第43回 オランダ・イタリア紀行 Vol.8

オランダで三日も暮らしていると、お国柄というのがいろいろわかってくる。
 他のヨーロッパ人に言わせれば、オランダ人の国民性は「ケチ」なのだそうだ。英語で「Dutch Account」といえば「割り勘」のことだが、オランダ人は決して人におごったりしないけちな奴らだ、という意味合いがこめられているようだ。たしかに海の乞食とか言われて、町並みも華やかさがなく、質素極まりない。ひとつには、新教の国だからということもあるだろう。歴史的に言えば、湿地帯に作られた国なので、昔からレンガとか石とかの建材を非常に惜しんで使っていたのだそうだ。

宿より見るハーグの住宅街。こんな感じの家がどこまでも続く。ただ、家と家の境目はしっかりと区切られており、道側と奥のほうにも必ず庭がついているので、豪華ではないが、貧相な感じもしない。
 それにしても、カーテンを惜しんでいるのは気が知れない。そう、オランダの一般的な家庭には、この寒い気候にもかかわらず、薄いレースのカーテンしか存在しないのだ。
 ということは、1Fの暮らしは外を歩く人々から丸見え、ということになる。事実、宿にしていたFlickさんの家に帰っていると、近所の家がみんな見える。3月のオランダは著しく寒いので、そこを歩いている人間が、暖かな照明に包まれて食事をしている家庭の風景を見させられると否が応でもホームシックを掻き立てられるのだが、それが目的で道路に向かって家の中をご披露しているというわけでもあるまい。敬虔な新教国のゆえか。我が家は神の御心に叶った、こんなに質素な生活をしておりますよ、と言っているのだろうか。遠き国の民にはわからんよ。

 ヨーロッパの他国の人々は、おおむね、オランダ人のことを軽く馬鹿にしている。だがオランダ人のほうはそれをいっこう気にしている気配はなく、淡々と暮らしているように見える。しかしどうやら、ドイツ人のことだけは嫌いなようだ。それはもちろん、第二次世界大戦のときに突如ドイツ軍がオランダを占領して散々な占領政策をやってしまったからで(後述するアンネ・フランクの話などもそれゆえだ)、特に体験者の間にはドイツ嫌いが根強い。目がさめると言われもなくベンツが壊されてしまっていたり、というようなことが今でもあるようだ。
 え?日本?日本はねえ。基本的には親日的な感じの人が多かったが、なにぶん、オランダの植民地だったインドネシアに攻め込んだという過去があり、そこでチビの日本人に痛い目に遭ったという恨みと、それが原因で植民地を失ったという恨みはあるようですね。その昔、昭和天皇がご訪欧あそばされたとき、オランダは確か「ヒロヒトラー」がやってくる、とかいって大反対運動が盛り上がって、女王陛下がご会談にならなかった、というような事件がありませんでしたっけ。まだ1970年代のことですけど。
 でも日本車も走っていたし。世界に共通して言えることですが、戦争を知らない子どもたちが大きくなるにつれて、そういう恨みつらみも風化していくようですよ。
 車といえば、オランダにはあまり有名な車メーカーはない。街を走っている車を見ると、(それでも)ベンツが多かった。日本車も日産とトヨタは見かけた。しかし日本車よりは現代(韓国)の車が多かったように思う。オランダ人が韓国のことをどう思っているのかまでは知らない。つながりがあるのか?韓国のサッカー代表チームの監督がヒディングというオランダ人だ、ということぐらいか。

 ご近所のローバーについていたナンバープレート。ユーロ共同体共通のプレートらしく、12の星と「NL」という国号が書かれている。やはりこの国はユーロ統合の旗振り役なのである。

 オランダでさらに印象的なことといえば、みんなでかい、ということだ。でかいし、ノッポである。
 それも男性がでかいだけならオランダだってフランスだってアメリカだって変わらない。外国人男性と話すときに顔を見上げるのはいつものことだ(と、170センチの日本人は僻む)。しかし、オランダは女性もでかい。背の高さで言えば男女差があまりないのではないか。オランダ人の平均身長は約190pという。2030年ごろには平均身長が2mを超えるという嘘みたいな予測もあるから、驚きだ。
 ただし、女性に化粧っ気はない。ほんとにない。服装に関してもだいぶ無頓着である。町と同様、貧相ではないが、華やかではない。パリのようにはっとして、思わず振り向いて後姿を確かめたくなるような「美人」にはとんとお目にかからなかった。(もちろん、東京でもそうそうあることはないけれども)。 

