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第41回 オランダ・イタリア紀行 Vol.6
3月4日の朝。
ハーグの町は意外と海に近い。3回の、屋根裏部屋のような宿(しかし快適だった)の窓を開けると、街に立ちこめた朝靄がわずかに潮気を含んでいて、ニシンを追っているのだろうか、カモメの鳴き声が間断なく遠くから聞こえてくる。
珍しく長距離の飛行機でぐっすり眠ったおかげで、時差のつらさはほとんどない。これもビジネスクラスのおかげだろうか。
朝食はジンジャー入りのパンで、これにたっぷりとバターを塗って食べる。それと、コロンブスのもののように立った半熟卵。美味ではないが、朝食にはふさわしい簡素さだ。家のご主人であるフリックさんの手製である。フリックさんは昔は先生だったそうだが、いまは白髪の、好々爺のオランダ人という感じである。好々爺といっても人懐っこいわけではない。ただ、会話をしていても知的で気持ちがいい、ということだ。オランダ人的な好々爺とはかようなことを言うのだろう。
「さて、今日はどこへ行くのだね」
と彼が聞いてきたので、
「マーストリヒトまで」
というと、
「あそこは変な街だからねえ」
と言って、フリックさんはひょうきんな顔をして見せた。マーストリヒト、といってぴんと来る人は、ちゃんと新聞を読んでいるか、国際関係によほど関心がある人である。それでも、この古い町の名が世界中に有名になったのは10年前のことだから、覚えている人のほうが珍しいかもしれない。
1991年、オランダ南部の町マーストリヒトでEU(ヨーロッパ共同体)設立のための条約が調印された。ヨーロッパ統合の夢は昔からあったが、戦後それが欧州経済共同体EECを経て、共通外交・安全保障政策・司法、内務協力・そして何より目に見えやすい形では単一通貨ユーロの導入、といった、連邦国家に近づく政策を推し進めた条約が締結された街だ。以後、紆余曲折を経ながら、日・米・欧の三極世界が構成されつつある、と言っていたのは10年前の話で、現在となっては日の凋落振りがめだつばかりだ。この次は中国か。
それはさておき、なぜマーストリヒトが条約の舞台になったか、ということである。正直なところ、EU条約の締結地という知識はあっても、マーストリヒトがオランダのどこにあるかトンと知らなかった。

これがオランダの地図。ほぼ平行四辺形に近い国土にあって、盲腸のようにひょろりと南に流れ出て、ドイツとベルギーに窮屈そうに挟まれた部分がある。ここがマーストリヒトだ。スキポール空港やハーグの空港からも小型ジェットが飛んでいるが、アクセスに時間がかかることもあり、鉄道で行くことにした。駅で彼女と待ち合わせ、9時50分発の列車に乗る。時刻表を見ると、10時45分にマーストリヒトに到着するはずだった。海岸から山間の南端までおよそ2時間。実にいい規模の国土だ。
マーストリヒトは、オランダでいちばん古い町である。
まだオランダの国土のほとんどが湿地だった頃の話だ。アムステルダムはまだ干潟、ロッテルダムはライン川の水に埋もれていた頃、この地にやってきたローマ人は「低地ゲルマニア地方」を統治するための拠点を、山間の丘陵地に定めた。マース川がゆるやかに削った、みるからに穏やかな場所である。
皇帝アウグスツスは、川の名前から、この町をマーストリヒトと名づけた。マース川の渡し、という意味である。電車は走っているうちに、山が見えてきた。どこまで行っても平地が続く干拓地のアムステルダムやハーグ近郊と、それだけでも違うことがわかる。
定刻にマーストリヒトに着いた。

古い町だけあって、駅舎からして何やら古びている。何でも駅舎は戦争を3回生き延びてきているそうな。3回というのは、ベルギー独立戦争、第一次大戦、第二次大戦のときだ。面白いのは、戦間期にフランス軍がラインラントに進駐したときにも、ここにオランダ軍がやってきて一触即発になったのだという。
