
![]()
![]()
![]()
第12回 オランダ・イタリア紀行 Vol.3
離陸するなり、機中で本を読み始める。長らく積読になっていた、ロラン=バルトの本だ。
記号らしくない記号が必要なのだ。小説や新聞を開き、テレビをつけるという行為は、いかにも身近で無造作なものだが、しかし、このささやかな行為がその後に必要になる物語コードをわれわれのうちに一挙に漏れなく備えさせる。
ふむ。さらに、村上春樹の『ねじ巻鳥クロニクル』をさらに文庫本で持っていく。読み終わったら捨ててしまおうという魂胆だ。
私があなたにお伝えしたかったのは、私のほんとうの一生というのは、おそらく、あの外蒙古の砂漠にある深い井戸のなかで終わってしまったのだろうということなのです。…そしておそらく私は、そのときに感じたように、あの光のなかで消え入るがごとくすっと死んでしまうべきだったのです。
ふむ。いろいろ考えるところはあるが、この稿は文芸評論ではないので、このあたりにしておきましょう。そして同時に、オランダについての本を3冊ぐらい買ったので読む。いちばん役に立ったのはクセジュ文庫にあったオランダ史の本と、司馬遼太郎の街道を行くシリーズの『オランダ紀行』であったが、その内容も含めつつ、オランダの紹介を。
オランダが歴史上に登場するのは、紀元前1世紀、カエサルの『ガリア戦記』のなかだ。ガリア征服の将軍として名をはせたカエサルは、当然、ライン川の向こうのゲルマン人とも何度か戦い、ケルンなどの植民市をつくったのだが、そのなかに「低地ゲルマニア」という地名が登場する。こここそ、後のオランダであり、ベルギーだ。
低地、というのは、いまのドイツが「高地ゲルマニア」と呼ばれていたことの対称である。低地とはいうもののつまりは湿地で、資源はない、農業はできない、材木もなければ石炭もない、何より、ヨーロッパでは家を作る基本である石がないというひどい状況だ。当時の人々は湿地で、あるいは舟で北海に漕ぎ出して魚を獲って暮らしていたようである。
文明国家であるローマは、当然、その暮らしを蔑視している。かつて『魏志倭人伝』で、水に潜って魚を獲って暮らすわれわれの先祖であるところの倭人をあきれ果てて描写したように。しかしオランダ人は、実に根気強く干拓を続け、そして排水と水運のための運河を作りつづけ、次第に耕地と生活のための土地を獲得していく。
彼らの財産は、中世に入ってしばらくの間、ニシンだった。北海で獲れるニシンは、食い物が圧倒的にまずいオランダ料理の中にあって唯一まともな味のする食い物だが、まずはこのニシンが初期のオランダを支えたのだ。
ヴァイキングに負けないように海へ漕ぎ出したオランダ人のことを陸上に住むヨーロッパ人は『ゼーゴイセン(海の乞食)』と呼んでからかい、後には高地ゲルマニア出身の大作曲家に“Der fliegende Hollander(さまよえるオランダ人)”というオランダ人船長の幽霊話オペラを書かせるにいたるのだが、オランダ人たち自身が特にそのことを気に病んだ形跡はない。それもそのはず、彼らは『ゼーゴイセン』であったからこそ、海運と貿易を次第に一手に握るようになるのだ。
13世紀にフランドル地方の毛織物が交易商品の中心となると彼らの力は一挙に高まり、1437年、高地ゲルマニアの「陸上」商業組織ハンザ同盟と戦って勝利を収め、以後、バルト海から大西洋に至るまでの貿易を手中に収めた。
このころから、オランダ人気質が形成されてきたのだろうか。つまり、ナショナリスティックではないことはないが、しかし、貿易をやっているせいかそのナショナリズムに気負いがない。外国語を非常に上手に話す。司馬遼太郎さんの表現を借りれば、「よそ行きの外套に着替えるように外国語を使う」というわけだ。それが当然であるかのように。
そして、徹底した自由主義であること。商業都市は当然のように独立した個人を要求し、貨幣経済は個人の匿名性を高める。つまり、商業倫理に反しないかぎり何をやってもよいのだ、という、いまでは至極当然の価値観を最初に育んだのはまず間違いなく、オランダだったろう。相手がどこの国で、どの宗教で、どういう家であろうと、(悪く言えば金さえあれば)OKなのである。