世間話はこれぐらいにして。3月5日、である。
 またたくさんの朝食をたらふくいただいて、今日はアムステルダムへと向かう。アムステルダムは、オランダの首都だ。ハーグからは、快速電車でざっと40分というところか。

 ハーグ中央駅からアムステルダムへと向かう。逆光できれいに撮れなかったが、車窓からの風景。低地から水をかき出し、外へ出すためのクリークがずーっと続いている。その向こうは畑か牧草地になっている。牧草地で羊が草を食っていたり、水路に白鳥が浮かんでいたり、そこで風車がゆっくりと回っていたりすると大変のどかだ。ヨーロッパ共同体のど真ん中にいるのだが、ひとたび都市部を離れるとそういう光景が続く。やはり人口1500万、いい具合の国なのである。

 さて、アムステルダム駅に到着。ハーグよりもがぜん、賑やかで、人が多い。駅前の広場では大道芸もやっていた。そして、ハーグではあまり見かけなかった日本人観光客の姿をたくさん見かけた。

 アムステルダム中央駅は1889年に、ペトルス・カイパースの設計によって完成した由緒ある駅舎だ。東大の建築学の権威だった辰野金吾博士が1914年、これをモデルに東京駅を作ったことはよく知られている。二重橋側から見た東京駅とよく似ているでしょう。右側の写真が構内なのだが、これも簡素なつくりである。
 EUの旗振り役であるオランダにとって、この駅はヨーロッパ鉄道網を結ぶ基点駅でもある。そのため、オランダ国鉄のみならず、ブリュッセル行き特急列車(ブリュッセルからユーロスターに接続する、ブリュッセルまで2時間)、ケルン、フランクフルトとを結ぶドイツ国鉄の特急電車ICE(フランクフルトまで3時間)、最近デビューしたばかりのTGV改良型パリ行き特急列車「タリス」(パリまで4時間)などの電車が常に出入りしていて、鉄道ファンなら垂涎ものである。
 驚いたのは、アムステルダム発ベルリン行き夜行特急なるものまである。ベルリンまで8時間。明日の朝にはベルリンについているわけだ。思わず行ってみようかな、と思わせる距離だ。

 さっそくトラムへ乗って街に出る。これほどの大都会でありながらアムステルダムには地下鉄が通勤用の一路線しかなく、市内の移動はほとんどがトラム(路面電車)かバスに頼ることになる。
 以前のNY旅行記でも書いたことなのだが、僕の海外旅行の目的の過半は美術館または博物館めぐりに費やされる。というわけで、まず向かった先はアムステルダムの国立博物館だ。

アムステルダム国立美術館は、アムステルダム中央駅と同じペトルス・カイパースの設計によって作られた。だから外観は非常によく似ている。

 手前の道は工事中であるが、いたるところで舗装しなおしの工事が行われていた。
 中は非常に大きい。もちろん、メトロポリタンとかルーブルほどではないけれども、とても容易に見て回ることができるものではない。僕が入ったのは謎の入り口で、どうやら館内展示としては場末の怪しげな仏教美術が並んでいた。おそらく、植民地統治時代にインドネシアから奪ってきたものであろう。
 ここから先は、写真撮影禁止。したがって、美術館のサイトを使いながら、ご紹介していこう。

 まず、この美術館の所蔵品の中で馬鹿でも知っている有名な絵が、これだ。この絵の前に、日本人観光客の人だかりができていた。

 ご存知、レンブラントの「夜警」である。思わず圧倒された。なんに圧倒されたって、その大きさに、である。3m63×4m37もあるのだ。図工の教科書とかいろんな本で見てきたけれど、こんなにでかいとは思わなかった。でかいだけに、カンバスの上の油絵の具が息遣いのように見える。
 この絵は、美術館の正面から入って大階段を昇った2階にある。階段を上りきったところから広い廊下があり、もちろんその両サイドにもいろんな絵が展示されているのだけれども、目は必然的に、廊下の突き当たりにあるこの巨大なカンバスへと向かう。一歩歩くごとに、絵が大きさを増し、細部が見えてくる、という展示趣向になっている。商人国家オランダで、商人たちを主人公として描かれた絵。市井の人々に初めてドラマを持たせた絵。まちがいなく、近代市民の力強さを伝える絵。この絵はオランダでは国宝級の扱いを受けていて、ナチスが攻め込んできたときにははるばるマーストリヒトの洞窟で隠していたという。

