけ。
駅近くにある宿へ帰っているとローマの歌劇場があり、空席があるというので入ってオペラを見物した。「椿姫」であり、小倉に行って「無法松の一生」を見るようなものだが、それを狙って行ったわけではないので仕方がない。また、一応意味を全部把握しているイタリア語歌劇を最後に見るというのも、悪くない選択のように思われる。かくして、ローマ最後の夜はふけた。ホテルに戻り、ルームサービスでワインを飲みながら、疲れた足を伸ばしていた。まだまだいたい街である。
ここ数年は海外に出ると美術品を見るようになっているので、今回はミケランジェロとラファエロ、それに古代ローマの名品を数多く見ることができて幸運だった。思うところも多かった。特に、キリスト教という、この街に普遍に存在している強靭な物語のなかで人々が何気なく生活しているさまは、貫禄をすら感じさせる。皇帝のフォロを遊び場にして育つ子どもたちの中から、やはり特異な感性が生まれてくるように思うのだ。果たして、日本にそれに匹敵するような物語があるのか。当面はない。だがないのは、それを鍛錬してこなかったから、とも言える。なんとかそれを鍛錬して、わが国にも貫禄のある文化をもたらすことができないか。ローマ最後の夜には、そんなことを考えていた。
Vol.23へ
オランダ・イタリア紀行トップへ