第39回 オランダ・イタリア紀行 Vol.5

スヘフェニンゲンは、綴りではscheveningenと書く。このため、英語読みの癖の強い編集者の手になる旅行ガイドブックなどでは、助平人間(スケベニンゲン)、という何とも可哀相な音を当てられているときもあるが、ここでは西ゲルマン発音を優先。

スヘフェニンゲンの海岸沿い

 

 スヘフェニンゲンは、ハーグの市街地からトラムで15分程度で到着する、北海沿いのリゾートエリアだ。かなり広大な砂浜が広がっている。その砂浜沿いに、ホテルとかレストランとかが立ち並んでいる。オランダにかぎらず、ドイツでもフランスでも北海に面しているようなところでは、日光の恵みを受けることが非常に少ない。そのわずかな天啓である夏の時期、人々はスヘフェニンゲンのようなリゾート地に集まり、日光を堪能する。夏にはジャズフェスティバルなんかも開かれるらしいが、この寒々とした季節では歩く人も少ない。

スヘフェニンゲンより北海を望む

 

 暗いが、すでにこの時点で夜の8時半なのだからやむを得ない。海中に突き出しているのは展望台だが、夜が遅いので当然のように閉まっていた。

 北海という海は、見るからに淋しい。暖流の黒々とした、生命力に満ち溢れた日本の海を普段見ていると、こういう寒々しい海は「死の海」とは言わないまでも元気が感じられない。おまけに波を打ち付ける北風がけっこう冷たい。その風に乗って、かもめが悲しげに泣きながら舞っている。かもめが舞っている、ということはニシンがその下の海にいるのだろう。(ソーラン節みたいですね。)

 このくらい海に漕ぎ出したいにしえのオランダ人はどういう心境だったのだろう。湿地の地面を埋め立て、内陸から買ってきた高価な石で家を作り、北方からもらってきた木材で船を作り、この暗い海に漕ぎ出してニシン漁をやっていた、15世紀までのオランダ人たちのことだ。

 でも一方で、洒落っ気のない陸地に住んでいるぐらいなら、この暗い海に漕ぎ出してみようか、と逆に思うのかもしれない。暖かな陽射しと、澄んで生命力に満ちた海に囲まれた国の人間には、いずれにしても想像が及ばない。故郷を離れて世界に行くとは、どういうことなのか。

 

オランダ料理は料理と呼べる代物ではない、というと言い過ぎか。しかし、その後も何度もそのことを思い知らされる羽目になる。この日の夕食は、賢明にもチャイニーズ。中華料理だけは、ほんとに世界中のどんな小さな街にもある。店員さんも中国系の人だ。
 彼らもまた、海に漕ぎ出した人々である。

 夕食を友人とともにしながら、ともに日本の悲惨な現状について語る。この時期、森首相が素っ頓狂な行動と発言を繰り返し、かなり滅入っていたころである。別に日本がどうなろうと知ったこっちゃあるまい、という見解もあるのだろうが、語ってしまうところはある意味でナショナリスティックなのであろう。その苛立ちは、日本人は「日本人」として外国では認識されてしまうことと、それを説明するべき言葉やものをもっていないことに基本的には発する。

 …などという会話をしながら食事をするなんていうのも久方ぶりだなあ、ほんとに世俗にまみれた日々を送ってしまっているなあと嘆きも加わって、この日の議論はかなり白熱した。 

 オランダ旅行記とは何のかかわりもないが、議論の概要を書いておこう。結論としては、国の地政学的な位置と、規模の問題になる。

 前回にも書いたが、日本という国はとても内向きだ。それがいいとか悪いとかいうのではないが、それでも内向きであることには変わりがなく、この国は最近、そのために内政的にはさまざまな蹉跌をふみ、外交的にはいろいろと損をしている。

 まず日本という国が、思いがけず豊かな国だということだ。19世紀初頭、フランス、オーストリア、ロシア軍が激突したアウステルリッツの三帝会戦に集った軍勢は、三軍合わせても12万人程度だったという。17世紀初頭、この小さな島国の趨勢を決する関ヶ原合戦にはおよそ20万人の軍勢が集まった。資源はないが、土壌は豊かだ。今では日本の人口は1億3000万人で、国内食料生産だけでこれを養うことはできないだろうが、それでも、オランダの1500万人という人口に比べれば、多数の人口を涵養できることは間違いない。

 オランダは1500万人だ。

 人口の大きさの違いは、自国内でマーケットを確保できるか、ということに帰結する。たんに経済的な意味での商品のマーケット、というにとどまらない。たとえば、ヨーロッパ統合は現代のハイスピードかつ大量の経済の動きに合致したマーケットを確保するための政治的な動きに他ならない。また、ヨーロッパの文化人が英語を使って活動することが多いのも同じ理由による。すなわち、人口1500万人の国では、オランダ語の小説を書いても食べていくのは難しいだろう。

 幸か不幸か、日本は昔から人口が多く(それゆえに貧しかったのだが)、国内市場でまかなうことができた。英語で小説を書く日本語の作家がいないのはそのためだ。あるいは、英語で自分のポリシーや、政策のコンシステンシーを説明する政治家がいないのはそのためだ。才能が無いのではないと思う。その必要に切迫されていないのだ。それゆえ、世界的に行動しようという人はアメリカに行くしかない。日本で英語を駆使しても、それはスノビズムにしか見られない。

 国内にあって(物理的な意味ではない)活動している限り、英語を使っても国際的な活動範囲は得られない。宮沢首相が嬉々として英語を話し、国辱ものの番組出演を果たしたことは忘れ難い。一方、ほんとうに国際的に行動したい人は、日本を出て活動するしかない。たとえば、ハーグの裁判所で働いている目の前の彼女のように。

 僕はどうだろう。日本の現状に対してさんざん苛立ってはいるが、さりとて国の外へ出て働こうという意欲も意志も体力も、恐らく能力もない。その弱点を他人に対し手もまた自分に対しても補うため、かようにスノビストとしてのスタイルをとろうとしている。
 だが、日本にいて、日本的に考え抜くことで国際的な言葉を投げかけることはできないのだろうか。ほんとうなら、できるはずだと信じたい。しかし、場所が思考にもたらす影響力は大きい。スピノザがアムステルダムで、カントがケーニヒスベルクで、マルクスがロンドンで思考したように。
 果たして今の日本に、それだけの場所の力があるのだろうか?

 料理は、鶏肉を頼んだ。けっこうスパイシーな料理だった。北海を挟んだ向こう側、イギリスでは口蹄疫が大流行していて、牛も羊もまったく人気がなかった。バーガーキングですら、チキンバーガーを売り物にしていたほどだ。

 緯度が高いので容易に日は暮れないが、時間は午後10時にさしかかっていた。もはや浜辺に人影はなく、シーズンオフであることもあって、公営のカジノ以外は町全体が寒々しくなってきた。店を出て、トラムの停留所にたどり着くまでに、大人ひとり、子どもひとり、犬一匹と会っただけだった。

 トラムに乗って住宅地へ戻る車中で、明日について語る。幸い、彼女は明日も休みが取れそうだ、というので、行動をともにすることになった。だがアムステルダムやデルフトでは、ひとりでも容易に足を伸ばせそうなところでつまらない。
 彼女の口から意外な地名が出たのはそのとき。
 「マーストリヒト」

 ひとりでオランダを旅にきていて、よほど好きな人間でなければマーストリヒトなどへは向かうまい。これも国際関係論出身の友人と歩いているがゆえの縁起である。

 というわけで、彼女の言葉をきっかけに、翌日はオランダのど田舎、マーストリヒトへ向かうことになったのだ。 

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