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第63回 オランダ・イタリア紀行 Vol.23
ローマとも、お別れである。朝の8時に起きて、そそくさと荷物をまとめて外に出た。この日に限って雨だった。傘はもちろん持っていない。雨といってもどしゃ降りの雨ではないから、何とかなる。
こういうとき、駅に近い宿は本当にありがたい。荷物をごろごろ引っ張って、空港行きのチケット1枚、あとは乗り込んで終点まで寝ているだけである。オランダからイタリアへ来るときはビジネスではなかったよ残念、という話を書いておいたが、イタリアからオランダへ行く飛行機はまたもビジネスであった。ラッキーである。ラッキーはいいが、ここでビジネスに乗る運を使い果たして、オランダから日本へ帰るときにエコノミーだったら悲しい。しかし相当座席運は使い果たしたな、と思いつつ機上の人に。
お隣はオランダ人のおばさんだった。仕事でイタリアに行っていたのだ、という。ワゴンサービスで赤玉ポートワインみたいなひどい味の赤ワインを飲み、ちょっとするとすぐ眠ってしまった。目がさめたときはアルプスを越え、ドイツを越え、スキポール空港は目の前だった。ボーイングの飛行機には最近、国内線も含めて、GPSを使って飛行機がいまどこを飛んでいるかを地図で示すナビゲーターがついている。この画面では運行速度、飛行高度などを数字でみせてくれるのだが、スキポール空港に着いたときには飛行高度が「-2m」であった。さすが、低地の国のことだけはある。
ローマを10時過ぎに飛ぶフライトだったので(実にローマ−アムステルダム間は、KLMだけで一日に4往復も飛んでいる)アムステルダムに到着したのが13時ごろ。空港内のパブでビールを一杯引っ掛け、アムステルダムへ向かう。ハーグの宿に戻るには少し暇がありそうである。
アムステルダムで是非とも訪れようと思っていながら、前回は訪ねそこねたころがある。アンネ・フランク・ハウスだ。
『アンネの日記』を最初に読まされたのは、中学校の教科書であったように思う。アンネの悲劇は十分すぎるほどに悲劇ではあるが、いまだに僕はそれをどのように解釈してよいのかわからないところがある。戦争において個人にふりかかった悲惨とは、何なのか。それを後世のわれわれはどのように捉えたらよいのか、ということだ。トラムを下りて、運河沿いを少しく歩くと、フランク一家が隠れ家として暮らしていた家があり、そこがいまは記念館になっている。隠れ家だから当然スペースは狭い。そこに、ずらりと観光客の列。『アンネの日記』は、世界140カ国で翻訳されているそうであり、それを読んでみなここにやってきているのであろう。
言わずもがなかもしれないが、アンネ・フランクについて。
アンネは1929年、ドイツのフランクフルト・アム・マインで生まれた。もちろん、ユダヤ人である。1933年、ナチスがドイツの政権を握ると、両親と姉とともにアムステルダムに移住した。一般的にユダヤ人への蔑視が強いヨーロッパの中で、アムステルダムは商業都市ということもあって、ユダヤ人に寛容だったのだ。
しかしこれも逃避とはならなかった。1940年5月14日にドイツ軍が西部戦線を開き、オランダ・ベルギーを蹂躙してフランスへと進撃したのである。オランダはロッテルダムが凄まじい爆撃にあって3万人の市民が死亡し、開戦の翌日15日にはオランダ政府は降伏を余儀なくされた。占領地では当然のように、ユダヤ人の摘発が行われた。アメリカへの亡命に失敗したフランク一家は、かつての従業員の協力で、事務所の裏にしつらえた隠れ家に潜んだのである。1942年7月のことだった。まだまだドイツがヨーロッパを制圧していた時期である。この時期に、ナチスの目を逃れる隠れ家生活に入るということはひどく絶望的なことに違いなかった。僕も長い行列に並んで、その隠れ家に入る。運河沿いの正面は事務所になっていて、その事務所の2階の一角にそれほど大きくはない本棚が置かれている。ここが隠れ家への出入り口で、その大きさは日本で言うと「潜り戸」といったイメージである。もちろん、相当に古びていて、角の部分は磨れて丸くなっている。この狭い空間を腰をかがめて最初に入ったときの絶望感は、想像するに余りある。
「潜り戸」の向こうはふつうのリビングルーム程度の広さで、2部屋に8人が暮らしていた。当時の彼女らの暮らしを想像させるものはほとんどなくがらんとしているのは、ナチスとその協力者たちがここを摘発した後、全部持っていってしまったからである。わずかに、アンネがポスター代わりに張ったという新聞の切り抜きだけが忘れられたように残っていた。