 サイトの英語を読んでいただければわかることだが、この絵の正式タイトルは「フランス・バニング・コック&ウィレム・ヴァン・ロイテンブルフのカンパニー」というもので、レンブラントはこの実在のカンパニーから、メンバーをかっこよく描いた記念の絵を依頼されたわけだ。王侯貴族がお抱え絵師に肖像画を描かせるのと、動機は変わらない。
 ところがレンブラントは絵の大半を豪快に影にしてしまった(そのために、影になった人物から猛抗議を受けたというぐらいだ)。そして影の中に鋭く光を刺し込み、特定の人物をほのかに浮かび上がらせてしまった。簡単にいえばスポット・ライト効果だ。この効果は実に巧妙である。この絵については本も読み、写真もさんざん見てきて予備知識をたっぷり入れていったにもかかわらず、僕はこの絵の前にたって、無意識のうちに天井を見上げた。そう、天井にスポットライトを探したのだ。もちろんそんなものあるわけがない。しかし、本物の白熱球のスポットライトが当てられているのではないか、と思うくらい見事に当てられているのだ。

 そのまま、この絵の前に立ちながらいろいろと考えていた。問題は、光源の位置である。もちろん僕は絵画学が専門ではないから、光源の位置というのは技術的な問題ではなくて、思想的な問題である。
 この絵にはスポットライトがあたっているわけだから、たとえば太陽光に照らされる場合と違って、光源が特定されるはずである。しかしながら光源は、この絵の世界の内側に存在するはずでありながら、あきらかに、絵の外側から照らされている。
 異なる別の例をあげよう。ダヴィンチの「最後の晩餐」の場合、光源は描かれていないが、建物の左側の窓、斜めから入り込んでいる。これは、斜め4分の3を向いた肖像画を開発し(「モナ・リザ」がそうである)、もっぱらそれを得意としたダヴィンチのテクニックだが、その遠近法テクニックに無限消失点の魅力を感じても、光源については疑念を抱く余地がない。これがダヴィンチ以前の宗教画になれば、光源を直接絵の中に(たとえば太陽、たとえばランプ)として書き込んでいることだろう。

 だが「夜警」の場合、光は絵よりも観察者側から照らされているように描かれている。僕が無意識に天井を見上げて光源を探したのはそのためだ。「最後の晩餐」が、カンバスをフラット面として絵の奥へ奥へと延長されていくのに対して、「夜警」は絵のこちら側へと世界を延伸してくる。光源もろとも、こちら側にたつ観察者を世界に巻き込んでしまう力がある。

 絵画の近代は、ダヴィンチに始まったといわれる。2次元的な宗教画の世界から、「晩餐」に代表されるように、遠近法を用いた3次元の世界を切り開いたからだ。無限消失点を利用した遠近法とは、この空間が3次元でかつ均質であり、そこに宗教や感情によって影響されるような歪みや差異が存在しない、という新しい認識の別名だ。それはすなわち、客観的描写であることの別名でもある。だがそこには、われわれが知っている「客観性」というのには何か足りないものがある。
 レンブラントなどこの時代のオランダの画家たちは、ダヴィンチが切り開いた「近代」からもう一歩先を歩みだしているように思える。それは「夜警」に即して言えば、観察者側からの光源によって照らされた像が、遠近法的構図の中でどのように結んでいるかを問う意識である。つまり、絵画を単なる観察の対象物として捉えるのではなく、その観察する主体を意識せざるを得ないような何かが製作者のなかに生まれているのだ。
 この絵を見る者は、自分の立っている場所を意識せずにはいられない。より端的には「見ている自分」を意識するのである。観察者は絵が作り出す世界の中に存在している自分を認識しながら、一方で、光源の側に立ち、目の前に展開される世界を対象物として捉えている、といういささか不思議な、自分に関する状態を意識せざるを得ない。それは製作者も同様である。その「自分に関する状態」の意識が、遠近法とともに描かれ始めたまだ幼い「客観性」を、「主体/客体」という分離を伴いながら、より「近代」的な、われわれが慣れ親しんだかたちで立ち現れるのを見ることができる。

 レンブラントは、光と影のコントラストを使ってその問題を豪快に抉るようにして描き出した。ちょっと時代を行過ぎていたその認識は、晩年の彼に不幸をもたらすことになる。だがこの問題は、「光と影」の作家レンブラントひとりに当てはまるのではない。同時代のオランダの画家であり、「光」の画家であったフェルメールにおいても、同じ問題は存在するのだ。


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