嘘みたいな話だが、後にオランダがイギリスと戦争をしたときに、オランダに輸入される物資を買い占めて大儲けをしたオランダ人の商人がいたらしい。彼は当然議会で糾弾されたが、彼は「何をやっても自由、というのがこの国の倫理ではないのか」と開き直ったという。
オランダ人は、どの国とも気負いなく貿易ができたし、オランダという母国に縛られることなくどこへでも出かけることができた。そしてそれゆえに、他のヨーロッパ諸国からやや差別的な眼差しを浴びせられてきた。
だがそんなオランダだからこそ、歴史上生み出したものも多かった。フランス生まれのデカルトはオランダに来たとき、人はいかに自分が育った環境の因習にとらわれているのかを知って「方法」を模索することを考えたし、スピノザは自分が属する共同体であるユダヤ教会から破門されても、アムステルダムなら思索を続けることができた。そして何よりそんな彼らだからこそ、クールな価値観とともにはるばる日本までやってきたのだ。
ちなみに僕はそのとき、ユルンという名の、大学時代の留学生の友人のことを思い出していた。彼はライデン大学の学生で、長崎のハウステンボスにあるライデン大学日本学科に留学、そのまま東京へと移り住んでいた。彼と遊んだのは大学5年生の冬で、確かあの年のトヨタカップはアヤックスが優勝して彼が大騒ぎしていたことを思い出す。
彼のいちばん印象的なことは、語学の達者さだ。別に教科書的な語学ではない。彼が持っている日本語のヴォキャブラリーは非常に少ないのだが、その少ないボキャブラリーを巧みに組み合わせてコミュニケーションを成立させてしまう。その才には恐れ入った。古のオランダ人も、このようにして世界中に出ていったのだろうか、と思わせた。
そんなオランダが国として独立を志向することになる。16世紀、ハプスブルク家の当主として英仏をのぞくヨーロッパの大半を支配した神聖ローマ皇帝カール5世の領土だった低地地方(ネーデルラント)は、王位継承のとき、オーストリアのハプスブルク皇帝家ではく、スペインのハプスブルク王家の領土となった。国王は熱烈なカトリック信者だったフェリペ2世。反宗教改革の時代、当時世界最強の軍事力をもって異端弾圧に燃える王の統治下で、新教国オランダは受難の時代を迎えることになる。
何せ、教会に出ず自宅で聖書を読んでいるだけで異端として処刑されたというのだ。聖書の解釈を個々人で行う新教と違い、旧教は教会の僧侶が語る解釈が絶対であり、個人による解釈など許されなかったのだ。あまりの弾圧に耐えかねたオランダ人は、カール5世時代にネーデルラント総督だったオラニエ公ウィレムが立ち、スペインへの抵抗戦争を始めたのが1568年。八十年戦争、と呼ばれる長い長い戦いが始まった。このとき、独立軍の士気を高めるために歌われた「ウィルヘルムス」が現在のオランダ国歌。
しかし、オランダ軍はしょせん民兵。愛国心のかけらもない商人たちも数多くいる。世界最強のスペイン軍に連戦連敗、1584年にはウィレムが暗殺されてしまう。そして身も蓋もない決定をする。オランダの主権を譲り渡す代わりに、イギリスの支援を要請したのだ。ときのイギリス女王エリザベス1世は1585年、議会の反対を押し切ってオランダ支援を決定。そしてこのときまで世界史の表舞台に立つことがなかった島国・イギリスはスペインとの全面戦争に突入する。
1588年、スペインの無敵艦隊を英蘭海軍の連合軍が撃破したことで戦局は一変、1597年にはウィレムの息子マウリッツ率いる独立軍がネーデルラントからスペイン軍を追い出し、事実上の独立を獲得する。独立が公式に認められるのは、1648年のウエストファリア条約においてであった。このとき、ユトレヒト同盟に加わった北部7州がネーデルラント共和国として、そして南部10州はスペイン領ネーデルラントとして確定したのだ。
17世紀に入ると、それまで世界に広大な植民地を所有していたスペインと、新興国イギリスが世界各地で軍事衝突を繰り返し、覇権が交代しようとしていた。この間、オランダの商人たちは両国に大量の資金を融通、さらに戦争がおこるたびに世界各地に商品を売りさばき、オランダは「栄光の17世紀」と呼ばれる空前の商業的繁栄を謳歌することになる。
