

![]()
![]()
![]()
第71回 オランダ・イタリア紀行 Vol.24
3月10日である。いつの間にやら、ヨーロッパに来てから一週間以上が経っている。
ほんとは今日帰国便に乗りたかったのだが、空席がないために、イタリアからオランダに帰ってきてまる一日時間ができてしまった。まあ時間があれば、それはそれでやることも行く場所も見つかるから悪いことではない。お金がかかるのは困ったものだけれども、旅先でけちっても仕方がない。たとえばオランダで、さらにもう一日あったならば、長崎出身の僕としてはシーボルトゆかりのライデン大学構内を散策したり、デルフトの陶器工房を見に行ったりしただろう。あるいは、誰も知らないが、長崎市と姉妹都市でもあるゼーラント州のミデルブルフにまで足を伸ばしたかもしれない。
ただ、僕に残された存分な時間は今日一日なのである。優先順位の高いもののうち、行き損ねたところを訪ねておかなければならない。ハーグの住宅街にあるフリック邸の宿を出たのが午前8時。ハーグは寒かった。氷点下3度である。
そうだ。スヘフェニンゲンは見たけれども、ハーグの紹介をあまりしていなかった。
ハーグは人口70万、オランダではアムステルダム、ロッテルダムに次ぐ第三の都市である。以下のことは前述したかもしれないが、この街にはベアトリクス女王が住まわれる王宮、最高裁、国会などがあり、事実上の首都といってもよい。
さらにここには、第一次世界大戦のあとの国際連盟から生き残っている国際機関、ICJ(国際司法裁判所)がある。ICJの建物は平和宮と呼ばれていて、第一次世界大戦のあとカーネギーの寄付で作られた。なかを見学することもできるが、今回は公開時間と僕の予定が合わないのでパスした。ICJが置かれていることからもわかるように、この街は古くから国際条約の締結地として、また国際機関の街として知られてきた。第一次世界大戦前夜には二度にわたって万国平和会議が開催された。ただそれが崇高な理想を掲げつつ、実は虚々実々の国際関係の舞台であることは当然だ。
特に1907年の第二回平和会議では、その崇高な理想に自国の独立維持へわずかな期待をかけた李朝国王高宗が密使を会議に派遣し、日本による朝鮮保護国化は無効であると訴えたが、帝国列強の権益保持を当然の前提とした平和会議から冷たくあしらわれるという事件があった。日本はこれを機に朝鮮軍の解散を命じ併合への大きな一歩を踏み出したのである。そのとき、高宗の密使による決死の嘆願を無視した西欧東欧の国々が、40年後には日本に「ハーグ平和条約違反」の罪を着せたのだから、国際関係とはちゃんちゃらおかしいものだ。僕のナショナリスト的な憤慨はさておき、いまもこの街にはたくさんの国際機関がある。EUの主要機関のひとつ、欧州警察の本部はここだ。それから最近目立っているところでは、化学兵器禁止条約の本部もある。むろん、ミロシェビッチを裁きつつある旧ユーゴ国際刑事裁判所もある。友人のひとりがそこで働いているのは前述したとおりだ。
そうした機関の重要性を否定するつもりはさらさらないが、しかし、以上のことを考えれば、市民がどうやら高学歴・高収入・かつ国際的な人々であることは想像がつくだろう。実際この街を歩いていると、そうしたスノビッシュな香りは否定しえない。もちろん、スノビッシュな街にはスノビッシュな街なりにいいところがある。この国が、スペインからの独立戦争に立ち上がって以来の首都でありながら、大都市にありがちな、たとえばアムステルダムのような猥雑さからは逃れえているのは、そうした風情を意図的に作り上げてきたことの証でもあろう。
スノビストの私としては、こういう空気はくすぐったいけど、気に入っている。
そんなハーグの街をトラムで走る。行くところもある。土産も買わなければならない。結構忙しい。
町の中心部に来ると、13世紀以来の歴史を誇るビネンホフがある。ビネンホフとは内城、という意味だ。
手前の掘割は「ホーフフィファー(と発音するのだろうか?オランダ語の発音は難しい)」と呼ばれ、いわばハーグ城の内堀である。むろん、現在では堀というよりは池だが、氷点下の街に日の光を照り返す水を湛えているのが何とも心地よい。池の向こうのビネンホフには、総理府、外務省などの官公庁が並んでいる。
この写真の突き当たりに、今日の最大の目的地・マウリッツハウス美術館がある。
![]()
オランダ国旗を高々と掲げる、マウリッツハウス美術館。
僕の尋常ならざる大きな期待とは裏腹に、建物は大変こじんまりとしている。この建物はその名のとおり、マウリッツ伯の住宅を美術館として使っているだけなのだ。外から見ていれば、たとえば、すぐ近くにある王宮・ハウステンボスのほうが建物としては立派である。しかし、僕の期待はしぼむことがない。アムステルダムに比べると品数では負けるが、質では劣ることのない作品がこの建物に入っているのである。いわば、玉手箱だ。
午前11時の開館より、30分も早く到着してしまった。白い息を吐きながら、扉の前で待つ。
定刻きっかりに扉が開いた。建物の中は、木の壁と柱である。真っ赤な絨緞が敷き詰めてあるのと調和して、大変暖かい雰囲気だ。早く絵が見たくて、階段を昇る足が急ぐ。
この美術館には、オランダが誇る二人の画家、レンブラントとフェルメールの珠玉の名品が多数収められているのだ。もちろんルーベンスを忘れているわけではないが、いまのところ僕のブーム(といってもここ数年)の二人について、書いていきたい。
なぜこの二人に惹かれているかといえば、彼らの絵に、自分が生きている時代を考えるヒントがあるのではないか、と思っているからだ。
レンブラントもフェルメールも、人物を捉えた絵が圧倒的に多い。静物画はほとんどない。だけど、そこに出てくる人物はみなそれまでの人たちとは違う顔をしている。「栄光の17世紀」にあって、他に隔絶した繁栄を誇った商業国家オランダの、他の国々に先駆けて近代を迎えたこの国の人々の顔は、われわれが今も生きている「近代」という時代の先駆けでもあった。
その先駆けた人々をどのように絵として捉えたのか。二人の画家に僕が関心を持つテーマはそこにある。むろん、最終的には、自分が生きている時代の全体像を少しでも把握したい、という知的欲求がある。二人は好対照である。
レンブラントの絵は、びっくりするほどのコントラストをつける。フェルメールの絵にはその毒々しさがない。もちろん、アムステルダムという商業都市のど真ん中で華々しく活躍したレンブラントと、デルフトという片田舎の町で余技まがいに数少ない作品を残し、その真価も19世紀に入ってようやく発見されたフェルメールの違いということもできる。
それにしても画風が圧倒的に違う。
レンブラントは「光と影の画家」と呼ばれる。フェルメールは「光の画家」と呼ばれている。レンブラントの光が禍々しい力強いものであるのに対して、フェルメールのそれは暖かく、構図に遍在している。アムステルダムの国立美術館のところでも述べたが、これは光の扱い方に違いがある。そしてそのことは、時代の把握の仕方に関わってくるのだが、ちょっと長くなりそうなので、次回にじっくり述べることにする。
Vol.25へ
オランダ・イタリア紀行トップへ