さて、この日の問題は雨だった。冷たい雨がしとしとと降っていたが、かさを出すのは面倒くさくなって濡れ鼠になって歩いたのだ。
マース川の護岸は石造り、その橋も石造りで、御伽噺に出てくるヨーロッパ中世の町のようだ。マース川はもっと小さな川を想像していたのだが、川といえば清流を思いつくのは僕が日本というせせこましい国に生まれたせいで、ヨーロッパ河川は基本的に船が通れるものなのだ。そしてその国際管理から、国際関係が生まれた。橋を渡って市街地に入ると、フリックさんが「変な町」と読んでいた理由がわかってきた。あんなにしゃれっ気のないハーグに比べて、マーストリヒトはたいそう古い町並みが残っていて飾られている。道の石造りも、ハーグのほうが新しいはずなのにぼこぼこになっているのに対して、マーストリヒトは中世の道がいまだしっかりと使われている。
そして何より、建物を見れば分かるように、この町はフランスふうである。代表的な新教国オランダにあって、この町だけはカトリックの町である。白い石造り、尖った屋根の町並みが、ドイツ文化圏ではなく、フランス文化圏であることを示している。
古代から低地ゲルマニア、フランドル地方の中心都市だったマーストリヒトは、中世都市国家の時代には交通の要衝として栄えた。地中海沿岸に点在する商業都市へニシンを、毛織物を、木材を運ぶ商人たちは船でマース川をさかのぼり、ここで船に積み替えて街道へと入っていった。あるいは、地中海を通して運ばれてきた東方の貴重な産品がここで船に積み替えられ、オランダ、フランス、ドイツ、イギリスへと運ばれていった。諸民族の住む境界に位置し、ヨーロッパ内陸交通の要だったのである。いまでもマーストリヒトは、フランク帝国の古都アーヘンや、ゲルマンの代表的な植民都市ケルンにほど近い。
こうしたコスモポリタン的な都市は、18世紀になって国民国家という新たな化け物がやってくると受難の時代を迎える。ネーデルラント地方がスペイン=ハプスブルクとの激しい戦争を経て独立する時、新教国オランダだけが独立し、旧教圏だった南部10州はスペインの統治下にとどまった(後のベルギー)。そして、オランダはこの独立のドサクサの中で、旧教圏だったマーストリヒトを抑えた。マーストリヒトを抑えることは、当時、ネーデルラントの主導権を握るかどうかというほどに大きなことだったのである。オランダという国はいまでこそEU統合の推進役であり、おとなしい平和主義者に見えるが、昔は明確な支配勢力がないだけに(それだけ自由ということも言えるのだが)けっこう阿漕な外交政策とか戦争とか人種差別とかやっていた。その一端を垣間見ることができるのがベルギー併合で、ナポレオン戦争後のどさくさに紛れてオランダはベルギーを占領してしまい、ベルギーによる激しい独立戦争を引き起こす。
オランダとベルギーの戦いは当然、ネーデルラント独立のための八十年戦争ほどでなくとも、新教対旧教の色彩を帯びている。そして、新教国オランダにありながら、ヨーロッパでも指折りの古きカトリック文化の街マーストリヒトは、その帰趨をめぐって激しい戦いの舞台となった。結局、この戦略上の要衝をオランダが保持して現在の国境が確定した。その後、鉄道や飛行機など交通機関の目覚しい発達によって、河川交通の要衝だったマーストリヒトの重要性は下がった。また、ベネルクス諸国の平和が保たれるようになり、第二次大戦を経て独仏という二つの強国が協調するにいたって、その戦略的な重要性もほとんどなくなった。
いま、マーストリヒトの町は、中世の面影を色濃く残したまま、17世紀から忘れられたようにしてたたずんでいる。ハリーポッターか何かが出てきそうな石造りの壁、家、そして道。