北海のニシン、東南アジアの香辛料、大西洋の奴隷、バルト海からの穀物や造船材料はすべてオランダ経由で西ヨーロッパに輸入され、文字通り世界の金融がアムステルダムに集まり、世界史で初めて貿易立国としての繁栄を勝ち取ったのである。アムステルダムのみならず、デルフト、ロッテルダムといった地方都市も繁栄を謳歌した。スピノザ、デカルト、レンブラント、グロティウスらが活躍したのもこの時期だ。オランダ史が経済学的にも注目されるのは、この17世紀の繁栄があったからこそ、である。
しかし、17世紀半ばになると世界的にイギリスの軍事的覇権が確立し、イギリスは続いて経済的な覇権をかけてオランダを挑発してきた。世界史の教科書でも出てくる航海条例(1651年)が出され、オランダはイギリス領での商業活動を禁止されてしまう。
そして翌年から二度にわたってイギリスと戦争をする。だが信じがたいことに、オランダのブルジョワたちは経済的繁栄のなかでオラニエ公家による総督を廃止し、経済的自由を極限まで推し進め、この時点では国家機構と呼べるものをもっていなかったのだ。当然、イギリスに圧倒的な敗北を喫したオランダは、開発したばかりの北米植民地を譲り渡し、世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンへと移っていった…。
栄光の17世紀を失ったこの国にふたたび一体感をもたらしたのはまた戦争だった。フランスの太陽王ルイ14世が「ライン川まではフランスの領土でなければならない」という謎の自然国境論を持ち出して、スペイン領ネーデルラントを占領、オランダにも迫ってきた。イギリスはオランダが滅亡しようと知ったこっちゃないとばかりに見てみぬふり。
このとき、オランダはさすがに危機感を持ち、オラニエ公家の当主ウィレム3世を再び総督として迎え入れたのだ。辣腕の政治家だったウィレムはブランデンブルクのホーエンシュタウフェン家、そしてオーストリア、スペインの両ハプスブルク家と結んでブルボン王家を包囲し、太陽王の野望を食い止めたのである。そして王国としてのオランダが成立する。現在のベアトリクス女王も、オラニエ家の血を引いている。
そして歴史は思わぬ方向へ。1689年、名誉革命によってカトリック信者のジェームス2世を追放したイギリスは、新国王として女王メアリ2世に戴冠を要請。しかしメアリは一度これを固持し、さらなる要請に対しては、夫であるウィレム3世との共同統治でなら、という条件を出した。これにより、ウィレムはイギリス国王ウィリアム3世として、オランダ・イギリス両国の国王となり、英蘭の基礎的な関係がこのとき築かれた。
その後、オランダ王国はナポレオン戦争で併合されたがこれをしのぎ、ウィーン条約ではどさくさにまぎれてベルギーを併合(後革命でふたたび独立を許す)など、混乱した国際情勢のなかでしぶとく生き残ってきた。この時期、鎖国中の日本がヨーロッパ諸国のなかで唯一通交を持った国であり、日本に西洋の技術や知識を輸入したことは大きく評価されよう。第二次世界大戦ではおよそ5年にわたってナチスドイツの支配下に置かれた。もともと商業の町で、ユダヤ系住民が多かったオランダでは、アンネ=フランクをはじめとする数多くの悲劇が起こった。
その経験からか、ベルギーなどとともに戦後は一貫してヨーロッパ統合を推進する役割を果たしてきた。まるで自由な通交が自国の反映の基盤であるかのように。そしてまた、英独仏という西欧の3強国の戦争が、いかに自国に悲劇的な結果をもたらすかを熟知しているかのように。1992年のEU条約は、オランダの田舎町、マーストリヒトで締結された。17世紀と同じように、あるいはKLMの航空路と同じように、オランダは今もヨーロッパのネットワークの結節点として生きていこうとしているのである。
ふう。つ、疲れた。一国の歴史をなぞるのはやはり簡単な作業ではない。疲れたところで、出してもらった白ワイン(これはまずかった)をくーっと飲んで寝る。窓の向こうはまだ明るい。太陽を追いかけて飛んでいるわけだからな。トイレに行ったついでに下を見ると、まだシベリア上空だった。