隠れ家では、日中はカーテンを開けられず、トイレを含めて水を使えず、物音を立てられずという厳しい日々が続いた、と解説にある。誰かに気づかれてはいけないからだ。
とは言うものの、人間の生活がそれほど粛々としているわけはない。8人もの人たちがここで2年間も隠れ家生活を送ることができたのは、それを支えるオランダ人たちの献身と、オランダ社会のユダヤ人への寛容な価値観、それに、他人の家の状態や行動にあまり口を差し挟まないこの国の生活文化があったからだと思う。
壁の汚れ、戸の磨り減り方に、50年以上の歳月を経て紛れもなく、彼女がここで生活していたことの証はある。時と場合が異なれば、僕にも悲劇的な境遇が襲ってくるかもしれないという想像力が共感を呼び起こす。いやむしろ、想像力だけが頼りなのだ。アンネの隠れ家にゲシュタポが踏み込んだのは、1944年8月のことである。すでに同年6月、連合軍はフランス・ノルマンディー半島海岸に上陸し、まもなくパリをナチスの支配から解放しようとしていた。その一条の光のような情報を彼らは知っていたのかどうか。知っていたとすれば、なおさら悲惨である。
アンネは、自分たちが発見されたときの日のことすら、健気にも日記に記している。その強さは、幼さから来るものなのか、彼女が持っていたものなのか。アンネが生き延びて希望通りジャーナリストとなり、自らが記した日々のことを回想するとすればどのようなことを書いたであろう、などとつまらぬ夢想をしながら、記念館というにはあまりにも小さな隠れ家を後にした。その後のことは周知のとおりである。アンネはベンゲル・ベンゼンの強制収容所に送られた。初期の収容所には存在していたわずかばかりの、寛容さと呼ぶにはあまりにも厳しい規律すら、この時期の収容所には存在しなかった。ただただ、ナチス帝国崩壊の前に、彼らが「ユダヤ人問題」と呼ぶところの問題を「最終的解決」すべく日々努力が続けられていた。そんな状況で幼いアンネが生きていけるはずもなく、収容所に入って1年と経たないうちにチフスに感染して死亡した。
幸い、父オットーがアウシュビッツ収容所で生き残っていたところをソ連軍に解放され、命ながらえた。戦後、このオットーの手にアンネの日記が渡されたのである。それにしてもアンネの手記は、いろんなことを考えさせる。
アンネの手記は、決して悲惨ではない。むろん彼女の状況は筆舌に尽くしがたい苦痛の中にあるが、彼女のまだ幼い精神はそれを希望のうちに捉える柔軟さを持っているし、それが文面にも表れている。だからこそ、彼女が置かれた状況と思い合わせることで、より悲惨さを伝える、とも言える。
だが、個人の悲惨な戦闘体験が、いかにして普遍的な価値へと昇華されるかという、「戦争」に人々が立ち向かうための論理的試練を思い合わせると、彼女のあまりに希望的で素直な(むろん、そこには彼女の死というもっとも悲劇的な要素が含まれてはいないからであるが)文面は、昇華する力強さをもたない。
たとえば、この『アンネの日記』の最初の出版は1947年である。実に早い。それはもちろん、戦争の悲惨さ、戦時中にヨーロッパのユダヤ人たちが置かれた状況の酷さを伝えるためではあったろうが、果たして1947年にそのように読まれたのだろうか。実証的な取材をしたわけではないが、1947年といえば、まだ、ナチスの巨大な計画の全貌を世界が把握しきれず、それゆえに慄いていた時期である。そこに登場した彼女の正直かつ純真な手記は、むしろ清涼剤を得るかのように人々の心理に浸透していったことだろう。つまり、彼女の手記は宗教的なのだ。人類が、というと大袈裟であるが、人間が生きることへの希望として、彼女の手記は成立している。だが人が生きる希望が、彼女が置かれたような残酷な状況においてもっとも光り輝く(事実そのようなことはよくあるのだが)のであれば、それは宗教的な救いにはなるとしても、反戦への意志とは直接つながらない。そこに、戦争と戦う困難さがある。
そのような困難を彼女の手記と、紛れもなく彼女が生活した隠れ家の跡に見ながら僕は、自由と混沌をあえて前面に押し出したかのように賑わうアムステルダムの町を歩きつつ、非常に混乱していたのである。
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