川を渡り(恐らく川が防衛線だったのだろう)街の中心部に入っていくと、より中世の色彩が濃くなる。カトリックの街だけに、街の中心は教会である。街には二つの大きな教会がある。
聖セルファース教会。いかにも中世の信仰を匂わせる名前と建物だ。10世紀、まさに中世の始まりに聖母教会としてこのおおきな教会は作られたという。まだ教皇権が確立する前の素朴な巨大さである。
キリスト教がいつからどのようにヨーロッパの中で支配的な力を持つようになったのか、簡単に述べられるほどの知識を持っているわけではない。しかし、キリスト教がいくつかの転換点を持ったことは確かだ。
はじめ、ガラリアのイエスがキリスト教を解き始めた時、彼の主張は、ユダヤ共同体ないに流布する律法への批判を含んでいた。柄谷行人ふうに言えば、ユダヤ共同体の「道徳」に対して「倫理」的批判を持ち出したのである。しかし、倫理的批判は無限の批判を伴うという意味で厳しいものである。1世紀の聖パウロはキリストや使徒の行動をまとめながら、次第に教義を確立していく。教義は幾度かの激しい宗教論争と異端尋問を経て、固定化された。これがまず第一の段階だ。
固定化された教義は秘匿化される。それは、上層階級の形成及び腐敗と、下々の者への流布の簡易化をもたらす。中世と呼ばれる時代はそれであった。前者への批判としてアッシジのフランチェスコらが始めた修道院運動があるし、後者については、聖人信仰や聖母信仰などを通して、ヨーロッパの農村共同体にキリスト教が根付いていく時代であった。
その姿がこの街にはまだ残っている。街には、中世の雰囲気が濃厚に漂う。街の中心をなすのは、聖セルファース教会である。


左の写真がフライトホフ広場で、ここではカトリックの町らしく教会の前の広場に縁日が立つ。手前の塔の奥に見える赤レンガの教会が、聖セルファース教会だ(写真右)。手前の2本の塔がある教会がそれ。ちなみに左奥のさらに高い尖塔の教会は「聖ヤンス教会」といい、別の教会。なぜこんなに近いところに二つの教会が?と思って聞いたら、ヤンス教会のほうはプロテスタントのための教会なのだそうな。
聖セルファースはマーストリヒト最初の大司祭だが、没年は何と西暦384年!掛け値なしの「ローマ帝国」の司祭だったのだ。その彼がこの地に葬られたのを契機に、教会が作られた。![]()
これがセルファース教会の入り口。イエスを中心に聖人たちが祭られているゴシック様式である。アップでは取れなかったが、顔が気持ち悪いぐらい彫りの深い顔なのだ。さすがフランク族の末裔たちが作った街。ただ、こんな田舎のゴシック様式だから、けばけばしくなくてよい。建物は11世紀から15世紀にかけて作られたそうで、まさに中世都市の中核にふさわしい。
教会に入館料4Gを払って入る。館内は残念ながら撮影禁止。目玉は、聖セルファースの黄金の等身像で、これは街の人々の崇拝の対象であり続けた。聖遺物箱の中には、セルファースの心臓が入っている、らしい。聖人の一部を崇めるというのはカトリックの伝統だが、これも、中世になって教会が町に根付いてからのことだ。
教会の中は螺旋階段になっていて、下へ下へと降りていき、一番下にセルファースの墓所がある。下に降りていく過程で、これが何世紀ごろの地層、これが何世紀ごろ、と表示されているのがなかなかに面白かった。国が歴史を持つとナショナリズムになってしまうが、こういうお国自慢は聞いていても楽しい。このあたりまで来ると、マーストリヒトをオランダの田舎町だと思っていた間違いに気がつき始めた。ここはオランダ有数の観光地だが、単なる観光地ではなく、歴史がそれほど古くはない(といって600年はあるが)オランダにとって、大事な歴史的遺産なのである。だから、オランダ人はこの街を訪れるのだ。
ところで、聖セルファースとはいったいいかなる司祭だったのか。残念ながらオランダ語の表示ではまったく解せなかった。むろん、帰国後も調べていないのは怠慢である。